金蘭の契り(九)
本丸の東側を背として堀が藩城を囲い、城下町は大川の西側一帯にひろがっている。倉名山の裾野は、城の東側を流れる大川と平行するように伸び、本丸からはその低い頂が臨めた。
倉名藩には藩校があった。それは堀に架かる橋のほどちかくに建ち、藩臣の男子が元服したのちには入校するものであった。私塾や道場で優等なものは、入校のさいに代表からの推薦状をもらうことができる。藩校で功を立て、いずれ藩の重臣の目に留まるにも要のしきたりである。周吾や卯松は例に漏れないものであろう。
桐之は、前を往く新田卯松のいさましく翻る着物の袖を、ぼうっとして眺めていた。桐之らのかよう師範の道場は藩校の一町南にあり、藩校の周辺は重臣らの武家屋敷であった。師範は、周吾の父親である物頭の上役の大組頭の次男であり、藩校の付属というあつかいで道場一戸の運営を藩から任されていた。城下のどの私塾や道場でも、優秀な子弟を藩校へ送りだすことは誉れである。新田卯松は粗野で短気であるが、禄高八百石の郡代の跡取りであり文武両道の有為の少年であった。
いまや稽古の余韻は断ち切られていたものの、師範の、あの凛とした柱のような佇まい以上に心惹かれるものはなかった。すると卯松がふりかえった。
「おまえはどうしてそう愚図なんだ」
とりとめもなく考えが移ろってしまうのは、桐之のくせであった。武家屋敷街をぬけ、本丸の南側である午櫓がみえる大川のほとりにふたりは来ていた。先々代の藩主が植樹した桜木がつらなり、立夏のいまは、満々とその青葉を枝に湛え、川のほとりにかぶさっていた。
周吾が一緒であれば、卯松についてゆく桐之をとめていただろう。だが、あいにくと周吾は午後から乗馬の稽古へ行っていた。
「――――」
桐之は、あまりに剣をふくんだ卯松の目に困惑していた。
「おまえなんか、藤間がいないと反論もできねえくせに」
「おれは卯松に、なにか気に障ることをしただろうか……」
桐之はようようそう言った。以前からなにかと桐之へ絡む卯松であったが、このところとみに当たりがつよい。
「馬廻りのしょせんは四男坊だろう、おまえなんか」
桐之はますます困惑する。ふと桜葉が川に落ち、悠々とその身を流れにまかせる。青葉に陽光はきらめく。そのまぶしさに桐之の胸は痛んだ。
「なんにもうまくできないよ、卯松みたいには、おれは……。剣だって卯松とは段がちがうのだし」
だれからも目をかけてもらえない、それ以上に、己の不甲斐なさが歯がゆい、と桐之はおもった。
卯松は桐之をせせら笑った。だがその目にはありありと憎悪の光がみえた。
「図に乗るな」
「――――」
「師範がおまえを贔屓にしているなどとおもうな」
桐之は吃驚した。
「師範がおれを贔屓って? そんなわけはないよ」
「愚図は愚図らしく、そうしてなにも見ないふりをしておけよ」
「卯松……。おれはきみみたいにはなにもできないのだから、そんなに言うのはよしてくれよ」
「ほんとうに気の弱ぇやつ……」
なんでこんな気弱なやつがと、口のなかで卯松はつぶやいた。
「おまえ、女にも好かれているだなんておもうなよ」
「おんな?」
突拍子もない言葉に桐之は面食らった。「斎藤の――!」と言いかけて卯松は、はっとして口を閉じた。くそっ、くそっとつぶやきながら、卯松は爪先で地面を蹴った。桐之は卯松の異様なようすに戸惑うばかりであったが、このときのことを思い出すのは、ずっとあとになってからであった。
「ずっとそうしていろよ、おまえは」
「え……?」
矮小なものを笑うように、憎悪の火を燃やすように、卯松は言った。彼は桐之へ背を向けた。いさましく着物の袖を翻し去ってゆく新田卯松を、呆然として桐之は見ていた。
四年後、桐之と周吾、卯松はそろって藩校へ上がる。元服した十五の年であった。
【金蘭の契り 前篇 完】




