三十三
リツカの左手が弦に触れた。
薄茶の花梨材を用いた本体に、ナイロンの弦糸が通い、先端にプラスティックの糸巻が三本、交互に突き出ている。胴には合皮を張り付けた独特な形の弦楽器。リツカはそれを抱え込み、扇形の撥をあてがった。
弦を弾く。右手で打ちつけ、左手の指で弦を抑える。基本形はギターとは変わらないが、撥は弾くというよりも弦そのものを叩くかのような奏法でもって行う。音はそのため、爆ぜるようであり、打楽器的だった。滑らかさを肝とする弦の演奏とは、まるで異なる。音の高低もはっきりしていて、どちらかと言えば音律は計算されつくしているのではなく、感覚に委ねられている。
それでも音は、途切れることがなかった。州都で聞くような、安定的で緻密な音律ではなく、荒い旋律だった。旋法は細かく分ければ良いという、州都の楽理とは違う。単純で粗野、それでも聴くものを不安定にさせるものではない。音を直接に刻み付けるような印象。
「これが」
リツカは手を止めた。
「三味線って奴だよ。初めて見る?」
「同じ弦楽でも、随分違うものだ」
聞き終わった後にも昂揚感が尾を曳く、そういう余韻に浸りながら調は感想を述べた。
「音階の少ない楽理は、州都の人間には受け入れられないだろうが、それはそれで味がある。旋法も荒っぽくて耳に痛いが、よくよく聞けば計算されていて、聴けばそれなりには」
「褒めてんのかけなしてんのか、どっちかにしたら」
「褒めている、つもりだが。一応」
調が慌てて言うと、リツカは可笑しそうに笑った。
「音の理論なんて分からないし、実際に演奏する分にはほとんどが即興なんだけどね。ただこれを使って、州都の音階で弾くことも出来ないことはない。でも私はこっちの方が好きかな、千秋もこっちの方が良いみたいだし」
リツカは三味線の糸巻を廻しながら、弦を調整する。
「皆は千秋のこと、無表情だって言うんだけど、これを聴かせるとすごく聞き入って。きっと千秋は、この音を好きなんだろうなって」
弦楽の音に聞き惚れる軽機動の姿を思い浮かべようとして、しかし全く想像もできず、調はかぶりを振った。
「心がなければ、音楽を理解なんて出来ないでしょう? ちゃんと心があるから、ちゃんと聴いて、それが顔にも出る。脳が破壊されているから心がないなら、どうして音楽を楽しむことが出来るの」
「楽しんでいるかどうかも分からないだろう。大体、言語能力を失っても、脳の音楽領域が生きていれば音楽を理解することは出来るし、数理能力が生きていれば音階を理解出来る。心の在り処とはまた別の問題だ、それは」
「そうなんだよね」
リツカは三味線の弦を指先で弾いた。
「だから、それが分かればいいんだけど。こっちの医療じゃ、限界がある。千秋のこと、治してはあげられない」
「都市に出たい理由は」
調は注意深く、手を伸ばし、湯呑を掴んだ。骨の状態は、ここ一週間で大分回復している。
「あいつを、あの男を診るためか?」
「都市の話なんてあまり聞かないけど、それでもここよりは医療は行き届いているんでしょ? 本気で勉強するなら、ここだけじゃダメじゃない」
操の目と操の声が、都市へ何らかの希望を見いだしているという事実が、それだけでも奇妙なものだった。あるべき姿と規定した、頭の中に組み立てた像が、方向性だけは逆に位置している。それは、汲み上げた立像が完璧に近いだけあって、強烈な違和として残るのだ。入り江の少女、原野の少女、同じであって全てが違う。
「都市では」
像をかき消すべく調は声を出した。
「旧人向けの医療は、進んでいるといっても、新人のそれに比べるべくもない。再生医療は二十二世紀から止まっている。大体が、現代の医学でどうにかなるなら情動系を壊された旧人を元に戻すことだってわけない。それが出来ないから、千秋のような人間がいるんだろう」
「すぐに治せるなんて思わないよ、もちろん。けど最新の医療を勉強していけば、そういう道も開けるんじゃない?」
ヨファの声が段々と苛立ちを帯びてきていた。
「千秋がね、廃人同様になっていたのを治したのはミハルさんなんだよ。脳にナノ分子を導入して脳に補修して。ここじゃ大々的に出来ないけど、州都でその技術が応用できれば、脳を壊された旧人を治すことだって出来るよ」
「しかし」
調は次に告げるべき言葉を選んだ。
「そう簡単にはいかないだろう。もし、都市で医療を学ぶなら、前に言ったかもしれないが新人たちに完璧に溶け込むぐらいでなければやっていけない。ここで普通に生を受けていたものが、いきなり新人と同じくに出来たためしは無いが」
「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃない」
「やってみなくても分かるさ。所詮奴らとは種が違う、構造が違う。都市で生を受けて、物心つく前から新人たちと暮らして、それでもダメだった奴がいるんだ。どうしても溶け込めず、衝突を繰り返して、結局は連中と決別するしかなかった奴が」
そして都市を抜け、今はどこにいるのか皆目見当もつかない。この原野で、生きているのか死んでいるのか。
リツカはどうにも理解できないという顔をしていた。
「でも調は、溶け込んでいたんでしょ?」
「表向きはな。けど最近分かったんだ。所詮奴らを理解しようなんて不可能なんだよ。理解など皆無。主張もせず、己を殺し、ただ従順に頭を垂れ。決して情動を伝えてはならない。新人ではない旧人には――」
「あのさ」
リツカは碗を片づけて、うんざり気味といった風情で言う。
「阿宮も、あと他の雪火野の皆も、同じことしか言わないね。都市に出るなんて無理だって、まずそれありき。前例があるからそう言ってるんだろうけど、本当にうまく行くことはないの?」
「それはあるだろう。ただし、新人どもに完璧に迎合しなきゃならない。原野のことも、すっかり忘れ、連邦の一市民として生きるつもりならば。そして旧人であることをひた隠しにして、奴らが無理矢理押しつける図形やら色に一生つきあい続けるつもりがあるならば」
「何か変なの」
限界を超えたとばかりに、リツカは声を発する。
「あんたも倉木も、どっちかがダメでどっちかなら良いってことしか言わない。どっちもって選択はないっての」
「それをさせない素地があるんだよ。都市に赴けば原野のことは忘れなければならないし、逆もしかり」
「なら、阿宮はもう都市には戻らないの」
言葉に詰まった。調は次にくる言葉を絞りだそうと、懸命にのどを動かした。それが全くの無駄であることを気づきながらも、そうしようとした。
出来ないのは、調自身がそれを発することをためらっているから。どうしても頭にちらつく像が、離れないためだった。あのとき、決別したはずだったのに。ヨファを手に掛け、自身をあそこで断ち切ったつもりだったのに。それなのに――
「リツカ」
いつのまにかミハルが、部屋の入り口に立っていた。その気配を、感じることもなかった。
「ちょっと悪いけど、お使いに行ってもらいたいんだけど。薬が足りなくなっちゃって」
「お使いって、今から?」
「そう、今から」
リツカが窓の外を臨むに、視界を白く染めあげる雪景色が広がっている。心底面倒くさそうに顔をしかめた。
「こんな雪の中を」
「雪なんて珍しくもないでしょ。必要なものはこれに書いてあるから」
「はあ、分かったよ」
ミハルからメモを受け取ると、リツカは腰を上げた。
「そんじゃ、後でね」
そう言い残し、まだぶつくさ文句を垂れながら、部屋を出て、防寒の厚手の上着を重ね着た。首にマフラーを巻き付けると家を出て、その扉が完全に閉まったころにようやく、調の声も戻ってきた。




