137_継暦136年_冬
ケルダットとディバーダンと別れ、地下へと向うイセリナ。
そこに何があるかまでは彼女にはわからない。
ただ、この感覚から来るのはこの一件に深く関係しているものである、ということだ。そればかりは確信めいたものを感じていた。
同時に、
(これほどの確信をどうして私は持っているのでしょうか)
走りながら、思考を回す。
イセリナ──かつてイセリアルと命名された彼女は自分がどこから来たのかを知らない。
どこへ行くべきかについては何者かによって定められていたが、それは過去の話だ。
今はイセリアルではなく、イセリナという個人だ。
少なくとも彼女はヴィルグラムと共に歩んだ、短い時間であってもそこで彼女は自分自身を得た。
(確信の答えがこの先にあればいいのですが)
それは祈りのようでもあった。
彼女は地下へと向かうその行いが自らの命を危険にさらしているだけなのではないかと考え、その思考を
(いいや。大丈夫だ)
そう否定した。
本当の危地の、そのどん詰まりまで来たとしても、そうなったとしても彼が助けに来てくれるはずだと自らに言い聞かせて勇気を奮い立たせる。
彼女は長い廊下を走りながら、立ち向かうための理由を思い出していた。
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ヴィルグラムと離れ離れになり、ビウモードに帰還したあと。
「蔵書の閲覧を許してくださるように掛け合ってくださったのはウィミニア様たちだと伺っています。
本当にありがとうございました」
頭を下げるイセリナに対して柔和な微笑みと態度で応じるエルフの女性。
服装はスーツと呼ばれる一部に伝わっている式典などで選ばれることもある礼服である。
カルザハリ王国の歴史においては管理局と呼ばれる少年王に絶対の忠誠を誓っていた組織の正式な衣装であった。
管理局の雷名は時間を経てなお知られていた。それは恐怖を伴うものでもある。
それ故にスーツは管理局を思わせる雰囲気が強く長い時間が流れた今でも礼服として纏うケースは殆どないのが実情であった。
イセリナはそれを纏うものであっても特に気後れすることはなかった。
風聞などに惑わされないだけの精神的な落ち着きが彼女にはあった。
「局長にはイセリナ様からの謝意をお伝えしておきます。
ですが、蔵書をご覧になりたいと仰っていましたが、一体何を?」
「自分のことに関する情報が断片でもあれば、と思いまして……」
彼女がこの世に命を得たことは秘密が多い。
イセリナ自身が知っていることは多くはない。
そこらの人間に「あなたは何者ですか?」と問いかけて「人間だ」と返ってくることはあろう。
彼女も同様だ。何者かと問われて返す言葉はある。ただ、人間が人間であることを疑問を持たず、不可思議なこともないが、彼女の場合は事情が違う。
その生命は自然発生的なものではないからだ。
(貴方は作り出された命で、それは明かされることのない秘密ばかりのこと。
蔵書のなかには求めているものがない……そう伝えることができないのもひどい話ではありますね)
スーツ姿のエルフは心では思うも、吐露することはできなかった。
蔵書が多く眠る部屋へと通された彼女にあれこれと世話を焼くエルフ。
イセリナは蔵書を読み解き、推理を重ねていく。
数日の間でそこから離れるのは数度だけ。最低限ともいえる生命としての活動のためのあれこれのときだけ。
最低限ではないものは湯浴みくらいのものだった。これは世話焼きをするエルフに引きこもるのはいいが、せめて身ぎれいにはしてほしいと言われたからだ。
浴室まで付いていき、隅々までエルフに洗われ、挙げ句百まで数えなければ出しては貰えない制約付き。
これにイセリナが毎日従うのは、彼女にとって親鳥に世話をされるような行為が実に新鮮で、心地よかったからに他ならない。
蔵書の中にズバリとイセリナ──イセリアル誕生に関わることは残されていない。
だが、彼女は部屋にある断片的なものや手記などを手がかりに自分のことを理解した。
異常なほどの集中力と滑らかな思考力はまさしく、彼女を作り出したものたちの望み通りの存在ではあったし、
この能力こそがまさしく、イセリナの元となった存在であるメリアティが生来備えているそのものでもあった。
「造成種……」
自分自身が人間でないことは理解している。母親の腹から生まれたわけではないことも。
実感などなくとも、一般的な人間とは異なる生物であるという自覚も。
だが、それが何を意味するかまでを理解するのには知識が足りなかった。
彼女は自らが何者であるかを補完していく。
「私を呪いの受け皿にするだけであるのなら、どうしてここまでの知性をお与えになったのでしょうか」
「それは──」
エルフが答えるには職分を超えた内容である。
足音。そして、声。
「私からお答えしましょう。イセリナ様」
現れたのは喪服にも似た衣──『数多の遺児のための教会』の制服であったもの──を纏った女が現れた。
ウィミニア。
イセリナが彼女に関して持つ知識は多くない。
ただ、彼女の姿は知っていた。明確な記憶ではない。おそらくは自分がこの世に作り出される頃から、どこからから彼女を見ていた。
「あなたはオートマタではあります。呪いの受け皿としての機能を望まれて生み出されたのも事実。
ですが、それは表向きの話」
「表向き……?」
「ビウモード家の皆様には理解されないでしょうから黙ってはいたのですが」
一拍置いてから、ウィミニアは言葉を紡いだ。
「貴方の仕事はもう終わっているのです。
呪いの受け皿だとか、メリアティ様の身代わりなどと、そんなことを貴方が思い煩う必要はどこにもありません。
貴方の命は貴方のもの。好きに生きる権利があるのです。何を望みますか、イセリナ」
誰もがイセリナに望むように生きろという。それを望まれる。
それによって逆に自らの枷の重さを自覚するが、悲観的にはならなかった。
むしろ「上等だ」と思えるくらいには彼女の心は強くなっていた。
その自由によってもう一度ヴィルグラムに会うことが、彼女の心を成長させ、作り出された物体ではなくひとりの人間と歩ませていた。
「私は、私が何者であるかを知ることを望んでいます」
「今の貴方は何者でもないという自認と自覚、ですか。何者かになりたいというのであれば──」
今、イセリナが自分で行っていることをより広げ、より多くのことを知り、そうして組み立てた事実にこそ答えが宿る。
ウィミニアがそのように語る。彼女の言葉がイセリナの行動力に火を付けた。
いつか答えを手に入れるために。
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多くのことを知るためにも、彼女はまずメリアティを必要とした。
トライカに来てしまえば呪いの受け皿になるなどの厄介事になるであろうことはわかっていたが、
それでもメリアティがダルハプスにどうにかされるのを防がねば機会そのものも失われる。
ただ、それらの目的は大いに狂わされることになる。
ダルハプスがトライカに現れ、混乱をもたらしたからだ。
メリアティの救出を選んだのは呪いの受け皿として育まれた結果なのか、自身の善性から来るものなのか、
或いは誰かを助けるために走るという行いがヴィルグラムを思い出させ、彼のようにするべきだと心が叫んでいたからか。
(道が長く感じる……。頭で数えている時間と体感している時間の流れが違うような)
そうしたズレを感知しながらも、彼女は走る。
やがて視線の先に扉を捉える。進む。やがて扉のノブに手が届く。
音こそ立たないが、重い扉が彼女の細腕によってゆっくりと開けられた。
異様であると表現するべきか、偉容であると表現するべきか。
「……これは、炉……?」
『炉』というものを知らない人間であったとしてもこれを『炉』であると認識させる力があったわけではない。
彼女はこれを知っていた。
作り出された命故に、知識もまた焼きこまれていたからだろう。
地下に備えられた『炉』のために用意された一室には巨木が天井を押し上げるような形で存在していた。それが元々そうした形であったのか、別の形をしていた『炉』がこのような形状になったのかまではわからない。
「そうだ」
声が響く。
視線が再び偉容の炉の、上へ。天井へ。
ばりばりと天井の建材を破りながら現れた『それ』がイセリナに返事をした。
「あなたは」
ぐっぐっとくぐもった笑いを発する。
「わからぬか」
「ダルハプス……?」
「少しばかり、肉を失ったが、吾は吾よ」
獣のようであった。汚泥のようであった。誰しもがそれを見て思う印象は怪物の一言であろう。
ローグラムたちが戦い、バスカルが決着させた『新生』途上の怪物はここまで逃げるために、それに適した肉体へと再び体を作り変えていた。
そのような生態となったダルハプスに人間らしさといったものはどこにもなくなっていた。
目があった。ぎょろりとした瞳が一つならずゆっくりと増えていった。
肉のただなかから枝のようなものを生やしながらぞるぞると炉を伝って蠢く。
「これこそが炉。貴様の母胎でもあり、貴様によって力の殆どを喪失したもの。
だが、それでも人の身には過ぎたる力を未だに備えている」
「……母胎」
「造物種であることを知らぬわけではなかろう」
「作られた場所がここであるかまでは、知りませんでした」
眼の前にはダルハプス。
この存在の危険性は十分に理解している。だが、あの闇の針めいたものを即座に打ち込んでこないのは何か別の理由があるのかとイセリナは推察する。
最もありえそうなのはインク不足。魔術を行使するだけの力がなくなっているのか。
或いは、この状況でイセリナの命を脅かす行為を取りたくない理由があるのか。
「人の身に過ぎたるとは言え、吾を復元するには足りぬ。
吾を作り直すには、炉の力を十分に吸ったものが必要だ」
増えていた瞳が一斉にイセリナを見る。
「イセリアル。
よくぞ吾が供物になりに現れた」
答えは後者。生きた供物としてイセリナが必要であることを彼女自身も理解した。
不自然で鈍重な動きが一転。
闇の針ほどではないにしろ、爬虫類の舌めいた動きで枝のような部位がイセリナへと踊りかかった。
殺さず捕らえようとしてくる可能性があると予測できていたからこそ、イセリナが身を翻し、枝から逃れることができた。
だが、ダルハプスも逃がすまじと次々と枝を伸ばしていく。
枝が彼女に触れんとしたその刹那。
扉が蹴破られ、何者かがイセリナの腕を掴むと、ぐいと引き寄せながら乱入者が声を掛けた。
「迎えに来たよ、イセリナ」
「ヴィー……様……」
それは来ると望み、しかし夢想であると思っていたものの声。
「どうして」
「約束、忘れた?」
ケルダットに掴まれながらその場を後にしたあのとき。
彼は云った。
『イセリナ、またね』
それは誰もがその場限りの言葉と捉えるもの。
彼女はその言葉こそを担保とし、夢想的な思いに囚われた。常ならば彼女は救われず、怪物に食い尽くされる運命にある。
だが、ヴィルグラムに常なることなど通じない。
「ヴィー様……私は」
「あのときはオレ様がやりたいことを優先しちゃったからさ。
だから、次はイセリナの望みを聞くよ。
ここからどうしてほしい?」
自分を作り出されたのはダルハプスという存在が呪いを発したから。
ダルハプスという存在の呪いよって不幸になったメリアティが生み出されてしまったから。
今、ここに自分が立つのはダルハプスがいたからに他ならなくとも、感謝をする筋合いなどまるでない。
ただ、力を持たない自分では自分が生み出されたことへの尻拭いもできない。
イセリナは自分の無力さを理解していた。
本当に危険な状況であればヴィルグラムが来てくれるという夢に全てを賭けていたわけではない。
造成種として作られた上で、焼き込むようにして与えられていた記憶や知識の中には炉に関わることも幾らか含まれていた。
炉を使ってこの邸ごと消し飛ばすことを解決策として胸に秘めて行動を始めていた。
それが呪いという始点から生み出された彼女なりの、命を消費した決着の付け方だった。
だが、その自爆行為を選ぶ必要はなくなった。夢想が現実となったのだから。
「ダルハプスを……倒していただけませんか」
「お安い御用だ」
ヴィルグラムが怪物を見据える。
『ダルハプス、残数1』
アルタリウスの冷静な声が、戦いのゴングとなった。




