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英雄の心がわり  作者: 酔夫人(旧:綴)


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鉛色の裏切り(1)

今回の話は過去回想(六年前)になります。

「他に愛する女ができた」


リリアンナが三ヶ月ぶりに会った夫、イグナシオの第一声がそれだった。

突然だった。


でも、その兆候がなかったわけではなかった。


始まりは、屋敷にいるときはずっと書斎にこもるようになったことだった。イグナシオの告げた理由は“仕事”だったけれど、朝早くから夜遅くまでずっと書斎にいた。食事さえもイグナシオは書斎ですませ、食堂にはリリアンナの料理だけが並ぶのが当たり前になった。


深夜を過ぎても、イグナシオは書斎から出てこなかった。家令長のコンスタンが、【先に寝ていてくれ】というイグナシオからの手紙を毎夜リリアンナの元に届けた。夫婦の営みがなくても共寝していたベッドでリリアンナが一人眠る夜が続いた。

 

イグナシオは毎晩どこで寝ているのかとコンスタンに問えば、書斎のソファで寝ていると言われた。きちんと寝たほうが良いと言うと、その二時間後に書斎にベッドが運び込まれた。それが答えかとリリアンナは理解し、城に出仕するためにイグナシオが書斎を出たところを捕まえた。


なぜ自分を避けるのか。


リリアンナも鈍くはない。仕事など嘘で、イグナシオがリリアンナを避けていることには気づいていた。リリアンナとイグナシオは昔からの知り合いで、二人の付き合いは長い。リリアンナの問い掛けにイグナシオは無言だったが、その気まずげな様子から「仕事は嘘」という自分の仮説は正しかったのだとリリアンナは理解した。


この一件のあと、イグナシオは徹底的にリリアンナを避けるようになった、リリアンナも半ば意地で、そっちがそのつもりならと、イグナシオに構わないことにした。


それでも同じ家で暮らしているため、遭ってしまうこともある。そのたびにイグナシオが見せる『しまった』という一瞬の表情に、その後の何ごともなかったかのような無表情に、リリアンナは何でもない振りをしつつも傷ついていた。


自分では気づかなかったが、イグナシオに何かをしてしまったのだろうか。


リリアンナは本気で悩んだが、特に心当たりがなかった。


かつては、少しでも空き時間ができれば「会いたかった」という理由で屋敷に一時帰宅するような夫だった。一分後に城にとんぼ返りでも、「六十秒もあるじゃないか」と真面目な顔でリリアンナを抱きしめるような夫だった。


イグナシオの愛は、ときにはリリアンナが呆れて、暑苦しさを感じるくらい、一途で、情熱的だった。


ときには恥ずかしさが勝り、恥ずかしいとリリアンナがイグナシオに抗議すれば、「俺の愛情はリリアンナしか行き先がない」と言われ、その瞬間、リリアンナの中で恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。


イグナシオは、リリアンナに対する愛情を一切隠さず、愛情の出し惜しみをしなかった。行動と、言葉で、イグナシオはリリアンナへの愛情を示してくれていた。リリアンナがイグナシオに溺愛されていることは誰もが知っていたし、リリアンナはその誰よりも深くそれを実感していた。


イグナシオの愛情にリリアンナは毎日どっぷりと浸り、その愛情に溺れていた。



自分が何をしてしまったのか、イグナシオに聞くべきか。


リリアンナがそう悩んでいる間に、イグナシオは屋敷に帰ってこなくなった。


コンスタンが言うには、屋敷に帰れないほど忙しいとのこと。確かに探ってみれば、騎士団の仕事であちこち行ったり、公爵の仕事で領地に視察に行ったりと、確かに忙しいようだった。


でも、その忙しいが屋敷に戻らない理由にはならなかった。


なぜなら、イグナシオは王都に戻っても屋敷に帰らず、ホテルに滞在していた。自分の屋敷があるというのに、わざわざホテルに滞在する理由を探る必要などない――理由など二つしかない。


一つは、それほどまでにリリアンナに会いたくない。

そして、もう一つは、女性と一緒だから。


どちらであってもその答えをリリアンナは知りたくなくて、リリアンナは何も知らない振りをした。


イグナシオが屋敷に帰ってこなくなって三ヶ月、イグナシオが突然屋敷に帰ってきた。


出ていくのも、突然。

帰ってくるのも、突然。


そして、突然の「他に愛する女ができた」宣言だった。



「そうですか」


思いのほか冷静な自分をリリアンナは自分で褒めつつ、これまでのイグナシオの行動で他の女性の存在を予想できないほど鈍感ではないという気持ちを声に込めた。


「それで……」

「君とは離縁する」


他の女性の存在は、リリアンナも覚悟していた。


「離縁?」


イグナシオが離縁を口にしたことにリリアンナは驚いた。


『彼女』を第二夫人として娶るか、リリアンナには屈辱だが、『彼女』を第一夫人にしてリリアンナを第二夫人にするのだと思っていた。本当に、リリアンナは離縁だけはないと思っていた。


リリアンナの腹にはイグナシオの子がいたから、離縁を考えたことすらなかった。


このとき、リリアンナな妊娠八カ月。


一般的な妊娠期間は十月前後だが、魔力量の多い胎児の場合は妊娠期間が長い。リリアンナとイグナシオは共に魔力量が多く、イグナシオが手配した医師の診察ではリリアンナの妊娠は二年以上になるだろうと予測されていた。


強い後継者の誕生にドゥヴァリス一族は喜んだが、イグナシオは“リリアンナとの間に生まれる子ども”を喜び、まだ平らなリリアンナの腹に触れ、中の子どもに愛を囁いていた。


イグナシオの喜びは形にもなった。


イグナシオは子ども部屋を三つも準備させ、服飾師を呼び赤子の服、それでも足りないとサイズ違いの子ども服を何枚も注文した。妊婦にはこれがいいらしいと、科学的根拠のない迷信にイグナシオは思い切り踊らされ、それを見てリリアンナは笑っていた。


(それが、まさかこうなるとは)


イグナシオが屋敷を出ていた三ヶ月間、腹が膨らんできたこともあってリリアンナは胸の下でスカートに切り替えるような妊婦らしい服装に変えていた。見た目が変わると気分も変わるもので、リリアンナは妊婦として食事や運動に気をつけていた。


イグナシオの“離婚宣言”は、そんなリリアンナの自覚と実に対照的だった。


「所詮は男と女ですからね。愛情が冷めるのも仕方がないのでしょう」


リリアンナはイグナシオの感情を探ったが、イグナシオの表情は鉄の盾のように固く一切動かなかった。リリアンナは深く溜め息を吐いた。


「この子どもはどうするのです?」


リリアンナの問いに、イグナシオは眉一つ動かさなかった。


(ああ、これが――英雄、イグナシオ・ドゥヴァリス)


紅蓮と称えられる炎で敵を焼き、熱風の中で黒髪を揺らして立つその姿は悪魔と言われるほど残忍で冷酷。英雄と畏怖されるイグナシオ・ドゥヴァリスは、リリアンナの前では別人で、リリアンナはこのとき初めて、夫の、英雄イグナシオ・ドゥヴァリスの顔を見た。


自分がイグナシオの中で“周り”と同じになったのだと、リリアンナは痛感した。

 


「子どもを産めば、私はもう用なしということですか」

「違う」


初めて聞くピリッとした冷たさを感じるイグナシオの声に、リリアンナの体が強張った。


「子どもは堕ろす」

タイトルの「鉛色なまりいろ」は、重く沈んだ灰色の一種で、金属の鉛(Lead)の色に由来します。単なるグレーではなく、冷たさ・鈍さ・静けさ・重さといった感覚を含んだ色です。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

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よろしくお願いします。

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