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英雄の心がわり  作者: 酔夫人(旧:綴)


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鉛色の裏切り(2)

「……え?」

 

リリアンナは耳を疑った。

まさか、という思いしかなかった。


「堕ろ、す……?」


嘘だと、冗談だと言ってくれることを期待して、リリアンナはイグナシオの顔を見た。でも、イグナシオの無表情は眉一つ動かなかった。


「その子どもを産ませるわけにはいかない」


まるでリリアンナの腹の子が悪魔であるかのような言い方だった。


イグナシオは頭がおかしくなったのか。


リリアンナはそれを期待したが、イグナシオの目は正気だった。


(産ませるわけにいかないって……もしかして)


「その女性との間に子が生まれるのですか? その子どもを長子とするため、そんなことを仰るのですか?」


リリアンナの言葉をイグナシオは認めなかったが、否定もしなかった。その態度にリリアンナの頭にカッと血がのぼった。普段のリリアンナは『ドゥヴァリス公爵夫人』に相応しくあろうとして淑やかにしているが、本来のリリアンナは気が強い。カッとなれば、手が出るほうだった。


「……っ!」


リリアンナはいつの間にか手を振り上げていて、イグナシオの頬を思いきり張り飛ばしたその痛みで我に返った。


「あ……」


リリアンナにとっては、自分の手が痺れて痛いほどの精一杯の力だったのに、イグナシオの体は揺らぐことすらなかった。イグナシオはその場に立ち続け、しゃがみ込んだのは、力が抜けたリリアンナのほうだった。


「嫌です」

「だめだ」


イグナシオの冷たい声に、リリアンナは首を横に振って抗った。


「離縁しますから、私はこの子と二人でどこか遠くに……」

「認めない」


リリアンナはイグナシオをキッと睨んだ。


「あなたにこの子が必要ないからと言って、私に……」

「俺が駄目だと言っている。その子どもは堕ろすんだ」


イグナシオの断固な声に気圧され、リリアンナはそれ以上を続けられなかった。


リリアンナは、英雄の権力(ちから)をよく分かっていた。


英雄・イグナシオの言葉は絶対で、イグナシオが「白」と言えば、黒でも白にさせられるのだ。


(……戦う?)


頬を赤くしつつも、平然としているイグナシオの姿にリリアンナは首を横に振った。


(勝てるわけがない……勝てない、なら……)


「お願いします」


リリアンナにはもう“頼むこと”しかできなかった。


「駄目だ」

「産ませてください、お願いいたします」


「コンスタン」


リリアンナは床に手をつき、額が床につくまで頭を下げてイグナシオに懇願したが、返ってきたのはイグナシオが家令長を呼ぶ声だった。


「コンスタン!」

「も、申しわけありません……」


この状況に呆気にでも取られていたのだろうか。普段はキビキビとして冷静なコンスタンの慌てた声に、リリアンナは顔をあげた。イグナシオはリリアンナに興味を失くしたかのように、もうリリアンナを見ていなかった。


「リリアンナを馬車に乗せて……連れていけ」

「……分かりました」


コンスタンに指示するイグナシオの声に温度はなく、リリアンナに優しく、子どもが生まれるのを楽しみだと言っていたはずのコンスタンはイグナシオを諫めるどころか、イグナシオに協力的だった。


「お前たち、奥様を馬車にお連れしなさい」

「止めて! 来ないで!」


リリアンナの抵抗に侍女たちが困ると、コンスタンは家令二人に指示を出した。彼らはリリアンナを両側から抱えるようにして立ち上がらせた。乱暴な手つきではなかったが、無理やり立たせられたその扱いに、リリアンナの中の何かがぽろぽろと崩れていく気がした。


「ナシオ様……」


視界が揺らぎ、イグナシオの顔が見えなくなった。


「俺のことを、いくらでも恨んでくれ」


無表情が見えなくなったからか、リリアンナの耳にはイグナシオの声がなにかに堪えているように聞こえた気がした。


「子どもは絶対に産ませない」


(違う、私の気のせい。ナシオ様も辛いのだと、思い込みたいだけ。未練に縛られているのは、私だけ)


リリアンナの中で何かがプツリと切れて、リリアンナの中でぽろぽろ崩れていた何かが一気に崩壊して、そこから生まれてきたような、いや、もとからそこにあったものが一気に膨れ上がった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」


そこにあったものがリリアンナの体内で一斉に暴れ出し、全身が捻れるような感覚に襲われたリリアンナの喉からは濁った呻き声が出た。


「リリ!」


(随分とまあ、懐かしイ呼ビ名ダ)


リリ。


リリアンナのことを、親しい人は「リア」と呼んでいた。ただ、イグナシオだけが「リリ」と特別な愛称で呼んでいた。「リリ」はイグナシオだけに呼ぶことを許した愛称だった。


(嗚呼、思イ出ガ鬱陶シクテ堪ラナイ)


リリアンナの胸を埋め尽くしたのは――憎悪。


リリアンナ自身も、頭のどこかで自分の魔力を制御できていない自覚をしていた。残っていた自我みたいなものが、これは魔力暴走だと、危険だと訴えていた。


「ハハハハッ」


魔力を風魔法に変換し、腕を掴んでいた家令を二人、大の男を強風が弾き飛ばすのを、リリアンナは他人事のように見ていた。家令の二人はそれぞれ右と左の壁まで吹っ飛んでいき、ぶつかった壁が大きな音を立てた。リリアンナは全身の痛みを感じながら、その光景を面白いと思っていた。


「アハハッ アハハハッ」


気分のよさにリリアンナが高らかに笑うと、玄関ホールで暴風が渦巻いた。何かが壊れる音。誰かの悲鳴。風の唸る音に混じって、『どうしたい?』と尋ねる声がリリアンナの頭に響いた。


(……恨ミタイ)


そう思った自分に、リリアンナは戸惑った。


イグナシオを恨みたいのに、恨めない。


(ドウシテ……)


唐突に、その答えが出た。リリアンナには、イグナシオより憎らしい存在がいた。それは――。


(私ガ弱イノガイケナイ。私ガ弱イカラ……)


「ア゛ア゛ッ!」


魔力を暴走させて暴れるしかできない自分にリリアンナは気づいた。暴れ尽くせば、結局はイグナシオの意に従うしかなくなることがリリアンナには分かった。


(嗚呼……ソウカ……ソウだ……私も……)


リリアンナは幼い頃に父親から教わった言葉を思い出す。魔力の流れに呼吸を合わせて、呼吸はゆっくり、そして……。


(……簡単なことだ)


リリアンナは風魔法を使って、高速でイグナシオに接近した。


「……っ⁉」


リリアンナの急な動きに驚いたのか、反射的に身をのけ反らせたイグナシオの腰にリリアンナは手を伸ばし、剣を抜いた。


(油断したのかしら、英雄のくせに)


リリアンナはイグナシオから奪った剣の柄を握り直した。


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