ラヴィニア姫、覚醒する
異界ゲートに足を踏み入れたメルとクリスタが移動した先は、現象界と概念界の間にあるハザマの世界だった。
森の魔女が庵を構えている空間が、ハザマと呼ばれる領域に当たる。
クリスタが魔法で異界ゲートに干渉し、連れて来てくれたのだ。
だが此処は、メルの知らない場所だった。
森と泉があり、空には明るい虹が架かっていた。
そよ吹く風に乗って、妖精たちが舞い踊る。
足もとに生えた草花が揺れて、メルを揶揄うように擽った。
(素敵な場所だ。何もかもが美しい…)
メルは周囲を漂う風の妖精に、そっと手を差し伸べた。
「特別な場所…?」
メルの呟きに、クリスタが微笑みながら頷いた。
この地は妖精たちが生れ出づる、聖なる場所であった。
偽装魔法を解除したクリスタは美しいエルフの姿で、メルのまえにしゃがんだ。
「これをどうぞ…」
「んっ?」
メルはクリスタから、魔鉱プレートの束を受け取った。
「精霊樹が、異界ゲートを開いたので…。あたしのオリジナル魔法を思いだしながら、そこに刻んでおきました」
「こえ、ナニ出来ゆ…?」
「プライベートゲートの記録です。メルが訪れた場所で、その魔法術式を起動させると、小さなゲートが生まれます。次からは、わざわざ歩いて行かなくても、ゲートで跳べるようになるのよ」
「スゲェー。クイスタ、感謝デス…!」
メルは小躍りして喜んだ。
なにしろ幼児にとって、長距離の旅は苦痛でしかない。
移動に必要な時間は耐えがたいほど長く、小さな身体にも負担が掛かる。
「一枚に一ヶ所しか記録できないから、気をつけてね。あと…。記録した場所を忘れたりしないよう、プレートの裏に必ずメモをしておくこと。移動できる距離は、メジエール村の端から端まで…。そのくらいだと思っておけば、ほぼ間違いないわ」
「うん。すごく遠いとダメ…?」
「とても遠いなら、そこに精霊樹を植えて上げないとね。精霊樹の異界ゲートで跳ぶのが、安全でしょう」
「植えていいの…?」
「これからは、どんどん精霊樹を増やしていかないと…。少なくとも、現象界にユグドラシル王国を造るなら、もっともっと頑張らないとダメです」
概念界にあるユグドラシル王国を強固なモノとするには、現象界にも対になるユグドラシル王国を造らなければならない。
現象界でのユグドラシル王国は、メジエール村を核として誕生するはずだった。
その話は、クリスタが以前からメルに説明していた。
「新しい精霊樹は、開拓村の近くに植えて上げると良いでしょう」
「うむ…。セイエージュあれば、ヨーセーさん増えゆ。ヨーセーさん沢山は、村の人だって嬉しいね」
「そういうことです。開拓民が妖精たちの助けに感謝すれば、妖精たちも力を得ます。それは翻って、精霊樹の生命力にもなります」
「わらし、がんばゆわ…!」
メルはガッツポーズを決めた。
多分おそらく、精霊樹を無人の荒れ野に植えても、根付いてくれないのだろう。
精霊樹と妖精、人との関係は、相身互いで支え合うモノなのだ。
(うん…。やっぱりウスベルク帝国の貴族たちは、適性に欠ける。最初は遊民たちと妖精さんが、仲良しになると良いね)
妖精たちに助けられても、ウスベルク帝国の貴族たちは感謝しそうになかった。
『自分のために誰かが働くのは当然だ!』と思っているのだから、特権者に妖精たちを預けるコトなどできない。
だからと言って、彼らを滅ぼすのは間違いだ。
人の世が栄えない限り、概念界は滅びの道を進むだろう。
暗黒時代の大量殺戮が人口を激減させ、概念界を消滅寸前まで追い込んでしまったのだ。
同じ過ちは犯せない。
「どうでしょうか、メル…。ミッティア魔法王国の侵攻を止めるためです。ここは意地を張らず、魔法学校に帝国騎士団から数名ほど生徒を採っては…?」
「それは、ぜーったいイヤじゃ!」
「何故でしょう…?」
「ヨーセーさんは、ヒトを殺さん。そぉー言うのは、させません!」
メルは頑なに首を振った。
「やがては戦争になるでしょう…。沢山の魔導甲冑が攻めてきて、大勢の帝国民が死ぬでしょう」
「問題なぁーよ。わらし、いく。やばいヨーセーさんたち、みぃーんな一緒です。ミッチアなんぞ、コワァーないわ。アホ共に、邪ヨーセーは作らせん!」
「………?」
「ヒトを怨むヨーセーさんたち、わらしの中におゆ。わらし、メッチャ強い。キゾクにヨーセーさん預けたら、ヒト殺して邪ヨーセーなりマス。暗黒時代…。また来マス」
クリスタはメルの勢いに驚いて、押し黙った。
メルは間違いなく妖精女王だった。
かつて朽ち果てた精霊樹から異界へと渡った魂は、信じられないほど立派になって戻って来た。
「御心のままに…。妖精女王陛下…」
「あいっ。心配ない。わらし、ミッチアほっとかん。ギッタンギッタンにしたゆ!」
メルの幼い顏に、厳しい決意の表情が浮かんでいた。
ピクスと呼ばれて隷属させられている、数多の妖精たちを救いださなければならない。
それは妖精女王の使命だった。
そしてメルは、取り敢えず今いる場所を魔鉱プレートに記録した。
もちろん、ラヴィニア姫を伴って再訪するためだ。
楽しくなければ、生きている意味などない。
(そんでもって、楽しいは自分で作りださなきゃダメなんだよ!)
それはメルの信念だった。
友だち、仲良しさん、大切なヒト、忘れがたい温かな記憶…。
それらは美味しいと同じで、一生懸命になって望まなければつかみ取れない特別な宝物だ。
大切に育てなければ実らない、貴重な果実である。
◇◇◇◇
約束の刻限になったので、メルはラヴィニア姫を連れてエーベルヴァイン城の精霊宮に転移した。
そこは悪魔王子が治める領域に含まれていたので、クリスタから渡された魔鉱プレートの出番はなかった。
しっかりと互いに抱き合ったメルとラヴィニア姫は、ゆっくりと光の柱を降下しながら精霊宮の様子を視界に納めた。
「なに…?」
「お人形ですね。それに沢山のお花…?」
「あれ、お菓子の家か…?」
ハテナの連打である。
精霊を祀る厳粛な聖域に、どうしてオモチャが並べられているのか。
出迎える大人たちが道化た衣装を纏っているのは、いったい何故なのか。
(バカにされている…?)
まともな身なりをしているのは、クリスタとアーロンの二人だけだった。
「妖精女王陛下、並びにラヴィニア姫よ。調停者クリスタが、ご挨拶を申し上げます」
クリスタが優雅な仕草で、跪いた。
「教導者アーロンに、ございます。妖精女王陛下、並びにラヴィニア姫に、謹んでご挨拶を申し上げます」
アーロンもまた、クリスタと同様に首を垂れた。
「妖精女王陛下よ。ようこそ、おいでくだされた」
アーロンに遅れて口上を述べたのは、ウィルヘルム皇帝陛下であった。
ウィルヘルム皇帝陛下は、跪いた姿勢でメルを値踏みした。
フーベルト宰相から聞かされていたように、妖精女王陛下は稚い幼女だった。
ウィルヘルム皇帝陛下としては、何とか妖精女王陛下を子ども扱いしたかったのだけれど、クリスタとアーロンが上位者に対する礼を執ってしまったので、これに倣うしかなかった。
『焦りは禁物だ!』と、己を戒める。
機会を待たねばならない。
ウィルヘルム皇帝陛下の手振りを受けて、ルーキエ祭祀長が背後から進みでた。
「妖精女王陛下…。我が精霊宮へ御光臨下さり、恐悦至極にございます」
ルーキエ祭祀長はウィルヘルム皇帝陛下の右後方で跪き、床にひれ伏した。
フーベルト宰相やヴァイクス魔法庁長官も、ルーキエ祭祀長に倣って床に額づく。
「あらまあ…。何と愛らしい御姿でしょう…」
アマンダ皇妃だけが、感極まったように立ち尽くしていた。
悪気はないのだろうが、礼を失した行為であった。
たとえ相手が幼児であっても、身分の上下は絶対だ。
それが封建社会と言うモノである。
「この、無礼者が!」
ラヴィニア姫の叱責が飛んだ。
「妖精女王陛下の御前であるぞ。控えるがよい」
「ひっ!申し訳ございません…」
メルから指示されていた通り、ラヴィニア姫は可能な限り居丈高に振舞った。
生まれ落ちた泡沫貴族の地位に縛られ、抗う術もなく封印の巫女姫として選ばれ、ようやく悪夢から解放されたかと思えば何処にも居場所が無くなっていた。
邪魔者扱いされて貴族社会から捨てられたラヴィニア姫の心は酷く傷ついていたし、未だに高位貴族を目にしただけで震えが止まらなくなる。
夜になり、ヒッソリと夢に忍び込む忌まわしい影は、かつてラヴィニア姫を封印の塔に閉じ込めた男たちと、同じ悪臭を漂わせていた。
それは鉄さびの臭いだ。
悍ましい騎士が身に着ける、甲冑の臭いである。
ともすれば震えそうになる声で、アマンダ皇妃を叱りつけたラヴィニア姫は、驚愕の展開をまえにしてコブシを握りしめた。
(皇妃が震えて、跪いた。私の叱責に怯えている…?)
その瞬間、ラヴィニア姫の意識を支配して来た呪いが、粉々に砕け散った。
ラヴィニア姫はメルを振り返った。
メルが静かに頷いて見せた。
メルは司教冠を頭に載せ、鮮やかなライトブルーの僧衣を身に纏っていた。
タリサから譲り受けて、『メルの戦闘服』にグレードアップしたレジェンドな幼児服である。
ラヴィニア姫の背後には、しっかりとメルが立っていた。
(メルちゃんが、私を守ってくれる。怖いモノなんて、何もありません。ハンテンだって、私の味方です。悪夢の日々は、とっくに終わりました)
ラヴィニア姫は泣きそうになるのを堪えて、真っすぐに顔を上げた。
「ウィルヘルムよ、頭が高い。ひれ伏しなさい。床に額づくのだ。妖精女王陛下の御尊顔を拝もうとするなど、畏れ多き事…!」
「ははぁー」
ウィルヘルム皇帝陛下が、精霊宮の床に這いつくばった。
「皆の者、妖精女王陛下の勅命である。しかと拝聴せよ!」
「かっ、畏まりました」
「慈悲深き妖精女王陛下は、こう仰られた…。ウスベルク帝国に、十年の猶予を与えよう。お前たちは十年のうちに、ミッティア魔法王国を併合せねばならぬ」
「じゅ、十年…?」
「ミッティア魔法王国を併合ですと…?」
「誰の許しを得て、口を開く…?」
再度、ラヴィニア姫が叱りつけた。
しんと静まり返った精霊宮に、メルの声が響き渡った。
「おまぁーら、この宮は何じゃ?」
メルは苦虫を嚙み潰したような顔で、ウスベルク帝国の統治者たちを睨み据えた。
「ひぃっ!」
「こっ、これは妖精女王陛下に、喜んでいただこうと…」
「馬鹿タレめ…。そのような戯言を信じゆか…!」
メルが怒りに震える指で、お菓子の家を示した。
答えを聞かずとも見当はつく。
子供だましだ。
だけど、メルは幼児なので、子供だましに激しく動揺していた。
(ちくしょぉー。お菓子の家だよ。ああっ。屋根のスレートが、キャラメルナッツじゃないか…。それに、数えきれないほどのオモチャ。魔法で動くのかなぁー。いいや。見るな。あんなものを欲しがるな。欠片でも受け取ったら最後、ズルズルと馴れ合いに引きずり込まれてしまう。賄賂なんかに、騙されたらダメなんだよ!)
メルは断腸の思いで、己の欲望に蓋をした。
そのコメカミには、青筋が浮いていた。
「おまぁーらを呪います。しかぁーし。十年のうちにミッチア落とせば、呪いは解けるでしょう…。出でよ、邪霊ども!」
メルの召喚を受けて現れたのは、小さくなったニキアスとドミトリだった。
屍呪之王を創造した魔法博士たちは、地下に封じられ、妖精たちにボコられて、すっかり従順になっていた。
メルに命じられたニキアスとドミトリは、黒いモヤを生みだして傲慢な貴族たちに放った。
「うあっ…。こっ、これは…」
「足が、足の指がムズムズする」
「何ですの…?痒い。はぁー。我慢なりません」
「妖精女王陛下、これは如何なる呪いでしょうか…?」
「不治の病じゃ…。呪いを解いて欲しくば、必死になって励むがよい」
それは水虫だった。
これ以降、ウスベルク帝国の貴族たちは、耐えがたい足の痒さに苦しむコトとなった。
第一部、完。
次話から、第二部となります。
長々とお付き合い下さり、ありがとうございます。
これからも、宜しくお願い致します。








