コレじゃない!
ビーフシチュー。
それは牛肉と野菜をデミグラスソースで煮込んだ料理。
フレッドとアビーは牛骨と香味野菜を大鍋でコトコトと煮込んで、デミグラスソースを作る。
『どんだけ煮込むの…?』と、メルが呆れかえるほど煮込む。
仕上げに加えるのは、赤ワインとハーブ。
デミグラスソース特有のトロミと塩味は、牛骨から溶け出した成分である。
骨髄が含むゼラチン質と血液の塩分。
デミグラスソースには、牛と香味野菜の旨味が凝縮されている。
しっかりと煮詰めたデミグラスソースを漉したら、コンソメスープで濃度を調整してから牛肉の塊を煮込む。
ニンジンや芋、玉ねぎなどは、別の鍋で塩茹でしておく。
ビーフシチューは器に盛られるとき、完成する。
ステーキとは違って、とっても手間が掛かる料理なのだ。
「もうすぐ、出来上がるぞぉー」
「美味しいよぉー」
フレッドとアビーが、食堂に居るメルとディートヘルムに声をかけた。
「さっきから、ここで待っとるわ!」
「早く、早くぅー」
メルとディートヘルムは、スプーンを手にして待機中だった。
テーブルには、既にパンや食器が並んでいる。
「クン、クン…。牛の匂いだぁー」
「ボク…。生まれて初めて、ウシを食べる。ウシ、美味しい?」
「たぶん…」
「楽しみです」
ディートヘルムが嬉しそうに言った。
もちろんメルは、樹生であった時分に牛肉を食べている。
こちらの世界に転生してからも、ビーフカレーを作って食べた。
(だけどアレは、花丸精肉店で買った仔牛の頬肉だし…。この世界の牛は、初めて食べるなぁー)
メジエール村では、牛を食べる機会が少なかった。
メジエール村の牛たちは、農作業を助ける重要な労働力だった。
畑を耕し、重たい荷駄を牽く。
食肉牛ではない。
(フレッドは、肉が硬いって言ってたよね)
なぜ、ステーキではないかと言えば、肉が筋張って硬いからだ。
煮込まなければ食えない。
年老いた乳牛や農作業中に骨折した農耕牛などが、村人たちの食卓に並ぶ。
その分、牛を失った家族には、村から見舞金が渡される。
農耕牛のステーキは硬くて、子どもや老人の歯で噛み千切れない。
仕方なく、じっくりと煮込んだらビーフシチューになった。
だからメジエール村のビーフシチューは、メルが知っているビーフシチューと違う。
多分おそらく、ビーフシチューは牛肉が硬いから作られた料理だ。
そこまでは、前世のビーフシチューと同じだろう。
でもメルは、油っ気のない硬い牛肉を知らなかった。
原初のビーフシチューを知らない。
「さあ、出来立てだぞ」
「たっぷりと召し上がれ…」
「うほぉーい!」
「いただきますぅー!」
家族そろってテーブルに着き、スープボウルに盛られたビーフシチューと向き合った。
すね肉であろう肉塊はホロホロに煮えていて、ゼラチン質もたっぷりだ。
スプーンで突けば肉の繊維がほどけるし、奥歯が抜けているメルや咬合力の弱いディートヘルムでも問題なく食べられた。
しかし…。
「コレはぁー」
何かが違った。
これじゃない感が、半端なかった。
だけど、この料理は最高の出来栄えなのだ。
よそのご家庭では、スペアリブに塩を振って齧っている子供たちも居るだろう。
いくら頑張っても噛み千切れないステーキと格闘している子供たちだって、居るはずだ。
フレッドとアビーの腕は素晴らしい。
よく頑張った。
「ぱぁぱー」
「んっ。どうしたメル?」
「このお肉さん。パソパソしとぉーよ」
「ああっ。牛だからな!」
「メルちゃん。贅沢は言わないの…。ブタさんばかりでなく、文句を言わずに牛さんも食べなさい」
「えぇーっ。こんなん、牛とちゃうわぁー!」
それは、メルが知っている食肉牛じゃなかった。
更に付け加えるなら、メジエール村では飼料を食べさせて育てる豚の方が、牛より高級だった。
メルは牛より豚が好きだ。
特に高級牛肉は、苦手な素材に分類される。
前世では病弱ゆえに、霜降り肉などを食べると腹痛に襲われたからだ。
樹生の身体が、牛脂を受付けなかったのだろう。
バターや乳製品は苦手でなかったけれど、和牛を食べると具合が悪くなった。
だがメルになってからは、『無病息災』の健康優良児である。
何を食べようと、腹痛の心配は要らない。
今メルは、無性に霜降り和牛が食べたかった。
だいぶ失礼な話だけれど、フレッドとアビーのビーフシチューを口にして、すき焼きが食べたくなった。
「じゅるるーっ!」
アビーに贅沢だと叱られても、仕方がなかった。
◇◇◇◇
メルがメジエール村で暮らし始めて、五年になる。
その間にメジエール村の畑では、大豆やサツマイモ、甜菜などの作物が栽培されるようになった。
森川家から送られてきた異世界の情報は概念界に定着し、少しずつ現象界へ影響を与えていた。
メジエール村で暮らす魔法使いや錬金術師たちは農民と協力し合い、活躍の舞台を広げた。
村の穀物倉庫が立ち並ぶ区画に立派な研究施設が建てられ、そこで味噌や醤油、大豆油なども生産されている。
タリサの両親が経営する雑貨店も、取り扱う商品の増加に合わせて拡張された。
だが、畑に長ネギを植えているのは、まだアビーだけである。
春菊やシイタケに至っては、雑木林で採取するしかない。
因みにコンニャクは、花丸ショップでなければ手に入らなかった。
和牛肉なんて、普及するまでに何年かかるか分からない。
だけど僅か五年で、メジエール村に豆腐屋さんが登場した。
これは明らかに、味噌汁の普及によるところが大きい。
メジエール村では、豚汁が大ブームである。
しかし鰹節や煮干し、ダシ昆布などがないので、メルとしては不満だった。
内陸のメジエール村では、どうしても海産物が弱くなる。
そこは商人の働きに頼るしかなかった。
商人と言えば、デュクレール商会の活躍も忘れてはならない。
メルの拙い説明に耳を傾けて、漁村から苦汁を運んでくれたのは、デュクレール商会のハンスなのだ。
苦汁がなくては、豆腐を作れない。
「わらしの店でステーキ焼きまくれば、和牛も育てられるようになるんかい?」
ほとんど無理な話に思えた。
メジエール村には、牛を食用として育てる発想がない。
和牛より養鶏の方が、遥かに定着は早いだろう。
「タマゴなぁー。コッコさんを飼って、採卵してみようかのぉー」
誰もしてくれないなら、先ず自分でやるしかない。
「ブタは飼育されておるけぇ、卵目当てにコッコさん飼うのもありデショ!」
裏庭の空きスペースに囲いと小屋を作って、雌鶏を飼うのだ。
卵に付着したサルモネラ菌はメルの『浄化』を使えば問題ないし、何なら妖精たちに頼んで熱湯洗浄してもらえばよい。
生卵でも、食中毒の恐れはなかった。
「村のひとぉーは、コッコさんのタマゴを食おうとせんから…。毎回わらしも、花丸ショップで買うことになりよる」
村人たちは、ヒナが鶏に成長してから潰す。
待っていれば肉を取れるのに、卵で食べるのは勿体ない。
そういう考えだ。
「タマゴ食べるんは、ゼイタク言われます!」
人々の習慣を変えるのは、なかなかに難しい。
帝都ウルリッヒでさえ、卵は貴族が食べるものと思われていた。
鶏卵は、お菓子作りに欠かせない材料だ。
トンカツなどの揚げ物にだって、活躍しまくる。
ここは是非とも、メジエール村に養鶏場を作って頂きたいところだ。
それまでは、メルが自分でコッコさん(雌鶏)を飼わなければいけない。
花丸ショップで何かを購入しても、現象界での普及には貢献しない。
皆が普通に鶏卵を手に入れて、トンカツを食べられるようになって欲しい。
美味しいドーナッツとか、プリンも…。
(確固たる欲望を持って自ら行えば、普及は格段に早い。サツマイモや甜菜のように…)
なので和牛は、普及に希望が持てなかった。
「ウシ…。でかすぎて、世話できません」
ションボリである。
メルは雑木林で採取してきた春菊やシイタケと、アビーの畑から引っこ抜いた長ネギを井戸水で洗った。
それらを食べやすく切り揃えてから、ザルに載せる。
植生や季節を無視した雑木林は、メルを失望させたことがない。
はちきれんばかりの欲望パワーがあれば、バナナだって採取可能なのだ。
「ホンマ、ありがたいことデス…」
メジエール村の豆腐屋で購入した木綿豆腐に、マジカル七輪でこんがりと焼き目をつける。
生前スーパーで売られていた木綿豆腐より硬いので、水切りは不要だ。
これも包丁で切って、ザルに載せる。
花丸ショップで購入したシラタキは、鍋で軽く下茹でをする。
せっかくの霜降り和牛肉が、石灰でタンパク凝固をしないように灰汁を抜く。
「シラタキの汁は、臭いし、えぐいし、嬉しゅーないわ。アク抜き大事ヨ!」
新鮮なタケノコの香りと違い、シラタキの臭いは不快だ。
どう考えても、アク味を残す意味がない。
下茹でしたシラタキは、適当な長さに切ってから結ぶ。
「くっ。めんどいわぁー」
美味しいものを食べたければ、仕方がない。
手間が掛かっても、じっと我慢だ。
清酒と味醂を鍋に注ぎ入れ、加熱してアルコール分を飛ばす。
そこに適量の醬油を加えたら、割り下の完成だ。
指先を割り下に浸けて、ペロリと舐める。
「うん。上出来デショ」
醤油の尖った塩辛さに甘みと旨味が足されて、まろやかになる。
鼻をくすぐる香りもやわらかで、食欲を誘う。
「ここに、和牛と長ネギの焼ける匂いがぁー。ウヘヘヘ」
頭の中で、ジュゥゥゥーッと肉の焼ける音がした。
幻聴だ。
「はよ、食べたいわぁー。でも、割り下を寝かさんと…」
少し時間を置けば、更に角が取れて味は馴染むだろう。
(メジエール村の畑で働いた、立派な牛さん…。その供養としてビーフシチューを頂いてから、十日あまりが過ぎました…)
メルは下拵えを終えて、天を仰ぎ見た。
「もう、エエよね…?」
十日も経てば、当てつけとか思われないよね。
ガサガサと音を立て、肉の包みを解く。
「ふぉぉぉぉぉーっ!」
霜降りだ。
見事なサシである。
まさに贅沢の極致。
他の食材とは比較にならないほどの花丸ポイントを支払って購入した、メッチャ高級な和牛さまだった。
「決して、お肉を比べようとか…。そぉー言う、罰当たりな了見ではなかヨォー。わらしはなぁー。すき焼きが、食べとぉーなっただけジャ!」
何となく、後ろめたい気持ちはあった。
亡くなられた牛さんや、一生懸命ビーフシチューを作ってくれたフレッドとアビーに申し訳ない。
それでもメルは、自分の欲望を抑えることが出来なかった。
何故なら、食いしん坊だからである。
メルの脳ミソには、『和牛』の二文字がクッキリと刻印されていた。
仔牛の焼印押しの如く。
誤字修正、ありがとうございます。
作中に於けるビーフシチューの解釈は、筆者の妄想です。
硬くて噛めないから煮込んだというのは、勝手な解釈なので本気にしないでね。w








