ペアリス8
暫くすると、集合場所には多くの馬車と多くの観光客が押し寄せてくる。ペアリス大学の学生たちはそれらを羨望の眼差しで見つめ、退屈そうに講義室から身を乗り出している。
馬の嘶きに合わせて、学園のあちこちから、続々と待機していた馬車が動き出した。バニラはその余りの数に目を見開き、二頭立て馬車の後を追うこの俗的な馬車の行列を窓から身を乗り出して見つめた。
「グランド・ツアーの説明でもしましょうか、先生」
「そうですね。ほら、バニラ君。こちらを向きなさい」
「あ、は、はい!失礼しました!」
君主の凱旋にも似た大行列は、ペアリス大学を出ると大通りを占領するように歩く。先供の導きに従い、大海を割るモーセの出エジプトの如く、人並みは彼らの道を開く。 道の端に縮こまる傘貸しが先供に手を振ると、それを返しながら、甲高い声が都心の石橋に響き渡った。
この生気に満ちた声を区切りとするように、モーリスは一つ咳払いをして概要の説明を始めた。
「さて、グランド・ツアーとは、そもそもルクス・フランソウス先生の遠い血縁を持つ女伯……と言っても、何世紀も前の血縁だそうだが、まぁ、それは良いとして。この女伯、ジョアンナ・ドゥ・ナルボヌ様が開設したルートを基に作られた、集団旅行企画だ。君達もご存知の通り、この行路はカペルの主要交通網を利用して南方辺境のナルボヌ領へ向かい、そこから旧都市国家ジロード、キッヘ巡遊を経てエストーラ領ウネッザへ、、そしてノスタンブル、聖地へと向かうものだ」
「今回はナルボヌ嬢が宣伝も兼ねて僕を案内してくれたので、僕が格安の旅行費を利用して数人分予約を取り付けたわけだね。まぁ、彼女は何と言うか、金稼ぎが大好きだからね。ギフトのつもりで楽しむと良いよ」
ルクスは彼らの緊張をほぐす目的で言った。バニラには金稼ぎの好きな貴族と言う表現が奇妙に思えたが、彼の関心は既に目下の説明ではなく、旅路の中にあった。
長く縮絨工の息子として過ごしてきたバニラには、大学へ通うための援助も心許なく、ペアリス大学への在学中も、研究の傍ら、講師の手伝いから広場での説教、煙突掃除、教会の説教補佐まで、とにかく手になる職業は全てこなした。その結果、遅々として研究が進まない事もあり、年齢よりも課程の進行が芳しくない。そんな彼が、この度、この大周遊を経験するのであるから、彼の心が躍らないはずもない。普段より無表情な彼も、期待に膨らんだ頬を収めることが出来なかった。
「おうおう、良い表情してるねぇ!鼠みたいに膨らんでらぁ」
クロ―ヴィスが彼の膨らんだ頬をつつく。妄想の中から引っ張り出された彼は、馴れ馴れしいこの男の手を払い、モーリスに向き直る。彼は説明を集中して聞けなかったことに謝罪の意を込めて、恩師に頭を下げた。
安定した二頭立て馬車の快適な旅では、その体制でも特にバランスを崩す事もない。小石を弾く強力な車輪の回転が、改めて不釣り合いなように思われた。
モーリスは困ったように微笑み、装飾の多い白い荷馬車の側面に描かれた一枚の肖像画に目を向けた。
「これは研修旅行だから……私も講義をしながら旅をしたいと思う。まずはペアリス大学を擁するあの、城壁の向こう側になった我々の舞台の成り立ちについて話をしようか」
「先生、成り立ちよりも俺は今の生温い法律の方に話を持っていきたいんですが」
モーリスの言葉に、クロ―ヴィスはべっと舌を出す。ピンギウがじっとりとした目つきで彼を見つめたのを、向かいに座っていたルクスの悪戯心に火が付いたらしい。
「クロ坊は頭がいいのに知識がないからなぁ!そうして今回も面倒事から逃げるんだろう?」
華奢な肩が音を立てて持ち上がる。彼は不快そうに眉を引き上げ、口の端で怒りを抑えた笑みを浮かべた。
「先生、俺はその話に関心があるね、大いにある。この悪たれ貴族の鼻をへし折る為にも、先生の大事な知識を頂戴したい」
「二人とも、もう少し大人になって下さいよ……」
ピンギウの言葉に、二人の笑みと怒りのないまぜになった表情が向く。間に挟まれたバニラは、この太った人物の突出した勇気に却って身の毛がよだった。
そして、彼らの恩師の大きな咳払いの後、やっと解説が始まったのは、大周遊の行列が全て城壁を出た後であった。




