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 不思議な空間だった。

 空間だけがあったからだ。

 他には何もなかった。音すらない。それを静寂と呼んでいいのかわからないほどに、そこには何もないことを押し付けられている。


 地面はあった。あるはずだ。立てているのだからあるに違いない。男はそう思うも自信はない。見えているはずなのに、何でできているのかはわからない。踏みしめているかどうかの自信もなぜか持てない。

 壁はなかった。どこまでもどこまでも広がり続けている。人工物も、自然物も、何も見ることはできない。そもそも、見えている景色さえ何色なのかもわからない。ただ、広がっているような気がするだけだ。地平線を見るように、直線なのか丸まっているかどうかもわからない。


 ただただどこまでもどこまでも空間だけがあったのだ。そこにいることだけがあったのだ。

 何色かもわからない地面と、何色かも認識できないただの空ではなく()だけがある。

 しかしどこまでもどこまでも不安になるような広がりがあると思い込んでいるだけで、実は棺桶のようにとても狭い場所にいるよ、と言われても納得してしまいそうな奇妙な閉塞感も同居している。

 硬いか柔らかいかもわからないあるはずの地面は、認識できない以上地団駄を踏むことさえ難しい。


 自ら以外には、誰もいない。ほかの動物の姿はない。化け物という異形の姿もない。

 むしろ、自分の姿かたちさえ、どうしてか認識できないでいる。


 つまりそれは。

 つまりそれは――


 ドツボにはまってしまいそうな思考を打ち切る。


 代わりに思い出す。

 自らという存在は、確か過去に隔離されたような病室に入っていたことがあるはずだということを思い出す。

 ここは自らが経験した中ではそれに似ている、と思った。


 いいや、いいや。

 それよりもひどいのだとすぐに気づく。慰めにもならないが。


 何せ、柔らかな壁とはいえ色はついていたし、そこでは鉄の扉に施錠されるとはいえ食事の際などはあけられたし、小窓から廊下の様子を窺ったり見える範囲にある時計を見たりすることくらいはできた。電気のオンオフという刺激――とは呼びたくないが――もあった。日に数度、人が見れないわけでもない。暴れなければ、拘束されるようなこともない。会話だって――運が良ければ、できなくもない。

 確かにそこは、ただのマットレスだけの下手をすれば人によっては刑務所以上に精神的苦痛を感じるような空間ではあったが、少なくとも今の状況よりはよかったのだ――などと気づきたくはなかったと男は思う。


 思う。

 思うこと、歩くこと。

 しかしひどかろうが結局、できることは変わらないなと思う。無意味に退院するまで歩き続けたことを思い出す。


 歩く。同じように。

 しかし何もなかった。

 そこには何もなかったのだ。


 死ぬのだろうか。このまま。

 男は思う。


 死ぬということ自体は、男としては別にどうでもよかった。

 今は率先して死のうとは考えていなかったものの、そうしようとした時間は長かったからしみついている価値観といえるだろう。


 だからこそ、

 ――死ねるのだろうか?

 と恐怖に思う。何よりそれが怖いと思うのだ。

 この空間は、その病室を思い出すからか――そういう(死の)自由は剥奪されているような感覚があった。かと生かされるということを強く感じ取れるわけでもない。

 ただ、いることだけが強制されているような。だから、病室のことを思い出しているのだろうなと男は思った。


 しかし、答えてくれる人がいない。ここには誰もいない。止めるとも、止めないとも意思を示すものがない。

 誰も答えてくれない。何も返事がない。話を聞いてくれる人もおこる人も悲しむ人も無関心の人も生物も何もかもがここにはない。目がない。視線がない。音がない声がない感情がない。人のにおいどころか何のにおいもしない。

 自分が声を出している認識すら怪しくなっていく。


 そのくせ、自意識だけはそこにしっかりと残っているのだ。

 そこにいることだけははっきりしているという地獄。


 考える。考える。

 時間が過ぎる。時間が過ぎる。過ぎているのだろうか。そんな疑問を持つくらいに。


 自分だけがそこにはある。

 自分だけが、そこにはあった。

 奇妙にだんだんと切り取り線でもつけられていくように、もはや、前向きにも後ろ向きにもなれないような自らがあった。


 とてもとても静かで、誰も騒ぐことができない切り離されたような空間。

 もし、もしもと考える。どこを見ているのかわからず、もう開いているのか閉じているのかもあいまいになりながら前を見ているつもりで考える。

 もしこれが死だとするなら。それを知っていたなら――きっと、死にたくないと自分だってそういう価値観を持ちながら生きていられたのかもしれないな、と。

 前後は逆転するけれど、そうだったら――そうだったら、こんな目にはもしかすればあっていないのだろうか、と考える。


 罰ではないか。

 罪よりくるものではないか。

 そんな益体もないことを考える。

 どうしようもないことばかりを考えるのは癖であり、ずっと救いにならないものだった。だから、やはりこの時も男にとっては何の救いにもならず。


 様々考える。

 それでも考える。

 考える。

 考えて考えたらまた考える。

 それを止めることだけができない。


 そうして、一人きりで一人に向かって溶けていく。

 自分のことを考える。それだけになっていく。

 それ以外の機能をそぎ落としていく。あるいは、そぎ落とされていく?


 どちらでもよかった。

 どちらでもどうしようもなかった。

 何もなく、一人きりでできることなんて、そう多くはないのだから。


 発狂しそうな空間の中、どうしてか少しだけ――安らぎを覚えながら閉じていく。

 そこは、隔離されたような病室にいた時間とは違う点だな、などと思った。





 それは病と言えただろうか。広がり続けるそれは観測すれば、そう見えたかもしれない。

 ただし、それは動物や植物などでとどまるものでなかった。

 地面に、空に、星に、宇宙に。人が生きて意思があると認定したもの以外にも。


 それはすべてに広がり続ける、持てば終わりの価値観のようなものである。概念であるといってもいい。それが強制的に植え付けられるのだ。

 それを手に入れてしまうとある種『壁』ができてしまう。自らという存在とそれ以外に。

 壁ができてしまえば一人でなかろうが単体になってしまうのだ。すべてが個で完結してしまおうとする。


 人は一人では生きていけない、というように。

 他の存在も、そこにある限りただ単体で永遠に存在しうるものはない。息一つできない。

 だからそれが広がれば、世界はあとはただ自ら隔離されて一つ一つが別々に閉じていくだけなのである。かかれば広がり必ず閉じる。悲劇か喜劇かも最終的には誰にも観測できない、終わったのかさえわからない、そういう終わりの形であった。


 あるいは、壁ではないのか。

 それはその価値観として存在する何かの独占欲なのかもしれない。

 それこそ、自ら以外の何かが手に入れたくて手に入れたくてしかたない何かの結果なのかもしれない。


 答えはわからない。

 それはどうしたってすべてを単体にしてしまうものだから。閉じて誰も彼もをわからなくするものだから。

 全部が単体で孤独になってしまえば、誰も質問というものさえ重力の範囲外。


 それはつまり、たまたま観測できてたまたま切り取れようが、その規模が小さくなろうが、結果は何もかわらないものだった。

 小さくすればなんとか、という推測を覆すもので、ついその瞬間観察できても次の瞬間は観測さえできないものになっていた。存在すら切り取られてしまった。

 これはそういうものだから。


 だから、結果的に、誰にも邪魔されず、一人の男が一人きりで誰にも触られず邪魔されず一人に溶けていっただけの話。そうして閉じるだけなのだ。

 それは、用意したものさえいつの間にかその存在を認識できなくされていた。これはそういうものだった。観測できなくなったという事実すら囲われて。それ以上酷くも良くもならない、それだけの話。生贄だなんだという話ですらなく。


 ただ誰と交流することも、それ以上手を出されることもなく。

 想定の外で、用意されながらそれでいて壁の外のように。


 それ以外に広がらなかったのは、運がよかったからだろうか。

 それとも、結果的にそれにすら壁を作られた結果だっただろうか。

 それとも、やはり宝箱にしまうように、手に入れたものを隠したいだけだったりするのかもしれない。

 それとも、

 それとも。


書いて

「どこにいれる話でもないっていうかなんかあれ」

としばらく置いてた話。


ってなったけど結局もったいない精神で「ええい、考え続けてもどうせそのままになるだけだ、番外としてつっこんじゃえ――それって結局いつも通りなのでは?」となった。


ということで話の流れとは全く関係ない番外でした。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] えっ、これあの白い人?の話じゃないの?! [一言] 説明なしにこんなとこいれられてたら発狂か解脱しちゃう。
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