24 唇を噛む
まどろみの中で瞼を持ち上げると陽だまりの匂いに包まれていた。いつの間にか眠っていたのかと気付き、状況を思い出したベルトルドがはっとして顔を上げると漆黒の瞳がすぐ側にある。
「おはようございます。」
「……ああ、おはよう。私はどのくらい眠っていたのだろう?」
「わたしの方が先に眠ってしまったので如何程とも答えられませんが、そろそろ日が暮れ始める頃合いでしょうか。」
「そんなに眠ったのか―――すまない、押し潰したままだったな。」
腕をついて身を起こしアイラを開放する。普通に言葉を発しながらもベルトルドは混乱していた。病気や大きな怪我をしているわけでもないのに、自分でも気づかないうちに眠ってしまっていたのだ。しかもアイラの胸に顔を埋めたままで、朝から夕方まで眠っていたというのだから驚きだ。
そもそもベルトルドは、自分がアイラの胸に顔を埋めた状態で本当に眠ってしまうなんて思っていなかった。眠たいとすら感じていなかったのにどうした事だろうと混乱する。徹夜が続いても睡眠の調整は得意だったし、物心つく前の幼少期ならともかく、他人の肌を感じながら眠りにつくなど初めての経験だ。
「どうかされました?」
「いや―――」
騎士という職業柄のせいか体の作りが大きな男を一人抱え、押し潰されて眠ったアイラは身動きが取れずに固まった体をほぐしている。一方ベルトルドはアイラに抱き付くという不自然な態勢で眠ったはずなのに、体がきしむどころかすこぶる体調がよかった。複雑な心境はあるものの頭はすっきりしているし体も軽い。眠った我が身に納得がいかないが、調子がいいのなら今はこの不思議を追及するよりほかにするべき事があった。急げば日が暮れる前には間に合う、眠る前に考えていた変人と対峙するには万全の状態だ。
「申し訳ないが確認したい事柄があるのでこれで失礼する。ゴルシュタット侯爵への報告は私からきちんと済ませるので心配しないでくれ。戻ったら今後についても話し合おう。」
乱れた衣服を整えたベルトルドはいつもと変わらぬ姿だ。アイラは寝台の上で座ったまま見上げて頷いた。
「わかりました。でも話し合いは明日以降にしてくださいますか?」
あれほど拒絶していたわりに案外素直なものだ。聞き分けがよくて有り難いとベルトルドは頷き部屋を出る。だから通常なら気付けただろう『明日以降』という言葉に特別な意味を見出さず聞き流してしまった。
扉を開けると護衛の任につくグインと目が合う。護衛対象と顔も合わせずこの時間まで黙って扉の前に立っていたのは事情を察しての事だろう。もの言いた気な視線を向けられるも時間が惜しくて相手にしたくないベルトルドは、視線を絡めただけで言葉も交わさずその場を去ってしまう。
黙ってベルトルドを見送ったグインは疲れたように溜息を落とすと、扉を叩いて声をかけるかどうか迷った。部屋に一人残されたアイラが泣いているのではないかと案じたのだ。
若い男女が二人きりで長く部屋に籠っていたのだから、通常なら相応の事があってしかるべき。しかしどうあってもベルトルドが心からの愛を囁くとは思えない。それを知っているアイラだが偽りの言葉に心を痛めてはいないか、それとも義務的にすら言葉をもらえずに落ち込んでいやしないかと心配になったのは、グインには人としての情があるからだ。それでも結局は声をかけず何事もなかったかに任務を続ける。中を覗いて事情を知ってもかけてやれる言葉は大してないし、相手の男を殴るなんて権利も、ましてそのような関係でもない。せいぜい愚痴を聞いてやれるくらいなのだ。
部屋に一人残されたアイラはベルトルドが去った扉をぼんやりと眺めていた。ベルトルドが目を覚ますよりもずっと早くに起きていたので眠い訳ではない。ただ少し彼を偽るのに申し訳ない気持ちと、もう引き返せないという状態に悲しい気持ちが重なりしばらく動けなかったのだ。
シェルベステルの時には寝台に上がるも、同じ部屋にエドヴィンとベルトルド、そしてマリエッタの三人がいた。同じ寝台に上ってシェルベステルの眠りを見守ったアイラは眠ることなく、同衾したとは少しばかり違うものだったとも言える。けれど今回は確実にそれとは異なった。同じ寝台で抱き合い、二人して眠ったのだ。何もなかったとしても周囲はあったと見るし、ベルトルドもすっかりアイラを手に入れたつもりでいる。部屋の前で護衛をしているであろうグインは証人だ。きっと逃がす気はないのだろうが、思惑通りにはさせないと木綿の寝巻をぎゅっと握りしめた。
しばらくそのままでいたが寝台を降りて浴室に向かう。簡単に体を清め濡れ髪を乾かし衣服に袖を通した。長く患っていた王に本来の眠りが訪れたのだ、エドヴィンに呼び出されると思っていたが声がかからないので読み違えたらしい。忙しさのせいで城に泊まる日が続いていたが、領地から妻であるカリーネが来ているので屋敷に戻っているのかもしれない。常識から考えてそうなのだろうと思い至ると、カリーネの存在を思い出して目に涙が滲んだ。こんなことをしていると知れば叱られるに決まっているのだ。好きなのならどうして手を取らないのかと。けれど伸ばしても届かない人なのだ。相手の伸ばす手はアイラではなく他の物に向かっているのだから、けして握り込むことはできない。
窓から外を見ると茜と藍色が混じりあっていた。いつまでもゆっくりしている時間はないと扉を開いてグインに声をかける。
「お願いがあるのですが。」
「―――聞こうか。」
何か言いたげなグインだが無駄口を叩かず聞く姿勢をとる。アイラは周囲に誰もいないのを確かめると、硬く手を握りしめて唇を噛んでから口を開いた。
「陛下が眠りを取り戻されたのはご存知ですか?」
聞いていると頷いたグインに今夜の護衛は誰かと問えば、予定通りベルトルドが務める筈だとの答えが返ってきた。それならば交代の時間はシェルベステルが床に入る時刻になる。
「ベルトルド様に内緒で陛下の寝所へ行きたいんです。陛下からの許可は頂いています。カリエステ様にはわたしが部屋にいるように振る舞っていただきたいのです。」
「君一人で?」
何を考えているんだと眉を寄せるグインにお願いしますと頭を下げるが、それは出来ないと首を振られてしまった。
「陛下にとって君が特別な存在だというのは解っているだろう。君を守るのは私の仕事だ、安全な道を通り陛下の側に上がると解っていても一人に出来る訳がない。」
馬鹿を言うな、何かあればどうするのだと諭されるもアイラは食らいついた。
「では送り届けて下さった後に戻って来て、わたしが部屋にいるように装って下さいませんか。」
イクサルドの地で最も厳重に守られる安全な場所は王の側だ。シェルベステルの部屋に籠ってしまえばグインの護衛も必要なくなる。
「アイラ嬢……ベルトルド殿と二人きりで過ごしたのは思惑があっての事なのか。君はいったい何をしようとしている?」
心配そうに見下ろされ、誰かに縋りたくてたまらない心が決壊しそうになり硬く唇を噛んだ。そのせいで血が滲んでしまい、手巾を取り出したグインがそっと押さえてくれる。
「ベルトルド殿と部屋に籠ったことは閣下に報告しなければならない。君は彼の妻になる覚悟を決めたのではなかったのか。そうなら陛下の寝所に上がろうとするのはどうしてだ?」
手巾の下で再び唇を噛もうとしたアイラのそこを、手巾を挿んでさせまいとグインが指で押しとどめた。
「損得なしで考えて、ベルトルド殿に心を寄せているのだろう。なのに何故それほど辛そうに否定するんだ?」
「お願いです、協力してください。もう……心が壊れそうなんです。」
ぐっと奥歯を噛みしめたアイラの漆黒の瞳に見つめられ、引き込まれそうになったグインは思わず息を呑まされる。
「アイラ嬢―――」
「お願いします。ご迷惑はかけませんからどうか。」
必死な姿にグインは折れてくれた。それからしばらくしてマリエッタが顔を見せると、登城したエドヴィンが呼んでいると知らせてくれる。
「ベルトルド様が見当たらないのですがご存じありませんか?」
「さぁ、どこかへ出かけられているのではないでしょうか。」
確認したいことがあると言って部屋を出たが、どこに行くとまでは聞いていない。同じくグインも知らないと答えると、エドヴィンからの呼び出しは予想できる事なのにいないなんてどうしたのだろうと不思議がった。
呼ばれて宰相の執務室へ向かうとエドヴィンが一人で仕事をしていた。今日は一日休みの予定だったがシェルベステルが眠れたという知らせを聞いてやってきたのだという。そのついでに残っている仕事をしていたらしく、カリーネが寂しがらないかと案じれば、久し振りに都に出てきた妻は社交に夢中だとエドヴィンは苦笑いを浮かべた。
「陛下に眠りが訪れたのは幸いだが前回の例もある。アイラ、君には申し訳ないが陛下の状態が安定するまでは城に詰めてもらいたい。」
断れない願いに当然のように頷けば、エドヴィンはマリエッタとグインにも同じように説明した。
「それにしてもベルトルドがいないとは奇妙だな。昨夜の不寝番で彼の欲求を満たすような出来事があったのだろうか。」
王の寝室に足を踏み入れた時には既にシェルベステルは眠りに落ちていた。アイラが何か特別な事をしたわけではないし、アイラとマリエッタの二人が揃えて首を振ると、何かが引っかかるのかエドヴィンは腕を組んで考え込む。
「あきらめる男ではないので何かがあったのだろう。マリエッタ、ベルトルドが戻り次第こちらへ来るように知らせをやってくれ。」
「かしこまりました。」
マリエッタが綺麗に腰を折って部屋を出る。アイラもそれに続こうとした所で扉近くに控えていたグインが前に出るとエドヴィンに呼びかけた。
「閣下、お耳に入れておかなければならないことが。」
それを聞いて立ち止まったマリエッタをグインが一瞥すると、意を察したエドヴィンが行くように命じて扉が閉じられる。アイラも報告の内容が解っているだけに今すぐにこの場を去りたかったが、そうすると護衛であるグインがついてきてしまう。一人で行動するのを禁止されているだけに同じ部屋に居なければならないのは苦痛だ。狼狽えるアイラの様子にエドヴィンは組んだ腕をおもむろに下ろすと、はっとしたように目を見開いた。
「ベルトルドが何かしたのだな?」
「いいえ、ベルトルド様は何も―――」
口籠るアイラを置いてエドヴィンがグインを促した。
「何があった?」
「私が護衛の時刻にアイラ嬢の部屋に向かいましたらベルトルド殿は扉の前にはおらず、日中はアイラ嬢と二人で部屋に籠っておりました。出てきたのは夕刻前です。」
報告を受けたエドヴィンは薄い青色の目でアイラをじっと見つめる。いたたまれなくて身を小さくすればエドヴィンが長い息を吐き出した。
「無理強いではないようだな。」
「何もありません。その……信じてもらえないのは解っているのですが、本当に何もないのです。ただベルトルド様の願いを叶えただけで。」
それを耳にしたエドヴィンは驚いてアイラに詰め寄り肩を掴んだ。
「寝たのか?!」
「違いますっ、陛下にしたのと同じようにしただけでそんなことは絶対にしていません!」
「だが君は―――ベルトルドとの婚姻を望んでいなかったのだろう?」
体の関係がなかったとしても既成事実を作ったのと同じではないか。しかも無理矢理ではないなど。
「いったい何と言って騙された?」
「誘ったのはわたしです。」
「アイラ、君は――――」
詰め寄るエドヴィンの表情は何をしているんだと困惑していた。すっかり消沈したアイラは誘ったのは自分だからベルトルドへの罰はどうかしないで欲しいと頼んだ後で。
「カリーネ様にもご内密にしていただきたく……」
「言える訳がないだろう―――ああ、だが後から知られると大騒ぎになるな。」
特に夫婦の間で。とは言わずにエドヴィンは頭を抱えた。
「ロックシールドの為に嫁ぐ覚悟を決めたのか?」
「いいえ、断ち切るためにしたことです。」
「意味が解らない。」
「申し訳ありませんっ!」
謝罪するなりアイラは身を翻し部屋を出ていく。唖然としたエドヴィンだがグインに他言無用と口止めしてすぐに追うよう命じると、頭を抱えながら机に戻り椅子に深く腰を下ろした。
「私も年だな……若い娘の考え付くことが理解できない。」
妻ならどう対処するのだろうとカリーネを思い浮かべる。妻としての仕事の一つでもある社交に楽しそうに出る度に、若さと元気を取り戻すカリーネが羨ましいと感じた。




