世界樹
〈ファーヴニル〉が住処にしていた山とは随分違う。雪と緑に荒れ地が見事に調和している様子は美しかった。
ここ周辺で一番高い山へと登りたくなったカイだが、それはやめておいた。自分の能力では登山という行為を冒涜している気がした。そうしたところでは奇妙に律儀な男だった。
今、世界情勢は混乱している。中央が提唱していた“神話の奔流”の第4段階が、実際に始まってしまったからである。
〈ファーヴニル〉がいたときは全ての国々が力を貸した。しかし、ほんの数年でその気概は消え去ってしまったのはどういうことだろう。共同戦線の提案めいた申し入れが幾つも舞い込んで来るが、自分たちは安全圏を確保したいという心情が裏に隠されたものばかりだった。
〈英雄〉たちにも故郷から返ってきてくれるよう打診が多く、カイも日本から同様の話が飛んできたが、断っている。中央というシェルターは攻めるための砦であり、そこに集ったもの達も神々を相手にしようという連中の集まりだ。そこが理解されることは無いらしい……それでも兵力は欲しい。
中央はむしろこちらに来てしまった異界の住人達を当てにしている始末で、カイがここに来たのもある種それの一環だ。
「さて、巨人たちはこちらに来ているのか。来ていたとして、この混ざりものと言葉を交わしてくれるかねぇ」
はぁと息を吐けば湯気が口から立ち上る。どんな山脈であれ、カイにはもう登頂が容易となっている。山を登る楽しみは失われたが、景色を楽しむ権利は残されているようでカイは嬉しく思う。
ヨトゥンヘイム。霜の巨人族と丘の巨人族が住まう世界のことである。
余裕、あるいは先を見据えて戦うものには疑問があった。あらゆる世界が混じり合ったのならば、どうして全ての要素がこちらに来ていないのか。
確かに次元の違う建物や木々は移動して来ている。ケレブイエルのようなエルフの故郷がいい例だろう。それはつまり怪物達の強さだけでなく、他の世界の建造物や植物にもランクがあり、“神話の奔流”の進行度合いによって徐々に現れるのだ。
フレスベルグが出現したように“神話の奔流”は第4段階に移行したと行っていいだろう。そして人間たちも〈英雄〉を超えた存在が現れた。
ゆえにカイはここへとやってきた。巨人か、あるいは神々の意向を確かめに。
現在のカイは人であり、神であり、巨人である。使者としては申し分ない存在だが、上手くいく可能性は低い。それでも試みてみる価値はあるのだ。敵を知らねば、全てが敵となる。
中央はあらゆる勢力の中で泳ぎ回らなければならないのだ。同族と政治ごっこをしている暇が無いから、神々と口論してみるとはなんとも切羽詰まった状況だ。
カイとしては巨人を探してみるつもりでいた。理由は単純に見つけやすいからだ。雪が積もった山でも、巨人なら見つかるだろうという目算だが……カイは想定外の物を見つけてしまった。
「馬鹿な……」
神話が敵になるという想定から幾度も調査されている。現在でも生き残った衛星から画像を取り込んでいる。なにせ北欧神話の中でも明確に関連付けられている地だからだ。
その名の通り、ヨトゥンヘイムと関連付けられているヨートゥンハイメン山地。そこでカイは呆然と上を見上げてた。なぜ、記録に残っていないのか。あるいは今、まさに出現したのか?
山頂にあったのは木の幹。はるか上方へ宇宙すら目指していくような威容は誰しも、その名を連想するだろう。
「ユグドラシル……」
それは9つの世界を内包する世界樹。同様の神話の中でも特に有名なものだろう。
カイの中にあるフレスベルグがあれは本物だと訴えかけている。
人類が生きてきた世界をミズガルズとするならば……虹の橋を渡れば天上界アースガルズへ、根を辿ればヘルヘイムあるいはニブルヘイムへと行き着く。それがなぜこの山にあるのか、全く訳が分からない。
頭に付いたカメラと通信機を使って、離れた中央へと語りかける。
「本部! 俺の前にある樹が見えるか!?」
『いいえ、何もありませんが……あるのですか?』
「ライザか! すぐに視覚に働きかけられる〈英雄〉を……」
いきなり途絶える通信。それは咄嗟の反応だった。
横に飛びざま、真紅の篭手を形成。羽を作り出すまでは至らず、フレスベルグも応えない。
いきなり出来得る限りの戦闘形態への移行に、煙を上げる両腕。治った両腕が神火により焦げていくが、眼前の人物に集中して痛みを耐える。
「お前は……俺を見ていた……」
「話すのは初めてです。我が〈英雄〉。わたしとしては自由に動いて欲しいのですが、ここに辿り着いた以上は警告の一つも必要となる」
強力な〈英雄〉を夜中に見張るように浮いていた女。こうして間近で見れば、可愛らしさよりも凛々しさが上回る。宙に浮いていたときと同じく、金髪をたなびかせながら微笑んでいる。
向こうがどのような目で見ているかは分からないが、カイは己のワルキューレを値踏みしている。戦闘能力だけなら自分より劣る。しかし、人間の機器に干渉し、気配を感じなかったという点からすれば侮ることなどできない。
ワルキューレはサガによって性質を大きく異にする。戦死者の半分を連れ去る。英雄をヴァルハラへと導く。運命に愛された王を守るため。自ら戦う……さて、どうするか。無闇に敵対関係を築きたくは無い。
「かつて焼かれた虹の橋。そこをアナタが通れば、あらぬ誤解を招き、要らぬいさかいを生み出す。規模の差は大きくとも、今のアナタは炎の巨人なのだから」
「スルトと並べてもらえるのは光栄だが、つまりはアースガルズには行くなという意味か?」
「はい。本来であればアナタが死んだときに私が迎えに行くはずが、このようなことになり残念です」
残念ということは、一体どれを指して言うのか。神火を拝領したことにより神の要素を持つことになったことか、フレスベルグを喰らい巨人の魂が混ざったことか……あるいは、それらによって自分が死ぬはずの時に死ななかったということか。
ギリシャ神話の方が混沌としていて関わりたくないと思っていたが、北欧神話は筋書きを重視して鬱陶しい。
「しかし、見識を広めるのは良いことです。アナタの船は見ていてあげましょう」
「は?」
「だから、まずは世界樹の根を知るといいでしょう」
足場がぐらついたと思った瞬間に、カイの足元に穴が開いて落ちた。ここにそんな穴など無かったにも関わらず。
カイは舌打ち一つして、翼を咄嗟に作り出すが……炎の翼は銀槍によって霧散した。
「お前ぇ……!」
「願わくば、生き抜いて這い上がり、そして死になさい。その時には抱いてあげましょう」
快活な声でおぞましい言葉を紡ぐ、戦乙女を睨みつけながらカイは奈落へと落下していった。




