ココには何もなかった、だから誰もいなかった。
一つの面がある世界に生まれた。それは、とある箱が生まれた世界と近い世界で生まれたものだ。
それは、箱と違って文明から便利なものとして生まれたわけではない。
それが生まれたのは、一種の娯楽からだった。
文明の発展した世界が比例するように善性と名付けるような価値観、あるいは良心という土地を豊かにしようとするわけではないということだろうか。
つまるところ、そうしたものを持った生き物からすればあまり趣味がいいとは言えないような娯楽。そこで『面』は生まれた。
娯楽対象の一つ、そしてやがて面になる――その元となった生物は、特別死に差し迫るほどの何に困るわけでなかった。
飢え死にするほど、食うに困るわけではない。
裸を強いられるまでには、着るに困るわけではない。
凍死や熱中症で死ぬようなはめになるほど、住むに困るわけではない。
けれど、求めるものは何も与えられない生を過ごしていた。
誰かはその一面だけをみて、それを甘いといった。優越感、一方的に放てる独善に浸ろうともされた。
色々な楽しみ方をされる、娯楽だった。
それの視点では常に奪われる生でしかなかった。
持とうとすれば、奪われ。得ようとしても、奪われた。
否定だけが繰り返された。意味も分からず、説明もされず。生まれた時から今の今まで、それがわかる知性と精神だけは持たされて。
ただそこにいろ、と言わんばかりに。壊される。
それだけが、与え続けられるものだと、役割なのだというように。次壊すために、またある程度直される。
まるでペットのようだ。
いいや、比べるのが失礼だと感じるくらいに、それ以下でしかない。と、感じさせられ過ごす毎日。
玩具、というにも、まだ足りないように思えるような。
否定され、精神的に貶められることだけが刺激に感じるくらいに無味乾燥な日々等々、いろんな角度から弄ばれた。
そこからは、這い上がろうという意志さえ許さない。許されない。そのくせ、完全には諦めさせない。希望の絵を描かせようとはしてくる。
それがそこまで生きてこれたのは、ある種の才能だったかもしれない。それは、ゆっくりとただその全てを閉じていくことができた。閉じながら反応して生きていくことができた。それはそう、諦める才があった、そうしながら生きられる才能が、とそう言えたのかもしれない。
けれど、そう。それだけなら、諦めて、それでも生きて、最後には全部閉じて――やがて飽きられて終わり、という話だったかもしれない。
だから、それ以外の不幸だったことは。それがそうなってしまったのは、何なのかといえば。
同時に、やがて溢れるくらいの何かを思えてもしまえる才も持ち得てしまったことだっただろう。
ある種の進化か、変化か。変態か。
そうできるものを抱えていたことが。
用意されなければ、きっとそれはそうはならなかった。発揮される場所がなければ、それはただ生まれ、それなりに生き、それなりに死んで終わったはずだ。
多くの生き物が、持っていたはずの才能を発見できず、眠らせたまま死んでいくように。
そうなれるものが、きっかけと、そうなれる舞台を用意された。誰が知らずとも。求めてなくとも。
言ってしまえば、それだけ。
そうして溢れ出て生まれたのは願いである。
今まで欲しかった数々の何か、それを求めるためではなかった。
自らという存在がここから解き放たれ、羽ばたきたいという理想の翼を求めたわけでもなかった。
ただ、呪いである。
ただ溢れるくらい思った。
何もなくなれ。無くなってしまえ。無くなってしまおう。
何を得ることも許さなかったのだから、自分以外全て、そうあれかしと呪った。
それが素晴らしいのだろうと。
平等に。己も、ほかの全ても。
本体のない影のように。
無価値なものになってしまえ。
そういう願いである。
生まる日。終わる日。その当日。
変わらず他者の娯楽のために奪われ続けていたそれは、溢れる臨界に達したとわかった、その瞬間に――自分の手で己の顔面の皮を剝ぎ始めた。
そうしようと、自然と思い――躊躇いなく、止まることなく、今まで出したことのない、出せるはずもない力でめり込ませて、無理やりに。
べりべりと、テープを剥ぐようには簡単に剝げることはない。そんな技術はなかった。しかし、それでもただ、ゆっくりと、でも確実に。
途切れることなく、そうあることが正しいように、剥げていった。
その行為。
それ自体に快楽はなかった。それ自体に絶望はなかった。それ自体に希望はなかった。その行為にはもう、痛みもなかった。
そこには、行為に対するマイナスもプラスもなかった。
ただ、意志があったのみ。
なくなろう。無くなってしまおう。その願いのために。
なくなろうとした、己という存在を刻みつけるように。あるいは切り離すように。
最後の仕上げとして、己を剝がしたと叫ぶように。無くなる己の証明と、これからそうする何かの誕生と終了の証として。
はじけて溢れたものさえそぎ落とされていく。儀式のように、祈りのように、厳かさえある中に、捧げられるように。
そうして、皮を剝ぎ終えた時点でようやく――焦ったように現れた幾多の監視者たち。
監視者たちから四肢の自由を奪われた――が、それはもう意味がないことだった。
それは、その体も、はやそれとしての鼓動をやめていたからだ。
当然だ。それの意志は終わっている。そして、呪いは。その実態とは。無理やり剝ぎ、ボロボロで肉がこびり付いた皮のほうであるから。
それだった体は、抜け殻にすぎなかった。
それは、もうどこにもいない。
それだった皮が、あるだけ。
それを証明するように、誰も気づかないままに、しかし皮でできたそれは――黒く染まっていた。黒というより、影のように思える色。わずかなそれだった個性も消えていく。
塗りつぶされた黒一色のそれは、一見、面のようにも見えた。
呪いで生まれた、元は皮の、面。
染まり切ったそれが不穏な気配を放ちだしてようやくその存在に気付いたか、何が起きたかとおそるおそる近づいたものの顔に向かって、それは飛んだ。
見えない速度で転移したかのように、それを避けることはできず――気付けばそれは装着されていた。
面には、皮であったころにはあったはずの穴の数々は一つもなく――装着された様は、一面影のように、それ言自体が穴のように――漆黒がそこにはあった。
苦しいのか。痛いのか。呼吸ができないのか。
とにかく装着されたものはじたばたと、顔についたそれをはがそうともがきだし、暴れだした。顔をかくように、引きはがそうとするように。
それはどこか、先ほどまで鼓動していたそれの生みの親と同じような行動のようにも見えた。だが、結果は別である。
剝げない。
どうやっても、剥げない。その兆しもない。
面に、指がかかりもしない。ずるずるずるずる、と。ただ無意味に表面をかくだけに全ては終わる。
異様な行動をとりだした事に気付いた周りが、それを剝がすのを手伝おうとするも、やはりとれない。どうやってもとれない。それこそ、無理やり抉り取ろうともした。けれど、それすら無意味。
ただ、じたばたじたばたと、暴れまわるばかり。時間が流れるだけ。
そして、時間が経過するほどに――面の効果なのだろうか、対象が黒く染まっていっているように見える。
被った顔から、段々と。
その様に不安を抱いてしまったか、何某か悪い予感を受信でもしたのか。とっさにか、思わずか、なんにせよ手伝っていたものは全員離れてしまう。
沈黙。
苦しいのか、じたばたと、つけられたものが動き回る音だけが聞こえる。
誰も、言葉も行動もない。息苦しさを覚えるような空気。
沈黙。
誰も動かない。恐怖の縄に締め付けられでもしたというように、動けない。
やがて、暴れまわってたそれが、今までがウソだったように停止した。地面でのたうち回るようにしていたのが幻想だったように、息絶えるように。風がやむように。
ぱたり、と止んだのだ。
沈黙。
それでも、まだ周りは動けなかった。
しかし、それはそんな周りの反応を置き去りにするように――次の瞬間、何事もなかったように、それは、すくり、と、立ち上がっていた。生き物らしくない。まるで影が伸びるような動きで。
立ち上がったそれ以外の存在全てに、緊張が走った。
どうすべきか、ほかのものは悩んだ。思考が空回りしているといってもいい。
どうしようもないこれを、どうすべきか。逃げるべきか、どうすべきか。捕らえるべきか、それとも殺傷すべきか。
そんな思考の速度が行動というゴールテープを切るその前に――立ち上がったそれから、ずるり、と顔がずれて、ぼとりと、勝手に地に落ちた。
見ていたものには、まるでそれは顔がそこだけ切り取られてしまったかのように見えた。あるいは、溶かされて落ちるチーズか。
けれど、顔――面は落ちたというのに、その本体の表情は――本来あったはずのそれではない。顔面は、変わらず影のような奥行きがありそうな穴のような、黒でしかなかった。
顔だけでなく、その体も、全て。外れようが、そのまま。
全身が真っ黒になったそれは、もはやそのものを知るものが見ても、わからないだろう。
そこにあるのは、そう思わせるような、影のような何かだった。
そこにいるのは、誰ともいえない何かであった。
『×××××××』
それが、何か音を出している。どこにも音を発せるような器官はないように見えるのに、何か音を出している事だけはわかる。周りはそれに困惑する。恐怖さえ発生した。
音を出しているのはわかる、けれど、何の音か理解できない。言葉を失ったかのように、その意味は伝わらない。いや、言葉なのかどうかもわからない。ただの鳴き声か。わからない。音としかわからない。いや、本当に音が聞こえているのかも考えるほど怪しくなってくる。
ただただ、恐ろしい。
そんな気持ちを呼び起こされる。
『××××××××××××××』
それは通じないことに怒ったのだろうか。それとも、意味などないのだろうか。音が大きくなった気がしたが、それさえわからない。ただ、何かとんでもないことが起こっているようにも思えて、その場にいた全員が後ずさる。焦燥感というプールの中にいるようで、落ち着く手がかりがないことすら気付けない有様だった。
ただ逃げる、という行動すらとれない。
その中、後ずさった中に足に違和感を感じたものがいた。そして、そちらに目を向けた瞬間――地面にあった面が、影が、己の顔に向かって飛び上がってくるのをそれは見た。
それが合図になったのだろうか。
面をはじめに装着され、もはや影になったようなそれが――その場にいるものに近寄らんとするようにゆっくりと、しかし確かに動き出していた。
そこからは加速度的だ。近寄り、触れられたものは同じく皆、時間の差はあれ、影のようになっていった。
奪われたそれのように。奪われ続けたそれのように。マイナスされた結果のように。皆、差はあれど、結果的に影になっていく。面が、影が、それを増やしていく。
それは、段々と広がっていった。
段々、皆は影になっていた。
太陽が昇ろうとも、皆、影になっていった。
太陽がなくなろうとも、皆、影になっていた。
地に満ち、空に満ち、星に満ち、宇宙に広がり、全てを影とした。
全てが影になれば、そこには何もない。
影だけの場所には、本体と呼べるものがない。
影だけの場所は、誰でもない。そこには誰もいない。そこから何も生まれない。
面は、装着者を率先して害そうとするものではない。面は己と同じにしようと誘惑するだけだ。
なくなろう。なくなろう。みんな一緒になくなってしまおう、と。
なくなってしまえば、そこには希望もなければ絶望もない。恐怖もないし、痛みもない。体も心も、不安もない。
そんな、隙間から入り込み、増幅してどうしようもなくする存在。
生まれた世界を影にして終わらせた面は、世界を漂った。そうしようという意思があったわけではない。ただ、流されているだけ。
しかし、結果として色々な世界を漂った。意志はなく。近くのものを誰でもない何でもない影にしていくだけの日々。
そして、そこで、箱が生まれた世界にたどり着き――たまたま、そこにある技術は面が生まれた世界より少し上回っていて――処理、処分はできないまでも、ちょうどいいとばかりに危険物として、箱に入れられたのだ。
面と箱に、上下関係のようなものはない。ただ、面に強い意志はないから、今も箱にいるだけだった。
そこで役割を与えられて逆らわなかったのも、意味がないからだ。そうしようとも、しないとも思わない。ただ、漂うまま。役割を与えられることで、弱体化したともいえようとも。
面自体は、それに対して何を思うわけでもなかったが。ただ時折、箱の中のものを気まぐれに影にしたりもする。それが、面の意志による犯行なのかどうかはわからない。ただ、気まぐれに踏まれた影がそれだっただけかもしれない。
面に与えられた役割は、『誘惑』であった。
それは、元の機能と、変わらない。あるいは、だから受け入れたというか気にせず箱の中を漂っているだけなのかもしれなかった。
生まれて、箱に収められて。
それでも、変わらずそれは同じことをし続けていた。
それは、弱められた本来からすると弱弱しい一部となっても同じ。
小さな傷がないものはない。そこから入り込めば、そこには必ず諦めが生じる道はある。誘惑は跳ねのけられない。無限の苦痛を受け入れ、耐えられるものなど存在しないのだから――何も、変わらない。
影にして、影になって。何でも誰でもなくしていく。
次も、その次も。その面という影が無くなるまで。
そのはず、だった。




