灰色の選択(1)
リリアンナが薄く開けた扉から見えた顔は、この診療所の近くで診療所を開いている女性治癒師の顔だった。
「なにかありましたか?」
リリアンナは女性の様子を確認する。疲れた顔をしているが白衣は着ていない。協力を求めるほどの重傷者が出たわけではなさそうだと、リリアンナは少しだけ緊張を解いた。
ただ緊急協力じゃないなら、なぜ彼女がここに来たのかがリリアンナには分からなかった。
「お願いします! 休診日を代ってください!」
「……休診日?」
「明後日、ここが休診日ですよね? 私と代わってもらえませんか?」
(なるほど……)
ヴェルナの町は、医師・治癒師の営む診療所に対して輪番で休診日を設けるように指示している。
大事に備えて常に一定数の治癒師を待機させておきたいという町の方針であるのだが、町が休みを決めるため彼女のように休診日の変更を希望する人は大勢いる。もちろん変更ができないわけではないが、彼女のように希望する日が休みの治癒師のもとに行って自分で交渉しなければならない。
この交渉が嫌だという医師・治癒師は多い。リリアンナも嫌だった。
(明後日は、エアハルトとピクニックに行く予定だったけれど……)
明後日の予定が別の日になってもリリアンナは別に構わなかったが、ここですぐに承諾してしまうと”便利な人”認定されて今後こういうお願いが増える可能性があった。リリアンナは先に理由を聞くことにした。
「ずっと好きだった人に告白したんです。それで明後日、彼の休みの日にお試しデートすることになって、こういうのって勢いが大事だし、彼は船乗りだから明後日を逃すと二月くらい先になってしまうんです」
彼女の交代希望は、実に可愛らしくて微笑ましい理由だった。
「治癒師って出会いがあるって思われがちじゃありませんか」
「そうね」
「でも、分かりますよね。診療所にくるってとき、私たちにも患者にも愛を語る余裕なんてない状態じゃないですか」
「それは、そうよね」
「高齢の治癒師先輩たちは”休日がなかった昔に比べれば”って言いますけれど、昔に比べてはマシになっても不便であることは変わらないんですよ。なんでお年寄りってすぐに昔と比較するんですかね。泥船に乗ってみんなで沈むのが美徳とでも? 違うでしょ、みんなで泥船を一級船舶にすることが大事なんですよ」
(この子、好きだわ)
「あなたが割り当てられた休日はいつ?」
「明日です。さっき彼が診療所に来てくれて、これはチャンスだと思って、今夜デートできればなんて思っていて告白したんですけれど……」
(その勢いのまま夜に……とならなかったのね。市場はまだ空いている時間だし、弁当の材料を仕入れることもできるわよね。うん、情けは人のためならずというし)
ここで恩を売っておくのも悪くないとリリアンナは考え、リリアンナは彼女のお願いを承諾した。彼女からの礼は熱烈なハグと、「デートの成功を祈っていて」という満面の笑みだった。
リリアンナは、とてもいいことをした気がした。
さきほど母子を見捨てた罪悪感が少しだけ減った気がした。
◇
「お母さん、お母さん」
ご機嫌だと分かるエアハルトの弾んだ声に、リリアンナは笑って答える。
「おべんとう、なかはなあに?」
「エアの好きなサンドイッチよ」
「リンゴ? チキン?」
「どっちもあるわ」
大好きなメニュー、それが二つもあることにエアハルトは歓声をあげた。
その嬉しそうな姿にリリアンナも嬉しくなる。
ピクニックに行くことをエアハルトはずっと楽しみにしていて、予定が一日前倒しになっても一切気にせず、昨日は夕方の市場ではしゃぎ、今朝はかなり早起きだった。
リリアンナは急かされながらピクニックの準備を整え、エアハルトを連れて西の門の向かい、八時の鐘が鳴って門を開くと同時に町を出発した。
開門したばかりというのもあるが、西の森への行く人が少ないため西の門を利用するは少なかった。森の中の道には誰もいない。ときおり野生の動物が草木を鳴らす音がするだけ。
リリアンナは静かな森の中をエアハルトと手をつなぎ、のんびりと歩いていた。
(休みの日にこの森に来るなんて、物好きと言われそうね)
ヴェルナの東と南には美しい浜辺がある。休日をのんびり過ごすならそちらに行く人が多い。他の町に向かう人は街道に近い北の門に向かう。
元はこの西の森の中を進む道がトレッシア領の都シフォンに向かうための街道だったが、北の侯爵家の令嬢がトレッシア領に嫁ぐときに整備された新しい街道がヴェルナのすぐ北を通るため、いまでは西のこの道は獣道となってしまったとリリアンナは聞いている。
北にできた新しい街道は馬車が余裕ですれ違えるほど広く、舗装されていて快適な旅ができる。一定間隔で魔物除けの杭が打たれているため、完全ではないが森の道よりも魔物が出没はかなり少ない。
魔物たちは北側から追い出されたような形でこの西の森で生息しており、町から離れるとこの道は魔物が出る。でも、リリアンナたちは好き好んでここに来ている。
リリアンナは仕事に必要な薬草を採取するため。
エアハルトは大好きな昆虫採取のため。
エアハルトは虫が好きだ。リリアンナにはいまひとつ分からない趣味だが、森に連れてくるとリリアンナが帰ると言うまで夢中で虫を捕まえている。
いまこの瞬間も、エアハルトは何かいい虫を発見したらしい。
エアハルトが歓声をあげ、それを追いかけるため走り出した。リリアンナはそんなエアハルトを追いかけるため足の動きを早めた。
(あら?)
エアハルトが足を止め、そのまま動かないので、リリアンナは首を傾げた。
エアハルトが突然動きを止めることは珍しくない。虫を捕まえるためで、いつもなら静かにそーっと動き出すのだが、なぜかエアハルトは動かなかった。
「エア!」
それどころか、踵を返してリリアンナのところに戻ってきたエアハルトの顔は青かった。
その表情に恐怖を感じ取ったリリアンナは急いで駆け寄った。
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