10000人レース ー46
宝石を敷き詰めたようなエメラルドグリーンの美しい滝壺の上に、ふわふわの綿みたいな白い雲のようなものが浮かんでいた。大きさは3メートルほど。くるくると渦を巻き、まるで踊っているようであった。
「ね! 雲が落ちているでしょう!」
理々が大発見と言わんばかりに声を弾ませる。ふくふくとした頬が紅潮して、とても可愛い。
祐也が胸を押さえた。
「理々が可愛い。可愛いって痛い」
ぎゅっ、と理々を愛おしげに抱きしめる。水原がいたので自重していた祐也は、我慢のご褒美と理々の髪にスリスリと顔を寄せた。
「理々、残念ながらあれは霧だよ。とは言え、雲も霧も同じなんだけどね。雲も霧も空気中の水蒸気が凝結してできた水滴または氷の粒の集合体だ。ただ雲は上空で、霧は地表付近で空気が冷やされた、その違いだけ」
「霧なの?」
「うん、濃霧だね」
クンクンと理々の香りで肺を満たした祐也は機嫌がいい。
「でも」
祐也は眼を細めた。瞬きすら蝶の羽ばたきのごとく美しい。
「あれは霧ではない。魔物だよ。形の不安定な、水を食べる魔物なんだよ」
「主食が水? なんだか霧を食べる仙人みたいな魔物ね」
と彩乃。
「祐也の鑑定って本当に便利だな」
と高広。
「水だったら、理々の『おいしい水』も食べるかなぁ?」
と理々が言って、風に揺れる花弁のようにひらひらと指を動かした。
鏡を通したように透ける清浄な水が柔らかな線を描いて、理々の指先から生まれる。
「「「理々っ!」」」
祐也と高広と彩乃の叫び声にびっくりして、朝寝坊中のスライムがミーと鳴いて目覚めた時には、もう遅かった。
理々は、3体目の押しかけ従魔に熱烈にくっつかれていたのだった。
「きっと帰って来てくれると信じていました」
高瀬高校の生徒会長である南城に出迎えられて、水原は頭を下げた。
「心配をかけてしまって申し訳なかった」
「謝罪など必要ありません。水原さんの気持ちを尊重したかったので、半分は諦めていたのです。けれども、半分は諦めきれなかった。よかった。桐島高校の生徒たちには、水原さんがかけがえのない存在なのですから」
南城の声には、真摯な、いたわりが滲んでいた。
転移させられた10校のうち、一番生徒の人数が減少したのが桐島高校であるならば、生徒数がほぼ変動せずに維持できたのが高瀬高校だった。
すべて南城の手腕の結果である。
清濁併せ呑み、合理的かつ臨機応変な判断を下せる南城は、女神に与えられた固有スキル『カリスマ』を使って高瀬高校の守護神となった。
それは、ある種の洗脳であり支配であった。
南城は転移させられた初日に、10日の間バケモノになることを決断した。
突然に異世界に拉致されてパニックになる生徒たちを落ち着かせ、なおかつ導く指針になるために間に合わせのコントロールであっても化けの皮を被り、泥水を呑んでも成すべき行動とやるべき態度を迷わず決めたのである。
そして、それは成功した。
高瀬高校の生徒たちは、南城に導かれて強くたくましくなり生徒数をほぼ減らすことなく生き残った。
双子の弟に支えてもらっているとは言え、生徒たちのストレスケア、体調管理、生活を保ちレベルアップもさせて、その他諸々が1000人分である。仕事は膨大で寝る間もない激務であったが、10日間限定のカリスマリーダーとして綻びなく成就させる力量は感嘆に値した。
「生徒会長として南城さんの足元にも及ばない未熟者だけど……」
「いいえ。僕たちは運がよかっただけです。初日に僕と弟は、10位以内に入る魔獣の初討伐ボーナスの8位と9位で。そのおかげでクエストの存在に気付けたので、1000人でローラー作戦をしました。石を拾ったり木を伐ったり花を摘んだり土を掘ったり、無駄だと思うようなことでも何でもしました。1000人という数は力です。結果として初日から全員が武器やポイントやスキルも入手できて、武器もスキルもあるから魔獣を討伐できて、襲ってくる他校の生徒たちを撃退することができました。本当に運がよかった」
南城は微笑の下、感情を揺るがせない。南城の固有スキル『カリスマ』を知っているのは双子の弟だけである。
「実は帰ってきた理由のひとつは、情報を手に入れたこともあるんだ」
水原は、ザッと祐也たち4人との出会いを説明した。だが、蝙蝠のことは伝えなかった。あの洞窟は、水原、おそらく高広と遜色ないレベル持ちであろう南城であっても危険度が高すぎる場所だった。
「もうレースも終盤だ。ここまでくればレース後のことも考える必要もあるだろう? 花園君に貰ったこの小冊子を読んでみてくれないか?」
南城は小冊子に目を通すと、ギリッ、と唇を噛んだ。
「女神のゴミ箱だと……!?」
しかし南城は、押し殺した唸り声に似た吐息を吐くと、目も眩む怒りを身のうちに飼いならした。根性で笑顔を浮かべ、しなやかな肉食獣の滑らかな動作で身をのりだす。
「ありがとう。感謝します。これは得難い貴重な情報です」
「それと、これも花園君から。この世界の銀貨1000枚です。お金は生きてゆく上で無くてはならないものですから、使って下さい」
「重ね重ねすみません。そうだ、銀貨を3枚もらえる通常クエストがあるんです。教えましょう」
「僕の方からも。こちらが桐島高校の生徒が発見した通常クエストです。こっちが花園君に教えてもらった通常クエストです」
差し出された紙にかかれた通常クエスト数の多さに、南城が目を見開く。
「僕たち高瀬高校の知っているクエストと重複しているものもありますが、知らなかったものの方が多いです。この川辺のクエストなんて全部知らなかった」
「それは花園君たちが。こっちはクエスト報酬が鉄剣で、こちらは何と金貨1枚です。簡単な通常クエストなのに100ポイントも報酬として貰えるクエストもあります、これです。あと、『頑丈レベル1』のスキルを貰えるものも」
「ええ! あの先着500名限定の!? あのスキルがあれば生水を飲んでも腹を下す心配がなくなります」
川に入った祐也と高広を待つ間に彩乃が見つけたクエストである。川の中も川の周辺もクエストの宝庫だったのだが、誰しもが森へ集中していたために見落とされていたのだった。
「これは凄い。今日は忙しくなりますよ、さっそく片っ端から徹底的にローラー作戦を行いましょう! 高瀬高校の1000人と桐島高校の100人です。数は力です。力の数によって僕たちはもっともっと強くなりましょう!」
と、南城はガシリと水原の手をとった。
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