ラヴィニア姫の苦悩
ラヴィニア姫は困惑していた。
幼児ーズと別れて家路につくと、ラヴィニア姫の口もとから笑みが消え失せ、今にも泣きだしそうな顔つきになった。
ラヴィニア姫は不安と恐怖と自己嫌悪で、グチャグチャになった心を持て余していた。
(わたくし、弱くなっちゃった…)
夕日に照らされた農道をトボトボと歩く幼女の姿は、頼りなく寂しげだった。
ラヴィニア姫が築き上げた堅牢な心の防壁を叩き壊したのは、夢のなかで出会った一人の少女だった。
血のつながった両親に裏切られてより、ラヴィニア姫は幸運や奇跡を望んだ覚えが無かった。
救済を夢見て裏切られたら、自我が軋んで壊れてしまうから…。
何も期待しなければ、運命に裏切られて泣き叫んだりしなくてもよい。
祈りの言葉を紡いでも、どこかラヴィニア姫の心は空虚であった。
『ダレノ助ケモ要ラナイ。何モ信ジナイ…!』
ラヴィニア姫は強い拒絶の意思を込めて、分厚い心の壁を築いた。
援軍など欠片も期待していない。
死を覚悟しての籠城である。
ラヴィニア姫の同志はハンテンだった。
ハンテンさえ居てくれたなら、どれほど辛くても耐えきれると信じられた。
あの日。
色を失ったラヴィニア姫の世界に、鮮烈な生気を纏った少女が降り立った。
(メルは、わたくしの救世主…!)
ラヴィニア姫はメルの助けによって、現世に生還した。
だが、ハンテンは居ない。
(あの子は、ハンテンも助けるって言った!)
ちいさな子供が出来もしない約束をしてしまうのは、良くある事だった。
助けてもらったラヴィニア姫がすべきなのは、感謝であった。
約束の不履行を詰ることではない。
それでもラヴィニア姫は、『ありがとう』と素直に言えなかった。
言わなければいけないと分かっているのに、視線が合うとメルから顔を逸らせてしまう。
野菜チップスの美味しさに感動し、タケウマで片足立ちができた達成感に笑みを浮かべたのに、『また明日…!』と別れの挨拶を口にすることさえ出来なかった。
メルをまえにすると、意固地になった幼い子供みたいに、唇を噛んで俯いてしまう。
ハンテンがどうなったのか、教えて欲しい。
エーベルヴァイン城の地下に封じられていた屍呪之王は、メルに滅ぼされてしまったのだろうか…?
(メルがハンテンを殺してしまったの…?)
だとしたところで、メルを責めるのは間違いだ。
屍呪之王は存在するだけで、大勢の人々を不幸にする。
ラヴィニア姫にとっては大切なハンテンだけれど、屍呪之王が世界を滅ぼす邪霊である事もまた真実だった。
ラヴィニア姫は心の折り合いが付けられずに、打ちひしがれていた。
(ハンテンは、どうなったの…?)
どうしても知りたいのに、怖くて訊けなかった。
『恐怖…?』
ラヴィニア姫は奇跡を知ってしまった。
幸せを味わってしまった。
そして今、明日に希望を抱いてしまった。
ハンテンに生きていて欲しいと願ってしまった。
ラヴィニア姫はカヨワイ幼児だった。
失望の痛みには、とうてい耐え切れそうにないと思った。
「中途半端に、助けて…。本当に…。余計な、お節介ですわ…」
ハンテンを忘れるコトなど不可能だが、幼児ーズとの楽しい日々だって手放せない。
「ありがとうって、言いたいのに…」
だけど感謝の言葉を伝えるのが、とても難しかった。
ユリアーネ女史は帰宅したラヴィニア姫の様子を目にして、心配そうな顔になった。
「お帰りなさいませ、姫さま…。なにか困ったコトでも、ありましたか?」
「ただいま、ユリアーネ。ちょっと疲れただけです」
「そうですか…」
その場はラヴィニア姫の言葉に頷いて見せたユリアーネ女史であったが、納得など出来るはずもない。
表情筋が死んでしまったような顔で自室へと逃げ去る幼児は、誰が見たって不具合の塊でしかなかった。
「にゃぁー!」
ラヴィニア姫の後をネコスケ(ミケ王子)が、トコトコと追いかけて行った。
ラヴィニア姫を慰めるのは、ネコスケ(ミケ王子)の務めだった。
「ユリアーネさま…。ヒメさまは、今朝からあんなでございますヨ。村の子供たちに、イジワルでもされたんでしょうか…?」
「うーん。メアリが心配しているような事であれば、良いんですけど…。たぶん、それはないですね」
「あたしは、ケンカでもしたんだと思いますよ。メジエール村にも、乱暴なガキは居ますから…!」
小間使いのメアリは、夕食の支度をしながら不愉快そうな口調になった。
可愛らしいラヴィニア姫が、村の洟垂れ小僧に虐められているなら看過などできない。
明日はコッソリとラヴィニア姫を尾行して、何が起きているのか確認しようと決意するメアリだった。
一方…。
ラヴィニア姫の本性を知るユリアーネ女史は、小間使いのメアリよりずっと深刻だった。
三百年も生きたラヴィニア姫が、子供相手のトラブルで憂鬱そうな顔を見せるとは思えなかったからだ。
だからと言って原因を推理しようにも、手掛かりが少なすぎた。
(この土地には、姫さまを憂鬱にさせるようなしがらみなど…。何もないはずです!)
ユリアーネ女史は、ハンテンを知らなかった。
ラヴィニア姫が夢のなかでメルと交わした約束も、聞かされていない。
だからラヴィニア姫を苦しめている原因が、メルにあるとは露ほども考えなかった。
「ふぅー。こうなれば…。折を見て、問い質すしかありませんね…」
ユリアーネ女史はラヴィニア姫が悩みを打ち明けてくれないので、とても悲しい気持ちになった。
◇◇◇◇
カメラマンの精霊が放った探索機八号はハンテンを誘導して森と草原を抜け、タルブ川からメジエール村へと続く一本道に到着した。
それは長く苦しい道のりであった。
探索機八号のボディーは、薄汚れてボロボロになっていた。
殆どの傷痕は、ハンテンの攻撃を避けきれずに負わされたダメージだった。
ときおり派手に火花を放ち、白煙を上げる。
空中での姿勢も安定していない。
深刻なダメージだ。
「よく頑張った。偉いぞ、犬っころ。俺は感心した。やれば出来るじゃねぇか!」
探索機八号は感無量の面持ちで、ハンテンを労った。
「わんわんわんわん、わんわん。わぉーん!」
「相変わらず意思の疎通は難しいが、こっからオマエのご主人さまが住む村まで、まっすぐに進めばいい。分かるか、おい?」
「ウーッ。わんわんわん…」
「不安だ…。ちっとも、分かってねぇだろ?」
探索機八号は心配で心配で仕方なかったけれど、もう時間が残されていなかった。
「最後まで案内できないのが、心残りだ…。だけどよー。オマエが到着すれば、きっとご主人さまは泣いて喜ぶぞ。あと、ちょっとだ。チョットだけ頑張れ、なっ!」
「わんわんわん…!」
「ハンテン…。気張って、男になれや!」
そう言い残すと、探索機八号は空中で爆散した。
ハンテンとチビは、地面に墜落した探索機八号に駆け寄った。
鼻先で突いてみるが、反応はない。
ピクリとも動かなかった。
「わう…?」
「キュィ―!」
「わうっ…。うぉぉぉおぉぉーん!」
ハンテンは好敵手の死を悼み、夕焼け空に向かって遠吠えした。
そしてラヴィニア姫の匂いがする方角へ、迷うことなく歩き始めた。
プルリと尻尾を振って…。
ピンク色の丸い身体が、周囲を照らす紅い光に溶けていった。
メジエール村は、もう目と鼻の先だった。








