37 怒りと涙
修道院という場所は主に自給自足だ。貴族のご令嬢が多く集う修道院なら彼女らの実家から寄せられる膨大な寄付金で経営が成り立ち、働かずとも侍女までいる隠匿生活をおくることができるのだが、アイラが身を寄せる修道院は信仰心深い女性や貧しい娘、そして事情があって逃げてきた女性などが集う場所で生活も厳しい。本来ならアイラのような貴族の娘が身を寄せるような修道院ではなかったが、カリーネが紹介してくれた所なのでアイラは何の疑問も抱かずに身を寄せ生活を送っていた。
修道院はロックシールドから遠く離れた都寄りの場所に建っている。何百年も昔に建てられた石造りの建物は年季が入り、ロックシールドの屋敷よりもかなり古く今にも朽ちそうな場所もあった。それが最近になり大きな寄付を得て修繕が始まったので、建物が崩れて圧死という状況だけは免れそうだと、アイラは畑仕事の手を止めると遠くから聞こえてくる修繕中の音に耳を傾ける。
厳しい冬を前に修道院に入るなんてと弟の妻となったセシルは反対し、リゲルに至っては修道院行きそのものに対して大反対だった。けれどカリーネが紹介してくれたので今更引き返せないと言い訳すれば、納得していないながらも仕方がないと見送ってくれたのである。カリーネのことだからきっと何か考えがあるはずだといつまでもぶつぶつ呟いていたが、別れの時に大泣きされたのにはさすがに堪えた。夫が子供のように声を上げ泣く様子に、妻となったセシルはかなり驚いて引き気味だったが、アイラの方はリゲルの涙のせいで修道院に入るのに迷いを抱く。けれどこのままロックシールドに居ついても邪魔になるだけと自分に言い聞かせ、慣れ親しんだ領地を後にしたのだった。
都に近いと言っても山の中腹にあり標高が高く冷え込みも激しい。冬に収穫される野菜の世話をしているのだが肥料不足で育ちも悪かった。作物の育ちの悪さを新入りであるアイラが訴える前に、庶民出身者である女性が多く在籍しているので何が原因かは解っているはずなのである。けれどあえて肥料の追加を行わないのは、修道女たちが高い壁の向こうに出るのを禁止されているせいで、自然界で育成されているであろう堆肥を持ち帰ったりできないからだ。敷地内にある神が与えてくれる物でやって行く。貧しさは美徳という教えの中、けして大食いな訳でないアイラはここに来てからはいつもお腹を空かせていた。
想像よりも厳しいと感じるのは、裕福でなくとも幸せな貴族の娘であったせいだろう。屋敷の庭を畑に変えるほどの生活力であったとしても、家の側に畑を持つのは貴族の屋敷でなければごく当たり前の光景なのだ。アイラが生活する場所は貴族以外の全ての人から見て贅沢であったに違いない。その証拠にアイラの後に修道院にやって来た女性は、ここにたどり着くまで幾日も飲まず食わずだったという。夫の暴力から逃げてきたというその女性は骨と皮しかないほどに痩せていて、出された食事を『こんなに沢山』と感謝しながらすすったのだ。
どんよりと曇った空を見上げると寒さも相まって雪でも落ちて来そうだった。質素倹約との教えを唱え冷たい土をいじるも、昼も過ぎたというのに土の中には霜柱が溶けずに残っている。城勤めで綺麗になっていた手は瞬く間に荒れ果てあかぎれが疼いた。畑の周囲を見回しても誰もいない、アイラ以外の修道女たちは祈りの時間で隙間風の入る聖堂に籠っているからだ。アイラは祈りよりも体を動かす労働に精を出す。じっと無言で祈りを捧げていると、すぐに余計な事を考えてしまうからとても苦手だ。別れた人たちの事が脳裏を過り恋しくてたまらなくなり胸が痛む。
「死ぬまで暮らすんだもの、そのうち―――きっと慣れるわ。」
あえて声に出すのは言葉を忘れてしまいそうだからだ。日の出前に起きて祈りと労働に明け暮れる生活だが、すれ違う修道女たちとは会話を交わしたり、視線を合わせることを禁じられている。一人の世界で神に縋り生きるために、同じく修道に励む女性たちと会話が許される時間はほとんどない。はっきり言っていつも領民たちに囲まれ労働に勤しんだアイラとしては、とても寂しい世界に身を投げ出した状況だった。カリーネがどうしてこの修道院を選んだのだろうと思った時点で負けている。きっと試されているのだと気合を入れるも、神に祈り自分の世界を作り出す修道女たちのようにはなかなかなれない。
「そもそもわたしはまだ修道女にしてもらえていないし。こんな信仰心じゃ受け入れてもらえないのも仕方がないのかもしれないわね。」
前にベルトルドからガウエン公爵の名を問われたことがあった。神職の頂点に立つ人が誰なのかすら知らなかったアイラが、信心深い修道女たちのようになるのには時間がかかるだろう。修道院に入ればすぐに修道女になるのだと思っていたアイラは、ここでの生活になじむまでは見習い期間の修練期だと修道院長により言い渡され、着ている物も修道衣ではなく私服のままだ。後から来た女性は既に修練期を終え修道衣に身を包んでいるというのに、上手くできない我が身が役立たずと言われているようで劣等感を抱いた。
もくもくと作業を続け育ちの悪い白いカブをいくつか収穫する。土をならし籠に抱えて戻ろうとしたところで修道院長がアイラを手招きしていた。
「あなたに客人です、聖堂に行きなさい。」
年老いた修道院長はそう告げるとカブの入った籠を受け取る。客と聞いてアイラは驚いたものの、騒がず深く腰を落として礼をすると言われたとおりに聖堂へと向かう。祈りの時間は過ぎていた。外界の人間が入れるのは聖堂までで、もしかしてと不安を抱きながらアイラは足を速めた。
どうしてこの修道院が選ばれたのか。辺鄙な場所ながら都に近く、もしかしたらという考えがなかったわけではない。不安となり脳裏を過るのは不眠に悩んだシェルベステルの姿だ。もしかして何かあったのか、それが原因で再び不眠に陥っているのではないかと建て付けの悪い聖堂の扉を開く。
暖房もなく隙間風が入る聖堂は外よりも幾分ましな程度で身を震わす寒さだ。先ほどまで多くはなくとも修道女たちが祈りを捧げていただろうに、人が集まっても大して聖堂内を温めるには至らない。聖堂の奥、薄暗い室内に一つの影があり、思い描いた人ではなくてアイラは眉を寄せる。
シェルベステルに何かあってマリエッタが使いに出されたのだとばかり思っていたが、背格好は女性の物ではなく明らかに男性だ。暖かそうな毛皮付きのコートを羽織って後ろを向いているので誰かわからなかったが、アイラが聖堂内に足を踏み入れると人影がゆっくりと振り返った。
「―――え?」
一瞬誰だかわからず瞳を瞬かせたが、それが認識されるとどうして彼がここにと驚き声が出ない。最後に会った時と比べて伸びた金色の髪、衣服に包まれた体は解らないが顔つきはかなりほっそりして痩せたのが一目でわかる。それでもアイラに向けられる碧い瞳は力強く迷いがなかった。
「ベルトルド様?」
痩せてはいるが間違いなくどこからどう見てもベルトルドだ。けれどアイラはどうして男性である彼がこの場に立っているのか全く理解できない。ここは女子修道院、異性の立ち入りは許されておらず厳格に管理されているはずだ。何が起こったのか解らず幾度か瞳を瞬かせ、もしかして夢でも見ているのではないかと頭も振ってみた。戸惑うアイラを察したのだろう、長い足でゆっくりと、けれどあっという間に歩み寄ったベルトルドが手の届かない位置で立ち止まり答えをくれる。
「ゴルシュタット侯爵夫人の計らいで許しをいただいた。」
この瞬間アイラの中で何かがつながった。長く廃れた状態で放置され朽ちるように建っていた修道院がごく最近、大きな寄付を得て修繕工事に取り掛かったのだ。ここをアイラに紹介したのはカリーネではないか。リゲルがカリーネのことだから何か考えがあると呟いていたのも、アイラの修道院行を阻止しようとカリーネに連絡を取っていたからに違いない。そしてここに現れたベルトルド、それはいったい何を意味するのか。怖くて考えたくないアイラは一歩後ずさり、すると目の前のベルトルドが酷く傷ついたような表情を浮かべる。初めて目にするベルトルドの表情にアイラは驚き首を傾げた。
「あの―――どうして。」
カリーネの寄付が如何程であったか知れないが、修道院長が異性の訪問を許すほどの金額であったのは間違いない。厳密にいえば異性であっても父親や兄弟といった家族による面会は許されるのだから絶対にない現象とは言えないが、ベルトルドのような若い青年の立ち入りは出来る限り避けたい事柄に違いないのだ。
いったい何をしに来たのだろう。人恋しさに寂しさを抱いていたが相手がベルトルドであったことに不安を覚える。ふとした時に思い出される恋した相手がこんな時に現れてしまい、アイラは戸惑いと同時にベルトルドとの間で起きたやり取りで傷つけた心が疼くのを感じた。
「どうしてここにいるのか、それは私の方が聞きたい。」
「え?」
別にアイラが呼んだわけではない。自分の意思で来たのだろうに、もしかして他の誰かに命令されてきたのだろうかと意味が解らずアイラは訝しんだ。
「陛下に何かあって、エドヴィン様のご命令で?」
「いいや、私の意思だ。」
「あの―――意味が解りません。」
凡人には理解できない行動をとるベルトルドだ、いったい何があったのだろうと注意深く観察する。ここは修道院、押し倒されるような非常識だけはないだろうと思うも、過去の事例があるだけに油断ができない。身構えるアイラを前にベルトルドは長く息を吐き出し伸びた前髪をかき上げる。どことなく緊張しているように感じるが、ベルトルドに限ってそれはないだろうとアイラが見上げていると、一度硬く瞼を閉じてから鋭い碧眼を覗かせる。
「君を妻に欲しい。」
ベルトルドの言葉がアイラの胸をつらぬく。幾度目になるのだろうかと瞼を閉じ奥歯を噛みしめた。
「お帰り下さい!」
怒りに任せ目を開き上げた声は涙に濡れている。いったい何を言い出すのだ、自分の欲求を晴らすためとはいえ常識がないにも程があるとアイラは怒りを込めてベルトルドを拒絶した。
言葉ひとつで心をかき乱される。修道院に入りようやく解放されたと思ってもふとした瞬間に思い出されアイラの心を支配し続ける人。望む言葉をくれてもそこに愛情の欠片すら織り込まれてはおらず、同時に絶望へと突き落とすのだ。
これでいったい何度目だとアイラは涙が溢れる漆黒の瞳で睨み付ける。望みの場所に来てようやく逃げたと思ったのにいつまでも心を支配するだけでなく、禁断の場所にまで現れて更に心を掻き乱し混乱させるのだ。
「あなたの目的の為にわたしを利用しないで。気付いていないでしょうけどベルトルド様、あなたはわたしの心を殺すんです。あなたの側にいて言葉を交わしても苦しみしか生まれない。何なのよもう、こんなところにまで押しかけて。もういや、冗談じゃないわ。お願いだから帰って、これきり一生会うことはありません!」
殴るように言葉を吐き出し身を翻し逃げ出したアイラだが、踏み出したベルトルドがアイラの腕を捕らえる。離してと掴まれた腕を、指を引きはがそうと爪を立てるがそのまま反対の腕もとられると、ベルトルドの顔が至近距離に迫り恐ろしさに顔を背けた。
「私が君の心を殺したと―――成程そうか。だから君は私を殺すのだな。」
これは報復なのかと苦しそうに唸るベルトルドの声が耳元で囁く。何が報復だ、いったい何を言っているのかと恐々顔を上げたアイラは驚き息をのんで目を見開いた。何故なら目の前のベルトルドが碧い瞳から涙を零していたからだ。
「ベルトルド様―――」
恐ろしくて、けれど意味が解らなくて消え入るように名を呼べば、逃がすまいとアイラの腕を掴んだままベルトルドはその場に膝をついた。
「君は私を殺す。」




