灰色の選択(2)
「大きな人がいる」
エアハルトの指差す先にリリアンナは目を凝らした。木立の向こう。真っ黒なシミの中央に何かがいるのがリリアンナにも分かった。獣には見えなかった。
(エアの言う通り”人”ならば大柄な成人男性。そして、あの黒いシミが血ならば、瀕死もしくは……あっ!)
「うごいた……」
呼吸か引きつけかは分からないが、その体が動き、リリアンナの隣でエアハルトが安堵の声を漏らした。
「たすける?」
エアハルトの問いにリリアンナは悩んだ。
できる・できないで言えば、リリアンナの魔力量ならできる。リリアンナは魔力量が多いが、その多さは悪目立ちする可能性があったため『治癒師アンナ』の届け出た魔力量はリリアンナの半分以下。
だから、できる。でもルール上は、してはいけない。
(あれが血なら、出血の量からして大動脈を損傷した大けが。『治療師アンナ』では治療ができる怪我ではないわ……無理だと、言うべきだわ)
無理だと言ってしまえば、この件は終わりだ。エアハルトもリリアンナの仕事をみている。治療できないケガや病気があることをエアハルトは知り、ある程度は理解している。
いまここで『治癒師アンナ』がするべき正しい行動は、エアハルトを連れて街に戻り、門番にこのことを報告すること。これで救助者としての義務は十分に果たせる。
(門番から報告を受けた誰かがここに適切な医師か治癒師を送ってくるだろう……でも、あの出血量では……それまで命が持つ可能性は低い。せめで血を止めるだけでも……いや、でも……)
慎重にならなければいけない。
何がキッカケになるかは分からない。
リスクを犯してはいけない。
リリアンナは、ずっとそうしてきた。
これからもずっと、そうしなければいけない。
(でも……)
リリアンナの頭に、昨日見た発熱した子どもを抱えて走る女性の姿が浮かんだ。
リリアンナは患者を何人も見捨ててきた。これからも見捨てる。でも、仕方がない。それがルールだし、リリアンナにとって一番大切なものはエアハルトだ。
ルールを破るリスクは、エアハルトを危険にさらす可能性になる。
だから、リリアンナはルールを守ってきた。届け出た魔力量を超えることはできない。診てはいけない。あの赤子も、このけが人も――それがルールだ。
ルールを破れば、ペナルティがある。
罰金ですむならリリアンナは構わないが、いろいろ調べられたら困ることがリリアンナにはあった。
(でも、ここには私しかいない)
リリアンナは躊躇していた。
ここには、治癒師はリリアンナしかいないから。
ヴェルナの町と違って、ここには“次”がない。
町でなら、リリアンナがその患者を見捨てても、その患者は、大変な思いをするだろうが、他の治癒師の治療を受けることができる。
ヴェルナには大勢の治癒師がいる。
当番を代わった彼女の診療所は近い。
多少離れていても、夕刻から診療が始まる診療所もある。
リリアンナが見捨てた赤子も、他に診てくれる治癒師がいた。
だから、リリアンナは見捨てられた。
でも、いまリリアンナの目の前にいるケガ人は違う。
この人に"他”はない。
(よしっ!)
「エア、あの木のところにいなさい。絶対にこっちに来てはだめよ」
母親が何をするのか理解したエアハルトは、駄々をこねることなく素直に指定された木のもとに向かった。
(仕方がないわ、どんな状態か分からないもの)
リリアンナとしては、森の中でエアハルトから目を離すことに抵抗があった。森の中で勝手な行動はしてはいけないと普段から言い聞かせているし、エアハルトは賢い子だからリリアンナの言うことをちゃんと聞く。
それに、あのけが人がエアハルトには見せられない状態になっている可能性のほうが高い。
(魔物除けのニオイ袋を持たせてあるし、町に近い場所だから魔物が出る可能性も低い。多少離れても、大丈夫)
リリアンナは持ってきたショールで顔を隠すと、黒い塊に近づいた。近づくと騎士だと分かった。外套を被っていて顔は見えないが、軽鎧を纏った大きな体は鍛えられていた。
(動かすことはできそうにないわね)
状態が分からないから下手に動かせないのもあったが、重そうな体は動かせる気がしなかった。
治癒する場所を決めるため、リリアンナは男の体に探索魔法を展開した。アンに教わったこの魔法は、治療の優先順位を決めるのに欠かせないものになっている。
(おそらくアンは魔力量を偽っていることを知っていた。だから、それでも助けられる人を増やすためにアンはこの探索魔法を教えてくれた)
それが分かっていたから、リリアンナは必死に探索魔法を学び、自分なりに研鑽を積んだ。誰のためではない。これはリリアンナの良心を慰め、罪の意識を減らしてくれた。
アンはリリアンナに医学も教えてくれた。医学の心得のある者の治癒魔法のほうが魔力の消費量が少なく、患者の回復も早いからという理由だったが――。
(本当に、アンはどこまで気づいていたのかしらね)
実際にねずみを解剖しながら、リリアンナは医学を学んだ。それは思い出すだけで身震いする経験だったけれど、しっかりとリリアンナの糧になっている。
(最初はネズミってだけで悲鳴をあげていたのよね、我ながら可愛かったわ。さて、一番の問題は肩とわき腹の怪我ね)
肩には深い刺し傷。
わき腹には抉るような裂傷。
そして体のあちこちにある火傷も軽視できるものではない。
(まずは止血だわ)
リリアンナは肩と脇腹に治癒魔法を集中させる。アンのようにピンポイントで当てることは無理だが、魔法に指向性を持たせたことで魔力の無駄はだいぶ減った。
怪我が塞がったところで、背中の太い骨に血を作るイメージを付与する。こうすることで失った血液が早く増産できる。
(とりあえず瀕死から重傷になったわ。魔力が多い人なのね、貴族かしら)
魔力には個体差があり、今でこそ探索魔法で魔力を探って近づいてくる人をリリアンナは事前に察することはできる。しかし、以前のリリアンナにそんな技術はないため、魔力量の多さから貴族だと察したリリアンナは警戒した。
男の顔を覆っていたフードを外しかけたリリアンナの手が止まった。
そこにあったのは、リリアンナがよく知っている男の顔だった。
「ナシオ様……」
イグナシオ・ドゥヴァリス。
ヌラリス王国で侯爵の位を持つ貴族で、軍事拠点・ドゥヴァリス領を治める領主。王国でも指折りの騎士であり、膨大な魔力を持つ王国一の火の魔法使い。
灼熱の炎を自在に操り、艶やかな黒髪を靡かせていくつもの戦場を渡り歩く彼を、敵は「紅蓮の悪魔」と呼び畏怖しているという。
「どうして、こんなところに?」
イグナシオ・ドゥヴァリスが国王から任命された正規軍を率いて北の辺境領に派遣されたことは、新聞で大きく報じられていた。ここは北の辺境領から遠い、東の地。
「……ナシオ様」
イグナシオのことを、家族や友人は「イグナ」とか「イグ」と呼んでいた。ただ、リリアンナだけが「ナシオ」と特別な愛称で呼んでいた。
「ナシオ」はリリアンナだけに呼ぶことを許された名前だった。
「どうして……」
自分でも驚くほど冷たい声が出たなとリリアンナが思ったときには、リリアンナは治療のために脇に置いていたナイフを手に取り、大きく振りかぶっていた。
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