古き約定
どうしようもなく、心が塞ぐ。
巨大な海竜の頭に乗り、夜の海を渡ってきたせいではなかった。
祖国やグウェンドリーヌ女王陛下への叛意もまた、心を重くする原因とは思えない。
この欝な気分は、裏切者として自陣に舞い戻った緊張感とも、まったく関係がなさそうだ。
心が擦り切れるような思いなら、既にエルフの里で嫌と言うほど味わった。
魔法を封じられ、竹の檻に閉じ込められて、子供たちから家禽の糞を投げつけられる屈辱の日々。
『もう、やめてくれ!』と訴えることができたのは、最初の数日間に過ぎなかった。
自尊心をバキバキにへし折られ、土足で踏みにじられて、声も出せずに泣いた。
その時でさえ、このような不快感はなかった。
耐えがたい惨めさはあったが、じわじわと心を蝕まれるような悍ましさは感じなかった。
精神に変調をきたしたのは、ルデック湾より領都ルッカの港湾施設に侵入してからだ。
どんよりと纏いつく、不愉快な気配。
思考を侵食してくる虚無感。
「この地が、腐っているのか…」
マリーズ・レノアは、ポツリと呟いた。
「フン。ようやく気付いたのかい」
調停者クリスタが鼻先で笑った。
「はい。以前には、少しも気づきませんでした」
「アンタの身体に埋め込まれていた呪物は、メルの祈りで浄化された。枯れた世界樹の破片なんて代物に頼るから、不浄の気配に鈍くなるのさ!」
クリスタは無知を憐れむような口調で言った。
「素材として用いられた聖遺物に、何か問題が…?魔法術式に、悪影響を及ぼしたとか…?」
マーカス・スコットが口を挟んだ。
改造人間の被験体としては、どうにも気になるところだ。
ミッティア魔法王国の最先端技術は、調停者の目にどう映るのだろうか?
「そのような唾棄すべき邪法を魔法と呼ぶのはお止めなさい。妖精たちが気分を害します」
斎王ドルレアックは、マリーズとマーカスを穏やかな口調で窘めた。
だがグウェンドリーヌへの敵意は、剥き出しだ。
微笑んでいても、目が笑っていない。
「御一同、巡回の兵士が来るぜ!」
ヤニックが小声で注意を促した。
「聖域へと続く地下通路への入口は、もう目と鼻の先にある」
クリスタは通りの向かいに建ち並ぶ倉庫をさし示した。
辺りは暗いけれど、東の空が薄っすらと白んできていた。
夜明け前には、何としても地下へ潜り込みたい。
「調停者さまと斎王さまの隠蔽魔法があれば、どこへでも忍び込めそうだよね」
倉庫の脇に積み上げられた木箱から顔を覗かせるジェナには、慎重さの欠片もなかった。
「黙れ、ジェナ・ハーヴェイ!ただちに、そこから頭を引っ込めろ。オマエが居るだけで、どんな隠蔽魔法を使おうと台無しだ」
ヤニックの口調に苛立ちが滲んだ。
「大丈夫だよぉー。あっちからは見えやしないって…。ボスは心配性だなぁー」
「よぉーし。オマエは俺の命令に従えないんだな。よく分かった。この任務が終わったら、妖精女王陛下に頼んでオマエを再教育して貰おう。イキウメだ」
「ヒドイ…」
ヤニックに脅されて、ジェナが身をすくめた。
普段は生き埋めにされた連中を笑っているけれど、いざ我が身となれば怖いのだ。
「それにしても、まあ。よくぞここまで漕ぎつけたもんだよ」
クリスタが嬉しそうに独り言ちる。
その視線の先には、無残に破壊された倉庫と見上げるほど大きな黒い柱があった。
起動の時が来るのを静かに待つ、魂魄集積装置だ。
「メルには感謝しかないね」
絶望の千年間を思い起こせば、夢のような光景だった。
人を狂わせる高濃度の瘴気に曝されながら、クリスタの心は抑えようもなく昂る。
美貌の女エルフは、妖艶な笑みを口元に浮かべた。
かつて敵対者どもを震え上がらせた、冷酷な魔女の笑みだ。
◇◇◇◇
「聖域に入った」
地下通路を進んでいたクリスタは、そう仲間たちに告げた。
「これは地下墓地ですか…?埋葬された遺体が見つからないけど…。それとも聖堂…?」
「結界を設置するさいに、地下通路は隅まで調べた筈だ。こんな場所は知らないぞ」
マリーズとマーカスは驚きの表情を浮かべた。
「あんたらに見つかるようじゃ、話にならんよ。ここはモルゲンシュテルン家の当主のみに、伝えられてきた秘密の場所さ」
聖域の通路を歩き続け、一刻ほど。
進行方向に、歳月を経た石の扉が現れた。
「これは掠れているけれど、狼の紋章か…?」
「犬だよ」
クリスタがヤニックの間違いを正した。
「ふーむ、古代文字が刻まれた扉か…。まったく読めねぇ」
ヤニックが魔法のランプで文字列を照らし、首を捻る。
「あまり弄りまわすと、呪われるよ」
「おい。冗談じゃない!」
「侵入者除けの術式が仕込んである。経年劣化での誤作動も、無いとは言えぬ。気をつけな」
クリスタはヤニックの肩をつかみ、扉から遠ざけた。
「危ねぇな…。それにしても、どれだけ昔に作られたものだよ?」
「これを拵えたのは、ウスベルク帝国が建国される三十年ほど前かね」
「気が遠くなるわ!!」
ヤニックは顔を引きつらせた。
「ウヘヘヘ…。侯爵家の隠し部屋だぜ。さぞかし値打ちのある宝が、隠されているんだろ」
「そういう事かぁー。金銀財宝に太古の魔法具。伝説の武具。でっかな魔晶石が飾られた、聖なる宝冠とか」
マーティムとメルヴィルが、ヤニックの横で戯言を並べたてた。
「あんたらが欲しがるようなものは、何にもないよ」
「フムフム。それでしたら、何でこれほど厳重に隠されているのでしょうか?」
斎王が当然の疑問を口にした。
「ここは、人の王を葬った墓さ。いや…。死者の霊を封じた牢獄だ」
クリスタは遠い目になり、人の王と交わした約定を思い起こす。
「………くっ。人の王と言えば、我らエルフ族の怨敵!」
「愚劣王ヨアヒムか?」
斎王は瞳に怒りの焔を灯し、ヤニックは口元を押さえて呻いた。
「そう。モルゲンシュテルン家は、ヨアヒムの呪われた子孫じゃ」
クリスタが狼の紋章に手を翳した。
すると重い石の扉は、音を立てながら左右に開いた。
「……珍客じゃな」
瘴気の漏れだす扉から、この世のモノとも思えぬ声が聞こえてきた。
「よう来た。クリスタよ。結果はどうなった?」
「……人の王よ。ご機嫌は如何か?」
クリスタは一拍おいてから、挨拶の口上を述べた。
「良い訳なかろう。滅国の魔女に斬られた首が、ズキズキと痛むわ…」
「死人の癖に傷が痛むなどと、何とも贅沢なことじゃ」
「ふんっ。そんなことより、人族は勝利を収めたか?オマエはエルフ族の敗北を認めて、命乞いに現れたのか?」
「人の王は長いこと石室に封じられて、些か呆けたようだの…」
「フヒッ…。さては屍呪之王に封印を破られ、世界に狂屍鬼が溢れたか…?あらゆる種族が、滅亡を迎えたか…?これは愉快、愉快…。フシャシャシャ…」
石室に、不気味な笑い声が響く。
「……ヒッ!」
クリスタの陰から声の主を覗き見たジェナが、息を吞んだ。
大理石と思しき重厚な祭壇の上に、老人の頭がポツンと置いてあった。
大きな金の皿に、切り取られた頭部が載っている。
見開かれた眼球は、灰白色に濁り。
生気のない肌は青白く、まるで蝋のようだ。
「ボスゥー。生首が喋ってるよ」
「知ってる」
愚劣王ヨアヒムと言えば、死霊魔術の開祖である。
今さら、多少のことでは驚かない。
「勿体つけずに、さっさと外の様子を教えぬか!!」
「人の王よ。残念ながら、我らは滅びぬよ。あたしが精霊樹を再生させたからね」
「………はぁ?」
「近々、魂魄集積装置も再起動させる。死者の霊魂を弄ぶ死霊術は、これで終いじゃ。彷徨える死霊たちは、可能性に満ちた来世へと向かうことだろう」
「ぬおっ。グヌヌヌヌッ。糞ったれの魔女め。己が手で滅ぼしかけた世界を救い、得意になるか!このペテン師が!!」
「何も得意になど、なっておらん。キサマとの賭けに勝って、ほっと胸を撫で下ろしとるだけじゃ」
「死ね。くたばれババア!!」
愚劣王ヨアヒムは、金の皿をガタガタ揺らして吼えまくった。
◇◇◇◇
七人委員会の長老サラデウスは、領都ルッカに現れたと言う黒い柱の知らせを受け、頭を悩ませていた。
「はて…?このようなモノは、見たことも聞いたこともない」
「大がかりな魔術装置かのぉー?」
「地中から生えたと言うが、本当なのか?」
「それより、抜き取ることも破壊することも出来ぬらしい」
「材質を分析しようにも、サンプルを削り取れないと記載されている」
「どういうことでしょうか。意味が分かりません」
会議室のテーブルを囲み、七人委員会の面々は虚しく意見を交わす。
そもそも長老のサラデウスが頭を抱えているのだから、マスティマやセーレに判るはずもなかった。
人族の四名にとっては、尚更のこと荷が重い。
「ええい。こんなもの、考えたところで埒が明かん!」
人族のゼルゲが、胴間声で言い放った。
「三日だ。三日で、その柱が何か分からないときは…。彼の地より我が軍を呼び戻すよう、グウェンドリーヌ女王陛下に進言する」
「よかろうゼルゲ殿。我らは不眠不休で古文書を調べるとしよう」
「では、わしらは失礼させてもらう」
ゼルゲは杖をつき、ロスコフ、シュテック、ヘーニングの三人を伴い、会議室から出ていった。
「忌々しい人族どもめ。たかが石柱に臆しおって、撤退だと…。この期に及んで…。もう遅い。これまでに、何体の魔導甲冑を失ったと思うか。せめて損失分だけでも回収せねば、枢密院が承知せぬわ」
サラデウスは領都ルッカからの報告書をテーブルに叩きつけた。
バラバラになった紙片が、会議室に舞う。
マスティマとセーレはサラデウスから視線を逸らし、見て見ぬふりを決め込んだ。








