五十二
本部の屋上から下界を臨む。朱色を映したビルが陽光を反射するのが見える――音叉塔とパネル群、うねりながら都市を縫う高速道路。雲が切れた合間から、ナイフのように刺さるその一つが、少しだけ積もった雪の白さを際立てて、その一つ一つのまぶしさに、思わず瞼をすがめる。
「ここはまだ、暖かい」
彼女がこぼした。白く棚引く息づかい、声音はこの朝を象徴するような色と形をしている。冷たく澄んだ色、奥行きのない細い線を束ねた感触。ヨファが訊く、彼女の旋法は、そのままの情動を表すには少しだけ不快さを伴っていた。
「原野は寒かったでしょう」
彼女――カミラは、もたらす答えなど求めないという口調だった。彼女がひたすらに目を向ける先に、広告塔がめまぐるしく変わり、その文字を追うことに終始していた。北東の制圧を報せるニュース映像。北東に軍と、ボランティアが派遣され、勝利を伝える文字列が同時に流れる。
「あの土地じゃ、降雪も気温も、ここと全く違うからね。昔から雪と格闘しながら生きてきたような場所だから」
「それも過去の話」
ヨファは、カミラから目を離さずに言った。
「そういうことだね」
ようやくカミラは向き直る。朱と黄金に埋没する都市を背景に立ったカミラは、少し見ないうちに線が細くなったような気がした。頼りなさげな、弱々しい笑みが、なぜか記憶の中にあるカミラ・リクスナーの姿とは重ならない。あるいはもっと前からこうだったのか、それを思い出すこともなかった。
「あなたには苦労かけたわね。あの馬鹿のお守りを押しつけるみたいな格好になって。軍法会議ものでしょう」
「私の判断でやったことですから。それに、軍はもう辞めるつもりです」
「そう、もったいないわね」
ヨファは少しの間目を伏せて、どう告げれば自分の気持ちを悟られずに済むかと考えた。どうせ無駄だと知りながら。
「自分で決めたことです」
やはり、隠し通すことはない。砂を食む情動、繊維質な声。旋法は、何よりも正確に紡がれる。カミラはヨファの情動を読み、理解したように微笑をつくった。
「それに辞めるのは、あなたもそうだと聞きました」
ヨファがいうと、カミラは少しだけ驚いたような顔になる。
「情報が早いわね。大方、ハマがそんなことを吹聴したんでしょうけど」
やがてカミラは、すぐにそれと分かるような旋法でもっていう。
「責任をとるつもりですか」
「そんなんじゃないよ」
とカミラは肩をすくめ、
「どうせもうすぐ引退だからね。もうこれ以上、頑張ることもないかと思ったから」
「調のことで」
ヨファはあくまでも食い下がった。
「思い悩んだ結果だとしたら」
「そう思う?」
「思います。旧人であるあなたが、調を目にかけて、鍛えてきた。その時が終わろうとしている今、あなたが軍に残る意味もない」
そこから先を告げることが、二人にとってごく自然であるかのようにヨファはいった。
「気づいていたの」
「普段から旧人に接していない人間からすれば、分からないでしょう。少なくとも訓練校時代は私も分かりませんでした。でも今は、あなたの言動が歌音を意識したものだと感じられます。あなたが衣服の下に回路を隠していることも」
頭上を飛行船が差し掛かる。広告媒体を張り付けた巨大な玩具が、屋上に影を落とした。一時影が、カミラの表を覆い、目を伏せたカミラの表情に陰りが生まれる。やがて影が過ぎ去ると、カミラはどこか吹っ切れたような顔で見据えた。
「最初はね」
ふと、同じ方向を見ていたヨファは、カミラの一言に我に返る。カミラは、記憶の中にしか存在しないものを見ているようだった。
「あの子らが社会に出ても困らないように教育されたら、それで良いと思っていた。旧人であることに加えて、あの子たちは生い立ちも特殊だから。教育プログラムは、旧人の子がいかに新人の中で馴染んでゆけるかっていう観点で行われていたから」
「詳しいことは分かりませんが、教育そのものは民間に託してあったと」
「州府と企業の連携だった。でもうまく行かなくてね。あの子の――操のように、プログラムを受け付けない子供も出てきてしまって。プログラムはその一回で終わった。調は民間ボランティアに引き取られるはずだった」
「でもあなたは、彼を白兵として育てた」
繊維質の声が続いていた。ヨファではなく、カミラの。発している本人までもが、それを飲み込むことを躊躇ってしまうような、乾きと棘を内包する歌音だった。
「前に言われたことがあるよ。私のような人間こそが、あの子を正しい道を示してやるべきじゃないかって」
「正しい道というと」
「この街に、一番よく馴染む旧人になるようにと」
そしてその声は、カミラ自身をも傷つけている。明確な傷でなく、もっとも深いところを刺激するものだった。
「彼を導くことが、私みたいな立場の者がすることだって。旧人として生を受けて、社会に貢献するものとして。いたずらに周りを傷つけ、敵対することが旧人の生きる道ではない、新人たちと協調し、とけ込む努力をしてこそ、ここで生きる道がある」
"イースト・レビュウ"のスローガンを思い出していた――獣性を脱ぎ捨てよ。キャンペーンに一番熱心だった、旧人たちの姿。
「そう、しなかったのですね」
「しようとも、考えた。でも少し見てみたくなった」
声は、そして青みがかり、痛みは冷たさ、感触は憂い。気づけば自分の声だった。それはカミラのものであり、カミラの情動そのものを表してもいることに、気づく。
「誰に強制されなくとも、歌音というものに身を晒していれば、新人たちに同化してゆく。誰もがそうだし、ここで生きる以上はそうしなきゃならない。あの子のように――操のように、主張することは許されない。私がそうしたように、抑え込まなければならない」
カミラはやがて向き直る。微かにこぼした笑みには、悲哀じみた色を浮かべている。声以上にそれは、寂しげだった。
「でもあの子は違う。自分を押し殺して、自分をひた隠すことしか出来ない私とは。この街の旧人たちがそうするように、望みを通すことを極度に恐れる私とは違う。それまでずっと、周りと合わせることしかしなかったあの子が自らの意志を口にしたのはあの時が初めてだった。施設にいた子供は、周りと同調することを自然に覚えて、調もそうなろうとしていたけど。初めてだったんだよ、あの子が望みを口にしたのは」
「その望みを叶えるために?」
「今思えばちゃんと諭してやるべきだったかもね。一時の気の迷いだって、もっとよく考えろって。でもきっと、私がなにを言ってもあの子はきっと、同じ道を選んだろうね」
「あなたは」
冷たい空気が刺してくるのが、やけに痛々しく、その痛みはどこかカミラの旋法と似ていて。
「あなたは、調の望みを殺すべきだったと思っているのですか」
「どうだかね」
むしろそのものであるかのような気がしていた。凍り付いた弾丸が直載に放たれ、胸の内に撃ち込まれる――ヨファは感じる痛みは、カミラにも帰結するものだった。通り過ぎた後も尚、残る。青ざめた痛みを、いつまでも抱いていた。
街並みは、そろそろ色を変えてくる。涼しい旋法が、膨張色の赤紫に移り、都市全体に広がる音色は、活気に溢れていた。今このときを生きることの喜びと、悲しむことが許されない、徹底した楽の感情をたぎらせるような。どこにでもある歌音を背にしてカミラは去ろうとしていた。
「これから」
止せばいいのに、と自分の行為に呆れながらも、ヨファは呼び止める。
「これからどうするのですか」
「最初に話した通りだよ」
カミラは振り向こうとはしなかった。
「軍を去ってからのことです」
「それはまあ、そのうち考えるよ。軍人年金だけで、暮らしてゆけるかどうか分からないけどね」
「このまま会えないなんてことはありませんよね」
幾分問いつめるような口調になってしまう。カミラの、実が伴わない空気じみた歌音が不安にさせてくるようで。カミラは背中を向けたまま応えた。
「それはどうかね」
「調が戻ってくるのですよ、教官」
一瞬、カミラが振り向きそうになる。
「彼が、ここで生きてこれたのはあなたの存在があってこそであるならば。これから彼を支えてゆけるのは」
「もうあいつに、私は必要ないよ」
すべて悟りきったか風にカミラが言う。
「私のような人間は、これからは必要ないし、あいつにはもうあなたがいるからね」
ヨファがそれ以上何かを言う前に、カミラは立ち去った。
朝の陽は徐々に黄金を帯びていた。都市を淡い光に満ちさせる、太陽光のパネルが反射する光が、やがて都市全体を飲み込んでゆく。




