10000人レース ー61
紫陽花色の空がゆっくりと花色の濃さを増してゆく夕空の下。
たそがれの光に照らされた土と草と花と水の匂いが、今日の陽の名残のように夕暮れの冷たくなった風に混じって漂っていた。
「やっぱり川に行って正解だったわね。10パーセント魔力増強オーブが15個も!」
ほくほくと彩乃が声を弾ませる。
「目標のレベルアップができたし、クエストも幾つか達成できたし。クエストってレース期間の特別イベントなんだろう?」
高広が祐也に視線を向ける。
「そうだよ。女神の世界の基礎知識によると、普段のこの森はさほど実入りの良い森ではないんだ。レース期間中だけ各種の特典があるらしい、異常にレベルアップしたり、クエストがあったり、魔獣の討伐報酬が格段に良かったり、蝙蝠の洞窟で魔宝石が採掘できたけどアレも今だけだし、そんなこんなの恩典が色々と多くあるんだよ」
と祐也が高広に応えた。
3人はドームホームへの帰り道を歩いていた。
理々が、ドームホームで料理をして。
祐也と高広と彩乃は川へ行って、怪我なく順調に複数のボスを倒して、討伐報酬として希望通りのオーブを手に入れて帰ってきたのだが。
ドドドドド、と滝音が聞こえる。
滝壺に戻ってきた3人の頬を、ふわっと清涼な水の匂いがさすった。
祐也と高広と彩乃はピタリと足を止めて、目の前にひろがっている光景に息を呑む。
「お帰りなさい」
と、滝壺の対岸で手を元気に振る理々の下半身が魚になっており、長い尾びれで水をぱしゃぱしゃと跳ねあげていたのだ。
上半身にはセーラー服。セーラーカラーの大きな襟と胸元のひらひらとする赤いリボンは理々に似合っていて、凄く愛らしい。
下半身は、金砂を内包する青金のラピスラズリのような鱗が煌めく魚の姿で、尾びれは長く半透明で孔雀が羽根を広げたように美しかった。
ただでさえ理々は小さくて可愛らしいのに、コスプレのようなセーラー人魚になっていたものだから、理々を盲愛する祐也の脳髄を抉るみたいに直撃爆破をして鷲掴みをした。
それに理々の人魚の姿も衝撃的であるが、それよりも、理々の隣に巨大な竜が墜落したかのように翼をべシャリとひろげてワタアメ水蒸気ちゃんに頭を押さえつけられている状態や、その竜の岩のごとき大きな鼻を理々がペチペチ叩いていることの方に度肝を抜かれ、祐也と高広と彩乃は喜怒哀楽のどれにも属さない表情をしてポカンと口を開けてしまった。
「この竜ね」
理々がニッコリと可愛らしく笑う。理々の蕾が綻ぶような可憐な笑顔に、何故か3人の背筋に寒気がゾワゾワと這い上がり冷や汗が浮かんだ。理々の瞳の奥が氷のごとく冷たかったからだ。
「人魚になった理々を食べようとしたの」
ゾゾッ、と祐也から殺気が溢れる。
「殺すッ!!」
祐也が魔力を全開にして一歩を踏み出した。
グワッと視界が灼ける。
祐也の心臓が暴れるように波打つ。
許せない。
身の毛が逆立つみたいな怒りが骨の髄まで浸す。
許せない。
許せない。
僕の理々をッ!
ドロリと祐也の双眸が異質に光り、迸る血が凍りつくみたいな魔力が放つ威圧に、ビョオオォッと風が唸りをあげた。
「落ち着いて、祐也。理々は無事よ」
理々は竜を無造作にペンペンとはたく。
「この竜は利用するから、傷つけてはダメ」
理々の言葉に、祐也は荒れて氾濫しそうな凶暴な感情面では納得ができなかったが、理性では怒涛のように湧き上がる殺意を捩じ伏せて口元に微笑みを湛えることに成功して、
「わかった、殺さない」
と、目を眇めて竜を見やった。
竜への敵愾心を剥き出しにする祐也の視線には憎悪が滴っていたが、理々に向ける表情は大天使のように美しい。
愛が粘っこく激重の祐也は理々至上主義なので、きちんとお座りができる狼型のヤンデレなのだ。と言うよりも、理々が祐也をお利口なスパダリ狼に誘導して育てた面もあるのだが。
「あーあ、あの竜おバカね。理々は怒らない、怒れないから逆にとても怖いタイプなのに」
「だよな。理々って本当は祐也よりも怖いんだよなぁ」
彩乃と高広が額を寄せあってコソコソと話す。
「理々は、お花畑に隠された底無し沼って感じなのよね」
「時々、理々ってものすごく凄味があるんだよなぁ」
うんうん、と彩乃と高広が頷きあう。
「「理々と敵対して勝った人なんていないんだから」」
「それで利用って?」
と祐也が、待機ができたご褒美を貰うべくイソイソと風壁を作って空中に登って理々のいる対岸に渡ろうとしたが、
「来てはダメ」
と、理々に無情にも止められてしまった。
「竜のことは後でね。それより今は、人魚は種族特性で魅了があるから。ほら、精神干渉無効をもらったでしょう。無効とは言っても耐性みたいにレベルのあるスキルだから、理々が魅了をガンガンかけるからレベルアップをガンガンしてもらおうと思って」
「「「魅了?」」」
「ついでに歌姫のスキルも使って祐也と高広と彩乃を強烈に魅了するから、頑張ってね?」
「「「ま、待って。心の準備が」」」
「待たなーい。用意はいい? レディ、ゴー?」
「「「ノーッ!」」」
その声は、天上の楽器の如く空気を震わした。
真昼の月のように儚く。
花の花芯のように強く。
流れる水のように清く。
理々の歌声は、透明な大気を開花した花の色彩の如く彩った。
しかも魅了付き。
「「「理々……っ!」」」
聞き惚れるなどと言う生易しい問題ではなかった。
祐也と高広と彩乃は、支配にも等しい感覚に襲われて自己を保つよりも、理々だけを求めた。魔法も剣も役に立たなかった。理々の導くままに水の中であろうが火の中であろうが飛び込んでしまいそうな、この世にあらざる美しい、そして、この世の全ての美しいものを集めたみたいな魔性の歌声であった。
焦がれて。
焼けつくような。
なのに祐也も高広も彩乃も、一歩たりとも動くことができなかった。水蒸気ちゃんが3人の足を固定して地面に縫い止めていたのだ。
特に祐也は、もともと理々に執着して粘着していたので、その苦しみたるや心臓を炙られるかのごとく胸を掻きむしって理々の名前を叫び続けた。
理々の真横にいる竜は、暴力的なまでの壮絶な歌声を至近距離からぶつけられて恍惚とした表情で悶絶している。脳内の快楽物質に直結した顔は、もし鏡があったとしたならば竜の暗黒の記憶となって悶え苦しむこと間違いなしであった。
「ミー!」
スライムちゃんが、100年セットの日用品から漁ったカメラでパシャパシャと連写で撮影をしているので、数時間後に咆哮をあげてゴロゴロとのたうち回る運命を、白眼で涎を垂らす竜は知らない。
そうして耐えに耐えて精神干渉無効は急激にレベルアップをしたのだが、祐也も高広も彩乃もゲッソリとたった10分で窶れてしまった。
反対に、理々の凶悪な魅了の歌声の影響をまったく受けない高レベルのドームホームの管理球と机とスライムちゃんは、ひたすら美しい歌声そのものに酔いしれてブラボーと拍手喝采をして大喜びで声援を送ったのだった。
読んで下さりありがとうございました。




