Contrail 03
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朝食を終えてホテルを出た後、ヴィセはエビノ商店を訪れていた。霧の中を歩いたりと酷使したせいで靴はボロボロ。服も霧の汚れが完全に落ちてはいない。旅立つ前に一新したかったのだ。
「いらっしゃ……ヴィセ! 戻ったのね!」
「ああ、久しぶり。ドーンでは色々と口利きを有難う」
「いいのいいの! さ、入って! そっちがバロンくんね、テレッサよ、宜しく」
店内は以前訪れた時と殆ど変わらない。季節の商品が入れ替わったくらいだろうか。バロンはヴィセのコートを掴んだまま頷き、用意された丸椅子に座った。あまり人見知りをしないバロンは、やけに緊張している。
ヴィセはバロンの事、今までの旅の事を話し、これから北東の山へドラゴン探しに行くと告げる。霧の中にあるメーベの事は酒場でも伏せていたが、ヴィセはテレッサにも言うのをやめた。
「大陸内の一部とはいえ、結構動いたのね。それに……村の事、ケリがついたのなら安心した。私も許せないなーって思ってたから。デリング村がラヴァニ村を焼き討ちにしたって話はもう広まってるから、助ける人もいないと思う」
「復讐なんて自慢する事じゃないけどな。飛行艇が通過する場所でもないし、しばらくは苦労してくれるだろう」
霧から数百メルテ高いユジノクでさえも、風向き次第でごく稀に霧が上って来る。食べ物、家、それに霧。デリング村にはこれから地獄が待っている。テレッサは自分ならもっと早くにやり返したと笑い、ヴィセを責める事はなかった。
「テレッサ、霧の海の事を知らないか」
「霧の海……名前だけは知っているけど。行った事があるって人は知らないわ」
テレッサの表情が曇る。霧の海について何か知っているような素振りだ。
「何か、あったのか」
ヴィセが問いかけ、テレッサはしばらく沈黙を貫いたのち、ため息をついた。
「……前に言ったでしょ。言うだけで行かないか、行ったまま帰ってこないか、どちらかだって。あれは霧の海の事。いつかはその名前を出すと思ってた」
「霧の海の事を知っている奴はいないという事か」
「そういう事。行った先で死んだのか、それともこっちに帰って来たくないのか、帰る手段がないか。他の大陸との電話は繋がっていないし、港も危ない。飛行艇もそんなに長くは飛べない。まあ、前者が殆どでしょうけど」
テレッサの言う事は、エゴールやジェニスの話とも重なる。港から船を出せる状況にはなく、霧の海まで飛んでくれる飛行艇乗りなどいない。となれば、自分で飛行艇を買う事になるが……個人で買える者など限られている。ボイのように個人で飛行艇を操る者は極僅かだ。
「俺にはラヴァニもいる。北東のイエート山にドラゴンがいるなら、話を聞く事もできるし、行けない訳じゃない」
「そういえば……ラヴァニさんは? 一緒じゃないよね」
「ラヴァニは元の大きさに戻ってしまって、町の外で待機しているよ」
「元の大きさ……あの小さいラヴァニさん可愛かったのにな」
テレッサは残念そうに苦笑いし、内緒にしていてと頼む。とそこでまだバロンが1度も口を開いていない事に気付いた。
「バロンくんは人見知り?」
「いや、そうじゃないはずだけど……どうした?」
ヴィセも心配になり、バロンの頭を撫でる。バロンは何か言いたそうにしていたが、話に入れなかったようだ。
「何か言いたい事があるんだよな。ゆっくりでいいから話してくれないか」
「……おねえちゃん、ヴィセの事、好き?」
「えっ?」
「ヴィセは、おねえちゃんの事好きって、言ってた」
「おい、バロン」
ヴィセは頭を掻き、テレッサの顔をチラリと見る。テレッサも笑いながら顔を赤くし、ヴィセではなくバロンへと視線を向けた。
「そうね、好きだわ。友達としても好きだし、かっこいいもんね」
「好きな人とは、一緒にいるんでしょ」
「んー、そうね。好きな人と一緒にいられたら嬉しいわ」
「じゃあ、ヴィセはここに残る?」
「え?」
バロンの突然の言葉に、ヴィセもテレッサも思わず耳を疑った。
「残るって、どういう事だ?」
ヴィセがモニカに留まりたいと言った事はない。テレッサの事を好きだと言った事はあるが、それも愛しているとか、夫婦になりたいとまで言った覚えはない。しかし、バロンは好きな人とは一緒にいるべきだと考えていた。
「俺、ヴィセがジェニスばーちゃんとエゴールさんみたいになるの、やだ」
「お前、そんな事を気にしていたのか」
「だって、ヴィセはドラゴンの血の事で旅をしているんでしょ。おばーちゃんもエゴールさんも、ドラゴンの血のせいで結婚できなかったって」
バロンはバロンなりに気を使ったつもりだった。自分とラヴァニで旅をすれば、ヴィセがここに残り、好きな人と幸せになれると思っていたのだ。幾分早とちりだが、幼いながらに一生懸命考えての事だった。
「バロン……俺はお前を置いて行ったり、お前だけ行かせたりしないよ」
「ヴィセは君だけ行かせるような人じゃないよ、分かってるよね」
バロンはかつて絶対に一緒に行くといい、置いて行かないでと泣き叫んだ。実の姉よりもヴィセと一緒に旅に出る事を選び、ここまで過酷で大きな旅をしてきた。
そんなバロンは、ドラゴン化する体と向き合い、自分だけでなく他人の事を考えられるようになっていた。ジェニスやエゴールの話は、感受性の高い年頃のバロンにとって、ショックだったのだろう。
ヴィセは自分のために、好きな人と一緒にいる事を諦めているのではないか。そうじゃなければいいなと思いながら、気になってしまうのだ。
「ヴィセ、でも……」
「バロン。俺はお前とも、テレッサさんとも一緒にいられるような方法を見つけるために旅をしているんだ。このままでいいとは思っていない」
「そっか。バロンくんは大事なお兄ちゃんを私に取られちゃうって、本当はここに残りたいのかもって、そう思ったんだね」
テレッサはニッコリと微笑み、バロンを安心させようと優しい口調を心掛ける。
「私は確かにヴィセの事が好きよ。ああ、ヴィセも今はあんまり深く考えないで。だから、夢や目標があるのなら応援したい。あなたもそうだよね」
「……うん」
「ヴィセがやりたい事は、私とここに残るなんてことじゃない。君と一緒に、ラヴァニさんの故郷を探す。そして、ドラゴンの血をなんとかする。そうだよね」
「うん」
ヴィセもテレッサも、バロンが不安になっただけだと分かりホッとしていた。自分が重荷になっているのではないか、邪魔ではないか、そう考えてしまう要因は幾らでもあったのだ。
ヴィセは全てをテレッサに任せるのではなく、自分の言葉でバロンと向き合う。
「もう一度言う。俺はお前と旅をする。何年掛かるか分からない。でも一緒に来て欲しい」
「……うん」
バロンは不安に思っていた事を知られて恥ずかしく、それでいて嬉しかった。綻びそうな顔を見せないため俯いていても、バレバレだ。
「ドラゴンの血は他人にも影響を与えてしまうんだ。もし俺の血をテレッサが……その、仮に触ったりとか」
「ふふっ、言いたい事は分かるから安心して。キスも駄目、ってことね。そんな状態で一緒になんていられないわ。バロンくん、早くヴィセを連れてって。治療法を探させてちょうだい」
そう言うと、テレッサは立ち上がり、ヴィセの足元を見た。傷んだ靴は、靴底もずいぶんすり減っている。
「さて、私の店からそんな恰好で出ていかないでよね。あの店には碌なものが置いてないなんて思われたら癪だから。まずは靴! それと色が変わったコート! はい脱いだ脱いだ!」






