Contrail 06
「その手……お前、怪我して……ないよな」
「靴が濡れたと思って触った……どうしよう、誰の血?」
≪まだ濡れているとなると、そう時間は経っておらぬぞ≫
バロンの足元にあったのは血だまりだった。ヴィセは近くに負傷者がいないか辺りを見回す。誰かが動物を狩った際に出来た可能性もあるが、エゴールの小屋に近い事が気になった。人の家の前で銃などの武器を使うだろうか。
「誰かいるのか! 怪我しているのなら手当をする!」
「ねえ、エゴールさんが撃たれたり……してないよね」
バロンがヴィセへと不安そうに尋ねる。ヴィセは首を横に振った。
「もしそうだとしたら、怒りが俺達に伝わっているはずだ。何かの理由で一緒にいたジェニスさんが撃たれたとしても、きっとエゴールさんが怒っているはず」
≪……死んでいる場合は伝わらぬ≫
ラヴァニがゆっくりと呟く。今度はヴィセも首を横に振ることが出来なかった。
「ねえ、家にいるかもしれないよ?」
「……そうだな。夜分に失礼かとは思うけど、エゴールさんやジェニスさんの血じゃなかったら安心できる」
ヴィセ達は暗い森の中を引き返し、エゴールの小屋の前に立つ。深呼吸をしてノッカーを打ってはみたものの、返事がない。
「ねえヴィセ、鍵開いてるよ」
「こら、勝手に……」
バロンがそっと扉を内側に開いた。丸太づくりの小屋の中は真っ暗だ。
「エゴールさん? いらっしゃいますか」
ヴィセがおそるおそる声を掛ける。心なしか獣の匂いも混じっていて、猛獣が入り込んだ可能性も考えられた。
だが、それはすぐに杞憂だと分かった。ベッドの方からエゴールの声がしたからだ。
「……ヴィセ君、かい」
「ああよかった! エゴールさん、無事ですか! もしお休みでしたら申し訳……」
ヴィセがホッとし、膝に手をつく。手に持っていたライトは木目の床を照らし、足元が鮮明に映し出される。そこにあったものを見て、ヴィセとバロンは短い悲鳴を上げた。
「ひっ!?」
「ふわぁぁぁ! 血が、血がついてる!」
バロンは腰を抜かし、ヴィセもその横で固まった。ラヴァニは中へと入り、ベッドの片隅にいるエゴールへと声を掛けた。
≪……食事を、していたのか≫
「……ああ。あまり、見られたくない姿を見られてしまったね」
ラヴァニが放った言葉の意味が分からず、ヴィセとバロンはベッドの方へと明かりを向けた。暗い中にエゴールの服とラヴァニの影が浮かび上がる。
「えっ……エゴール、さん?」
エゴールがゆっくりヴィセ達へと振り向く。薄暗い中に浮かび上がったエゴールの口元は真っ赤に染まり、何かに喰らい付いていた。
「うわぁぁぁ! わー、わああどうしよう怪我してる!」
バロンはエゴールが怪我しているのだと思い、半狂乱になって叫ぶ。しかし、ヴィセとラヴァニは状況を把握していた。その血はエゴールのものではない。よく見れば、周囲にはふわふわとした動物の毛が散らばっている。
≪エゴールは狩った獲物を喰らっていただけだ≫
「……だいぶ気持ちが落ち着いてきた。事情を説明するから、椅子に掛けてくれないか。ラヴァニさんは少し大きいけど、小さくもなれるのか」
≪封印をバロンが発動させた。いつでも元の大きさに戻れよう≫
「そうか、それなら安心だ」
エゴールの声はとても穏やかだ。ヴィセはバロンをゆっくりと立たせ、照明のスイッチを入れた。白熱球が優しく照らす空間に赤色が生々しい。エゴールが加えていたのは大きなウサギだった。
服までも真っ赤に染まり、口元からは血が垂れる。ドラゴン化が進んでいるエゴールに対し、ヴィセは不謹慎にもどこか雰囲気に合っていると感じていた。優しく穏やかな声の方が不釣り合いに思えたほどだ。
エゴールは、耳が見えなければウサギだったと分からない肉塊を台所に置く。顔を洗って口周りの血を落し、血に汚れた長袖のシャツを脱いで、タンクトップ姿になってから椅子へと座った。
「驚かせて済まない。特にバロンくんにはショックが大きかったね」
「あの、狩った獲物を、いつも生でそのまま食べているんですか」
今ヴィセ達が見たのは、どうみても狩ったウサギにそのまま齧り付いている姿だった。それでもヴィセは何と言っていいか分からず、見たままを確認した。
「いつもじゃないんだ。……ドラゴンに長く変身していると、ドラゴンとしての本能が人の理性に勝ってしまうんだ。昨日はジェニスがいたから、オレも嬉しさが勝っていたけれど」
≪我のように、ドラゴンとして狩りをし、そのまま喰らい付いたのだな≫
「その通り。厄介な事に、ドラゴン化している時よりも、人に戻った時の自分を抑えられないんだ。人に戻って着替えて……気が付いたら口に獲物をくわえている」
「無意識のうちに狩りを……」
エゴールは寂しそうに微笑み、頷いた。
「君達に助言をするとしたら、将来ドラゴンの姿から戻る時、何か口に入れられるものを持っていた方がいい。オレは初めて《《こう》》なった時、ショックで3日家から出られなかった」
ドラゴン化は見た目や年齢だけでなく、精神にも影響をしてしまう。ヴィセ達にとっては辛い現実だった。
「バロン、大丈夫か」
「……うん」
返事とは裏腹に、バロンはラヴァニを腕にしっかりと抱き、片手でヴィセにしがみ付いている。もうすぐ10歳という子供にとって、刺激が強過ぎたようだ。
それからしばらく、ヴィセ達はジェニスやボイと成し遂げた復讐の事などを語り合っていた。動揺したままのバロンには、普段通りの様子を見せるべきだと考えたからだ。
「その、俺達……本当は明日来ようと思っていたんです。でも、森の道で血だまりを見つけて、もしエゴールさんが怪我していたらと」
「そうか、心配を掛けてすまない。ドラゴンの姿から元に戻って、服を着てからの記憶が曖昧なんだ。思い出すことは出来るけど、あまりしたくない」
≪それで怒りを感じる事がなかったわけだ。ただ無心で狩りをし、無心で喰らい付いていたのなら、我が察知できようもない≫
「明日、現場を綺麗にしておくよ。さて、と」
エゴールは立ち上がって服を着替え始めた。寝間着かと思えば、どうやら外出するつもりらしい。
「あの、どこへ?」
「温泉。その後何か美味しいものを食べて口直ししたいんだ。小屋にも小さな浴槽があるけれど、ドラゴンでも疲れる時は疲れるからね。一緒にどうだい」
「温泉……って、ドラゴン化した体、見せて大丈夫なんですか」
「閉館間際で誰もいなくなってから入らせて貰うんだ。10年程前かな、店の主人と奥さんの霧毒病を治した時にどうぞと言われてね。荷物はその辺に置いて、着替えと貴重品だけ持って」
エゴールは優しく微笑み、バロンもようやく気持ちが落ち着いてきた。いつの間にか時計の針は20時を告げている。バロンは小さな声で「怖がってごめんなさい」と謝り、エゴールの後に続いた。
* * * * * * * * *
エゴールに連れられ、2人と1匹は湖畔にある温泉を訪れた。夜空の星がとても綺麗で、露天風呂から眺める事も出来るのだという。入浴時間は20時半までとなっており、今はもう既に5分過ぎている。
ヴィセ達は21時までの入浴を許してもらい、急いで脱衣所へ向かった。誰もいないせいか、エゴールも特に人目を気にせず服を脱ぐ。全裸になった後、ヴィセとバロンは再び替えのパンツを履こうし、エゴールに止められた。
「ここは清潔な下着や水着がなくとも、タオルさえ腰に巻けば大丈夫だから。お、ヴィセくんはなかなか鍛えているね。将来良いドラゴンになれるよ」
「えっ!?」
「はははっ!」
エゴールは冗談だと言って洗い場へ向かう。ふと「こんな日に1人じゃなくて良かった」と呟く声が聞こえた。






