095_継暦134年 - 135年
ビウモード伯爵家太子。
ダルハプスという存在により、大きく運命が歪み、狂わされた男。
運命だけでなく、心まで狂わされたならどれほどの救いになったか。
しかし、彼は狂うことを選べないままに、常に冷静であり続けた。
継暦134年、冬。
父上が死を選んだこと自体は不思議とは思わなかった。
体が自由に動かなくなる前に、或いは呆ける前にその命に自らで選んだ価値を付与するのだろうと、そう考えていた。
だが、実際にそれを選ばれたときのことまで考えは及んでいなかった。
『鉄の精神を備えよ。動じることなき冷たい心を持て』
父の教えによって育まれ、ビウモード伯爵家太子たるビュー、つまるところ私は常にそのように生きていた。
ただ、父が死ぬことを選んだときに、鉄や鋼のような精神を備えていた自負はあっさりと挫け、動揺した。
勿論、それを人前で──特に父上の前で見せることはしなかったが、自分自身に年齢相応の精神しか持ち合わせていないことを突きつけられた。
「太子様、お時間よろしいでしょうか」
「ヤルバッツィか。
どうした?」
お互いに忙しい身ではあるが、ヤルバッツィはその少ない時間をやりくりして私のもとに来てくれることが多い。
内心を隠しているつもりでも彼には察されてしまっている辺り、よほど弱っているのだろう。
「先日、伯爵閣下から教えていただいたことなのですが──」
ヤルバッツィは父上から教わったことの復習をするために、という名目で顔を出している。
彼が教わったことは、かつて私が教わったことでもある。
言ってしまえば、私にとって最初で、そして恐らくは最後の弟弟子のようなものだ。
学びに来たことが口実であって、私を慰めに来てくれていることがわからぬほど人の心を理解していないわけでもない。
「茶を淹れさせよう。
当時、私が残したメモの類がまだあったはずだ。
それらを探して読みながら茶を飲む程度の時間はあるか?」
ヤルバッツィは
「勿論です。是非、ご教授願いたいです」
と頷く。
口実だとしても、学びたいと思う心が嘘であるというわけでもないことは彼の態度から理解できる。
父上がそうしたように、私も全力で教えよう。
それが私の理想でもある父上に近づく道でもあると信じているからだ。
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継暦134年、冬。
少しでも呪いの影響を低減できればと計画されていた、メリアティのトライカ移住。
これはビウモード領としては最高の成果を残していた。
その理由は彼女に都市運営の才能があったことだった。
名目上、市長としての立場を与えられたものだったが、彼女は名目だけではなく実的に運営をしたいと申し出たのだ。
それが大いに成果を上げた。
呪いの影響から昏々と眠りにつくこともある妹ではあるが、
眠りについている間ですら都市がうまく回るようにと膨大な計画と予定、人員や金回りの細かいことまでを決めていた。
勿論、金勘定などに関しては商業関係の組織から雇いあげたプロフェッショナルの、
その手伝いありきではあるものの、
そのおかげもあってトライカは周辺の都市で見ても商業的な成功を得ていると言えた。
妹が眠りについたのは数日前。
長く寝続けるではなく、ときおり目を覚まし、数時間ほど身の回りのことをして再び眠りにつく。
数日の眠りと数時間の覚醒が現在の彼女の人生であった。
ベッドの側で眠るメリアティを見る。
よくここまで育ってくれた、と思う。
呪いあって、なおここまで健やかに育ってくれたのは母上の加護かもしれない。
しかし、その呪いは健やかに育った彼女の命を奪おうとしていた。
「……おにい、さま……?」
「起きたのか、メリア」
起こすつもりはなかった。
ただ、少しだけ家族の側にいたかった。
想像以上に父上に予定されている封印による犠牲、つまりは父上の死が心を揺さぶっているのだ。
私の我儘が彼女の眠りを妨げてしまったようだった。呪いによる眠りに安眠という概念があるのかはわからないが。
「はい、ええと」
「すぐに食事の用意をさせよう」
栄養なくして人は生きられない。
彼女が呪いに抵抗できているのは短い覚醒の間でなんとか生を繋ぐための行動を必死にとっているからでもあった。
「すまぬな、目を覚ましたときにいるのが仏頂面の兄で」
「何を仰るのですか、兄上。
こうして見守っててくださることを嬉しく思わない妹がどこにいましょう」
「いや、ヤルバッツィであればお前の心も暖かかったろうなと思ってな」
ヤルバッツィとメリアが婚約の予定があることは聞いている。
勿論、ヤルバッツィが父上から与えられた多くの仕事を果たせばの話だそうだが、
そもそもその話が出たのが二人ともに好き合っていることを外部的に、或いはそれとなく当人たちから周りが聞き出したからではあるそうだ。
好きでもない相手とかわいい娘をどこともしれぬものと婚約させるほど父上は外道ではない。
私もヤルバッツィであれば任せられると思っている心。
目に入れても痛くない妹に夫ができるかもしれないという事実。
当人たちより私の方が覚悟ができていない。
だが、私の考えなどどうでもいい。
メリアの人生はメリアのものであるべきである。
貴族であれば領地と家族の利益のためになるような婚姻関係を結ぶのもありだろうが、呪いを受けて更にそのような扱いをすることはどうしても父上も私もできなかった。
爵位持ちらしからぬ、奇抜な判断をすることが好きな幼馴染──ルルシエット伯爵は、私を貴族失格だと笑うだろうか。
もしかしたならよくやったと笑いながら言ってくれるかもしれない。
「ヤルバ様は今も私のためにどこかで戦っておられるのでしょうか」
「ああ、父上からの依頼をこなすためにな」
表情は暗い。
誰に言われるでもなく、ヤルバッツィが行っている仕事について察しが付いているのだろう。好いた相手ならなおさら。
「兄上……。兄上はどうかご無事で」
「無茶はせぬ。安心して仕事に励みなさい」
「……はい」
休んでいろ、眠っていろとは言わない。
それはメリアを傷つけるだけであろう。
食事にも付き合ってくれと言われ、そのようにした。
会話の殆どは私の身の回りに起こったことを話したりするばかりであった。
父上が命を使って儀式を実行する話は切り出せなかった。
これはこれで彼女を裏切っているのだろうと思いはするが、
それでもこの後に再び呪いによる眠りがメリアに襲いかかるのならばせめて、悪夢の種になるようなことを伝えたくなかった。
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継暦134年、冬。
ズェルキンという男は人生経験が豊富で、貴族が考えられないような生活をしてきた彼からは学ぶことが多い。
父上の儀式、その実行者でなければさして重要でもない話を互いに膨らませて会話を楽しんだかもしれないが、
今は儀式で互いに手一杯であった。
今日も彼と儀式の打ち合わせをしている。
儀式を行うための祭場についてだ。
儀式は魔術や請願のようにどこでも使えるというものでもないらしい。
場所を選ばずに使っているようであっても、儀式そのものは簡易にでもその場所を祭場として設定し、その場所からインクを引き上げたり、或いは染め上げたりして実行するのだという。
「本当であれば何があっても大丈夫なように街の外でやりたいところですが」
「城か」
「ええ、この土地を拓いて街として興した方は儀式の有用性を理解なされていたのでしょうな。
祭場として、土地が最も力を持つ場所に城を立てた。
土地の力を流用すれば都市防衛の要にもできましょうし、事実、この城の炉を強化するために既に使われている部分もありましょうや」
炉は貴重な過去からの遺産。
再現や復元のできない特別な品で、莫大なインクを備えた代物。
この城の炉は地下に眠るダルハプスの封印に力を注いでいるため、城で活用できる炉の力は本来であれば制限が掛かる。
しかし、城で使っている水道やインク燈などに制限がつけられているわけではない。
それは炉と、祭場の力によってダルハプスを封じているからであるらしい。
祭場でなければ、ダルハプスの封印のせいで炉では賄いきれないインクを補填するために専用の職員を何十人かを雇わねばならないことになっていただろう。
「封印にも祭場の力を使うのなら、炉の力はどうなる?
今は両者によって封印と城で使うインクを賄っているのだろう。
そこに儀式の分まで上乗せして大丈夫なのか?」
「それらの力を使うわけではなく……説明がちょっとややこしいんでさあね。
上手く表現できなくても許してくださいよ。口下手なものでしてね」
笑うところかを聞くべきかと悩むが、会話はそのまますんなりと続く。
「今回行う儀式の、その祭場となっている場所の力は仰るとおり既に使途が決まっているものでさあ。
封印そのものはガタが来ていても、燃料そのものは安定して供給されている。
つまり、発生源である祭場もまた安定しているってわけでしてね。
その『安定した場所』の上でやることに意味がある、と言いますか──」
彼は四苦八苦しつつ説明をしてくれる。
ズェルキンは儀式の運用を球に例えた。
祭場とは違う、普通の土地は完全な平地ではない。そこに球を置けば予期しない方向に転がるのと同じ。安定性を欠いている。
ビウモード城の立地は祭場として優れ、極めて安定しているからこそ、球が転がらない、というような説明だった。
「ちょっと迂遠な説明になってしまいましたかねえ」
「いや、よく理解した。
確かに炉や祭場の力を使うではなく、場をのみ使うというわけだ」
今回の儀式は父上の命を使うからこそ失敗は許されず、だからこそより安定した場所で行うのが肝要だと彼は云う。
「話に上がったからこそ改めて聞くが、
父上のお命は……封印を強めるために使われるということなのだな」
今までの話し合いで十分に理解していることだ。
それでも、儀式の中核たるこの男に聞かねばならなかった。
「元々それなり以上に強い封印はありましたが、時代を経れば封印だって劣化しちまいまさあね。
劣化が始まって、そのせいでメリアティ嬢の体調悪化が引き起こされたんでしょうな。
だから、劣化を修復し、より強固にするって閣下のお考えは正しい。正しいんですがねえ」
「正しいが、何かありそうだな」
「そうですな。まあ、ええ」
「ここだけの話にする、聞かせてくれ」
バツの悪そうな顔をし、少しばかりの逡巡を見せてから、ズェルキンは続けることにしたようだ。
「無念ですな」
「無念か」
「酒飲み仲間が失われるのは、友人の少ない私にとって、痛い打撃でさぁね」
精一杯、はぐらかした答えだ。
人の顔色を伺うのは不得意だが、内心を見抜くことそのものは不得意ではない。
父上を失わない選択肢を必死に探し、手に入れることができなかった無念さ。
年下の私が父を眼の前で失うことになるのをどうにもできない無念さ。
アンデッドたるダルハプスを倒すことができない無念さ。
そのいずれもが、手に取るようにわかる。
私も同じ気持ちだからだ。
「ただ、封印はあくまでダルハプスが悪さできないようにする一時的なもの。
数年内に解決策が見つけられねばまた同じことになりましょうな」
残酷な現実だ。
だが、誰かが言わねばならないことだった。
ズェルキンはその貧乏くじを自らの意思で引き、私に……ビウモード伯爵家に突きつけた。
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継暦135年、夏。
ビウモードにも夏の訪れを予感させる季節が来た。
今のような初夏が、ビウモードでは一番暑い時期だ。
夏の最盛期になる頃には北から風が吹き始め、気温を抑えてくれるようにもなる。
父上の遺書には葬儀については書かれていなかった。
希望がないのであれば、華やかに送らせてもらうことにする。
内外に私が伯爵となったことを伝えるためにも、金は惜しまなかった。
呪いがすっかり抑えられているメリアをはじめ、ほぼすべての家臣たちが列席している。
参列していないのは不忠者というわけではない。
この状況で襲ってくるものがいないとも限らないため、国境を防衛するための最低限の人数が配置される以上は、配置される家臣はどうあっても外せない。
むしろ、こういう状況であるからこそ篤実なものを選んだ。
先代ビウモード伯爵の葬儀はときに勇壮に、ときに安らかに、ときに楽しげに、ときに悲しげに、表情を何度も変えるようにして執り行われた。
「先代様は苦笑いするような、賑やかな葬儀だったね」
一日ぶりにようやく座ることができた私に声をかけてきたのは意外な人物だった。
「ルルシエット卿」
「やめてよ。周りに誰もいないんだからいつも通り『ルル』って呼んでほしいんだけど」
「変わらんな、ルル」
「我儘になるように育てられたからね、ビュー」
ルルシエットはここ最近では賊の被害が特に大きい地域だ。
数年前まで激しかった賊の活動も一度は収まったものの、近頃ではまた賊の活発な動きに頭を悩ませている。
彼女が有している土地は広い。
それらを広く見回り、ときに賊を撃退することで安定に一役買っていた守衛騎士の配置数が減ったことが大きな理由であるらしい。
守衛騎士は未だカルザハリ王国に忠義を向ける異質な集団。
かつてのカルザハリの国土を守るために彷徨う騎士たち。
彷徨うといっても一定のルールや、勤務体系があるかのような動きをしている。
対話は不可能。
当然、どこそこを守ってくれなどという願いも聞いては貰えない。
「炉の一つをどうしても動かさないとならなかったから、恐らくはそれが原因だろうってうちの研究者たちは云ってた」
「守衛騎士が炉を守るために各地の安定をしようと動いている、という噂は」
「偶然かもしれないけど、これ以上は試せないからなんとも、かな」
それよりも、と彼女。
「メリアはすっかり顔色が良くなったね」
「ああ、呪いを遠ざけることができたからな」
ルルもまた、呪いのことを理解している一人だ。
いや、彼女もその呪いの影響を受けている一族でもある、と言うべきか。
「そうか──ああ、よかったよ」
ちらと彼女は父上が眠る棺桶を見た。
ルルは──現ルルシエット伯爵は異質な存在だった。
異常なまでに鋭い勘と、感覚任せな生き方はおおよそ貴族の、それも爵位を持つ人間のものではなかった。
彼女の一種の放逸さは領内外の貴族の不信や反感を招いたが、その全てを黙らせるだけの実力があった。
各領内の都市や街、村の安定と発展に始まり、太子の時代から長らく取り組んだ農業関連の研究も実を結び、
お世辞にも豊穣の地などではなかったルルシエットを、今や豊穣に恵まれた地などと謳われることにまでなっている。
ただ、彼女は長くはなかろう。
彼女は我が一族の呪いを受ける一人でもある。
かつてダルハプスが伯爵をしていたころにはルルシエットとは血で血を洗うような戦いをしていたらしく、伯爵家の血を強く呪ったという。
呪いは強力ではあったが不完全な力であったようで、常にルルシエット伯爵家を呪うとまではいかなかったらしい。
それでも、時折その呪いが牙を剥いた。
当代ルルシエット伯爵は生まれ落ちてから一度も眠りに付いたことがないという。
体力や精神力、或いは思考力といった眠りによって補われるものの全ては寿命を代替としているのだと彼女当人から聞いている。
異質な天才は、短いやり取りと彼女にしか理解できない何か(インクや、呪いに関わるなにかかもしれない)を見たのか。
封印に関して父上が命を使ったことを察知したようだった。
「私とビューが一緒に遊ぶことは実は両家の貴族から反対意見が出てたんだ」
不意な言葉だった。
彼女とは幼馴染といってもいい間柄で、知らないことは殆どないと思っていたが、反対意見など聞いたことがなかった。
「そこに先代様が、
『二人こそが両家の未来を繋ぐ道を作る、これまで育めなかった友情をこそ我らを救う鍵となる。
我らにできなかったことを、二人は自然体でそれを為そうとしている。
二人の代わりに両家の手を取り合わせることができるものがいるなら、前に出よ』
……そう云ってくださったんだ」
「お祖父様の代までは酷い殺し合いまでしていたというのに、我々の代でこうして幼馴染でいられたのは」
小さく微笑みを作り、ルルが頷く。
「先代様の一喝のおかげだよ。それに我が両親も感激して今に至るまで仲良くさせてもらったってわけ。
ビウモードとルルシエットが殺し合わないで済んでいるのは先代様のお陰なんだ」
厳しさの中に思慮と、未来を思う温かな心があった。
もっと父上とは多くを語り合いたかった。
父上を爽やかに見送ることはできず、そうした未練ばかりが心に累積する。
「いつか父上のような伯爵になることはできるだろうか」
「なれるよって言ってあげたいけど、伯爵は大変だよー」
「そこは慰めて欲しいところだったんだがな」
あははと彼女は破顔する。
「少しは余裕も出てきたみたいだね。
大丈夫さ、ビュー。
私と君で、必ず時代を作ろう。平和な時代をさ」
「ああ、きっと。戦いのない時代を私達の手で作ろう」




