五十三
鉄が剥き出しになった五指を見つめる。有り合わせの、金属部品をつなぎ合わせ、より集め、どうにか手の形を作っているかのような機械手だった。獣の爪めいた指先と、乾いた人骨を思わせる骨組み。カーボンの黒光りを一つ一つ、感触を確かめるように、握り込む。鉄同士がこすり合わされて、油の足りない音とともにぎこちない動きを見せた。
二度、三度と感触を確かめる。神経が通い、考えるまま、それこそ元々の手と変わりはないというもの
の、違和感は拭えない。じっと見ていたら妙な気分だった。
調は左手を下ろして、目の前のガラス壁に目を落とす。
分厚い透明な壁を隔てた無菌室と、中央に位置するベッドに眠る一人の少女に視線を注いだ。今、リツカを包み込むのは、柔らかい酸素膜とバイオ素材のシーツ、少女の華奢な肢体をリネン素材の衣が包み、透明なチューブが首と肩にからみつく。
眠る横顔は、今までのことすべてがなかったかのような穏やかさを湛えていた。雪火野でのこと、千秋との決別も倉木に撃たれたことも、もしかすれば幻であったのかと疑うほどの穏やかさだった。車椅子を繰り、ガラス壁の近くに身を寄せて手を伸ばしかける――まだ血肉が残る右手を。
「待った?」
後ろから響いた声で、調は手を下ろした。ヨファが呆れとも軽蔑ともつかない顔で睨んでくる。
「なんか変な気でも起こしたんじゃないでしょうね」
「そういう趣味はない」
調は肩をすくめて見せた。左の肩だけやけに重く感じる。
「それで? どうなの」
「あと一月はこのままだそうだ。臓器を移植しても体力が戻るまでにはそのぐらい時間はかかるらしくて」
「ああ、リツカのことは分かってるけど。あなたの方よ、その体」
ヨファは調の、ほとんど機械化された体を眺めた。剥き出しの金属部分は千秋によって貫かれた左腕であるが、その中身。リツカに提供した臓器の代わりに、調の中には大小の金属部品が収まっている。生物素材ではない、原野の影たちと同じ金属を、抱え込んでいる。
「体が重い」
そのため、一人では歩けない。脳波操縦の車椅子に座り、立ち上がることが出来るようになるまでは、しばらくはこのままだろうと技術医師に言われたばかりだった。
「臓器のほとんど、提供しちゃったんだっけね」
「ここまで機械化されりゃ、影どもと変わらないな。千秋はこんな体で、どうやって動き回っていたのか」
調は車椅子の方向を変えた。電動駆動の車輪が数ミリだけバイオの大理石床を滑り、ゴムがこすれる音がする。真新しい車輪が削れるのを感じながら、脳波を読み取って駆動するミオシンモーターの燻る駆動音を聞く。
「北東の処分が決まったよ」
ヨファは車椅子の後ろから歩いてきた。
「連邦の預かりになるんだっけか」
「機械はすべて分解されて、あの辺り仕切っていた連中もそのうち軍事裁判にかけられるだろうね。都市開発のチームが乗り込んでいったから、あそこも州都の一部になるんだろう」
かつての倉木の言葉が、蘇っていた。どちらかが生きれば、どちらかが滅びるしかない。まさに、倉木の予言通りだった。雪火野は滅び、州都に飲み込まれる。あの地に生まれたものたちも、やがては新人たちの進歩的で独創的な生活に慣れ、あの土地を離れることとなる。
医師たちとすれ違い、医療カプセルが運搬されてくるのを、脇に避け、ロボットたちが過ぎ去るのを横目で見やりつつ病院の外に出た。
港湾に面した路を挟み、金色の陽が立ち昇るのを見やる。陽の光はそれでも、鋭い空気とは裏腹に暖かみを帯びていた。その光を、初めて目にしたと、思った。暁光は、雪火野を塞ぐ雲の中では見ることもかなわず、入り江の家を照らした夕暮れの陽よりは明るく、黄金色をしている。
「それで、どうすんのさ」
ヨファが車椅子を後ろから押してくる。海岸線に沿って、歩いた。人の手など借りずとも、自分の意思のまま動かすことが出来る車椅子を、調は押されるままになっている。
「まだ決まっていない。リツカは回復したら、アヴァエフが引き取って医療を学ばせるのだと。まあ奴も、議会から沙汰が下るまでは身の振り方もわからないが、今回は緊急事態ってことで処分も重くならないだろうって」
「そうじゃなくて。いや、リツカのこともそうだけど、私が言ってるのはあんたのこと」
「俺のことなど」
目の前を、白い陰がよぎった。ワンピースの裾が広がり、小さな足で駆けてくる幼子が、振り向き、少しだけ笑いかける。
最初に見たときから、随分とかけ離れている。操が、あの入り江で思っていたことは、恨みだけではない。本当に彼女は、世界を憎み、それでも彼女は調を慕っていた。無邪気な笑みは、もうずっと長いこと見なかったもので、しかし本当はずっと見ていたものだった。彼女が笑いかけ、その陰ごと掻き消えるまでの間、調は声を失い、だけど声にするまでもなかった。
「もう軍には戻らないんでしょ? あの子が戻ってくるまでに、何とか生計立てる方法見つけないと」
「これから考える。リハビリしなきゃならないから、今はそこまで頭は回らない」
彼女が消えるまで、見送った。もうそこには何もないのだという思いが、絶望ではなくただ、事実として残る。どこにもいない、でももう追い縋る必要はない。俺はここにいる、ここにいることだけで、それだけでいい。
「だけど、お前まで去ることはないだろう」
「一応、勝手しちゃったからね。命令違反はあんたの専売特許かと思っていたけど」
「馬鹿を言うな。処分は受けても、辞めることはないはずだ」
「だって、あんたが辞めるんじゃね」
ヨファは車椅子の背もたれ越しに調の顔を覗き込んだ。
「あの子戻るまで、あんたが寂しいって泣かないようにしてやんないと」
「泣くか、馬鹿」
「泣いたじゃない、あの時。寂しい寂しいって泣いてたから、すぐに分かった」
「だから泣いてない」
顔を背けると、ヨファは面白がって頬を突っついてくる。
「またあんたが泣き出さないように、見張ってやらないとね」
「どうしてお前はそういう……」
「そのために私がいるんだって。前に言ったでしょ?」
そう言ってヨファは調の肩に触れた。髪を撫で、首筋をなぞる、指先は愛おしそうに調の輪郭を撫でた。
「簡単に逃げられると思わないことだね。あんたはそれでなくとも、すぐにどっかに行っちゃうから。ずっと捕まえておくぐらいで丁度いい」
「面倒なことだ」
それでも、不思議と不快ではない。もう旋法など、片鱗すら触れることも叶わないが、ヨファの声は柔らかく、清涼で、澄んでいる。
それから他愛もないことを話した。ヨファが車椅子を押し、調は背もたれに身を預ける。朝の陽が高く昇り、金色に白色が差してゆく光に、目を眇めながら、意味のない会話を続けた。
――本でも出せばいいんじゃない。
――どうしてそうなる。
――ドキュメンタリーみたいな感じで。もしくは小説にするとか。
――いつの時代のデッドメディアだ。
会話から会話に、欠片を一つずつ拾い上げるよう感覚で、ヨファの言うことを受け止めていた。ぎこちなく、途切れがちだったヨファとの会話が、今では何の障壁もないように思えた。
声が、金色をしている。清涼であり、燃えるようでもある。彼女の旋律は、何ものにも邪魔されないものであり、すっと心の奥底にまで入ってくる。そういうものだった。回路はすでになく、歌音を感ずることはないとしても。彼女の声は心地よい。
――リツカはどうするの? 一緒に暮らす?
――それはリツカが決めることだ。
――でも妹なんでしょ。
――妹であって、そうでもない。
あいつは操とは違うから。
ふと、潮風が吹いた。わずかに残った神経が、受容器官が風を拾い上げ、潮の香りがくすぐってくる。もうずっと昔の記憶だった。一番はじめの思い出と、辿りつく先に見える光。かつてそこで生き、そこから逃れ、再び生きることを選んだ。
「なあ。海、行きたくないか」
調が言うのに、ヨファが不思議そうな顔をする。
「海?」
「ああ」
そっとつぶやく。
「海だよ」
雪の原野と、音の都と。そこにあるものがすべてだった。そのどれもが、閉じているものだった。閉じたまま生きて、老いてゆき、死に行くすべてがあると。誰もが信じて疑わない。そこから外れたものが、ありえてはならないと感じている。
それでも、模索した。そこから抜け出すことが叶わないならば、他の道もあるのだと。そして選んだ。誰にも理解されない、それでもここにしかないものだった。その誰にも知られない空白を抱いた。抱きながら探した。手を伸ばし、つかみ損ね、もがき続ける。これからもそうあり続け、そしてそれは終わらない。
金色の陽が、照らしていた。日没までは、まだ時間がある。そこでかつて失ったものを手にしようともがいた。そして零れ落ちたそれは、それでも。足掻いた分だけ価値があると微笑んだ。
だからそこで生きる。その空白を抱いたまま、立ち止まらずに歩いた。かつて求めたものとは違う、新たな価値を見出して。
入り江を、臨んでいた。生まれた場所と生きた場所だった。そしてまた、そこに至る。これから生きる場所に。
潮風が、吹いている。金色の光の中にいた。
白騒の波打ち際。
薄藍の日没。
あのトンネルを抜ければ、
ぼくらの家がある。
帰るべき場所が、そこにはある。




