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幕間 「思いの先」

 今日も1日無事終了し、夜、庭に出て何時もと変わらず竹刀を振る。



 ――頑張れ、勇一郎! 私も頑張るから!



 何時もなら竹刀と一心同体……は言い過ぎだけど、剣道という1つ事だけが心を満たしている時間の筈だった。



 ――だから……もう少し見守っていて欲しい。



 この何時もの夜の鍛錬。


 だというのに、ここ最近はあまり身が入らない。少しでも気を抜くと、心中に剣道とは全く違う事柄が頭に浮かんでしまう。そんな状態で竹刀を握っている事に、少しだけ苛立ちも感じていた。


 理由は判っている。


 判って納得もした筈なのに、あの朝の光景が何故か思い出されるのだ。

 


 ――おはよう、成次君。

 ――ああ。おはよう、東条。



 (……っ)


 思い返したとたんに振り下ろす竹刀が大きくブレた。


 (……全く。何やってんだ、俺は)



 深い溜息を付きつつも、改めて提刀の姿勢から立礼、帯刀と剣道の立会い時の礼法の流れを繰り返し行う。剣道を習い始めた頃に先生から「剣道は礼に始まり礼に終わる」と教えられて以来続けているコレ。

 剣道の練習としては、殆ど意味が無いのは無論承知の上だ。どちらかと言うと素振りの練習と言うより、一つ一つの所作を丁寧に行う事で、その日一日の練習の最適化というか、どういう練習をしたかを省みる方が重要だと思って続けている。


 そうして自分の行いを省みている筈なのに、何故か心が一向に剣道へ集中してくれなかった。



 ――高校に入ってからの勇一郎は本当に変わったよ。



 自分の変化は周りが認めてくれているけれど、当の俺にはその実感があまり無い。そういう事に明確な形なんかは無いのも判っている。

 だからこそ何か形にしたくて全国一位を目指したけれど、結果として個人戦出場は叶わなかった。入部時に期待を持たれていたのも確かなので、不甲斐ないとは思うけれど、それが今の自分の実力であり、届かなかったなら更に練習するしかない。やり方が問題ならば変えればいいけれど、顧問の先生や先輩達からの指摘も今のところ無い。

 であるならば、我武者羅でも何でもいいから、兎に角今の自分自身を信じて突き進むしかないと心に決めた。


 それは剣道に限った話ではない。



 ――勇一郎が信じるままで行けば良いと思う。



 そう背中を押してくれた奴の為にも、頑張らなければいけないと思う。


 でも、だからこそこうして悩んでいる事が心苦しくもある。


 更に言えば、自分だけが目標を達成出来なかった中、千鶴子さんも早苗も形ある本当に眩しい物を掴み取っているようで、体育祭ではそれを目の当たりにした。


 だから今を変えたくて、先日は自分でも思い切った行動を取ってみたつもりだった。

 けれど、それも上手くいかなかった。

 それに自分は駄目だったが、2人とも何かしらそこから得たように見える。

 結局の所、不慣れな事をして皆を振り回し、最終的には早苗に諭されてしまった。無理をすることは無い。今まで通り自分のペースを貫いていけばいい、と。


 情けない限りだが、確かにその通りなのだ。


 無理して背伸びをしてもそれは俺ではないし、そんな上っ面だけを見せても意味は無いのだ。そう自分の気持ちを切り替えたつもりだったけれど、状況が俺を置いてどんどん動いていく。


 例えば、嫌でも耳に入ってくる千鶴子さんと金剛寺主将の噂話。


 千鶴子さん自身から、意中の人は今は居ないと言われた。千鶴子さんはそう言った嘘は言わない。そもそも噂話なんて当てにならない物が殆どだが、いつぞやの朝の光景や、先日起きたお昼の騒動もあって、何だか心がざわついてしまう。


 酷く長ったらしく自己分析してみたけれど、結論としては非常に単純で、ただ自分だけ置いてけぼりを食らっている気にさせらて、それに焦っているだけなのだと思う。



「こんなにフラフラしてちゃ駄目なのにな」



 口を突いて不安がこぼれる。


 俺の周りの人は本当に凄い人達ばかりだ。

 だからこそ頑張ろうと思ったし、頑張って来れた。

 だけどそれを目の当たりにすればするほど、切り替えた気持ちも揺らいでしまう。

 こんなんじゃ駄目だと思うけれど、焦りはどうしても隠せなかった。


 そうして向かえた高校最初の期末テストは、千鶴子さんに言われていたにも拘らず、中間の平均から少しばかり後退してしまった。両親からは高校は勝手が違うだろうから、これも良い勉強になっただろうと励まされた。早苗や千鶴子さんは変わらずだったみたいだけど、2人からも同じ様に言われてしまった。


 みんなの言葉は優しかったが、それがどれだけ今自分が心ここに在らずなのかを現している様で、不甲斐なさに拍車が掛かってしまった。


 だからもっと足掻いて、ぶつかって、突き進むしかない、と練習に気合を入れているけれど、霞が掛かったように先が見えなくて、その場で藻掻く日が続いていた。



「体、冷やしちゃうよ?」



 ふとかけられた声に振り返ると、生垣から早苗がこちらを覗き込んでいた。

 風呂上りなのか、少し濡れたような艶のある髪が、街灯の灯りに照らされてキラキラと光って見え、何時もとは違う感じがして少し見つめてしまった。


「ずーっと竹刀を構えたまま身動き一つしないんだもん。どうしたの?」


 早苗は首をかしげながら、こちらへ身を乗り出すかのようにして見つめてくる。


「……見てたのか。それよりも、どうした? っていうか風呂上りで髪ちゃんと乾かしたか? 風邪引くぞ」


 夜の鍛錬は時間がかみ合えば、千鶴子さんや、こうして早苗とも話すことも有る。

 そして、大体2人が声をかけてくるのは何時も止め時だ。なので自然と体が解れ、今日の練習はここまでだと竹刀を下げた。


「ちゃんと乾かしたわよ。それよりも、どうしたはコッチの台詞よ、ボーッとしちゃって」

「いやボーッとしてたっつーか何と言うか……ちょっと考え事してただけだよ」

「まったく、もぅ」


 何が可笑しかったのか、微笑しながら早苗が言葉を続ける。


「そういうのは考え事、じゃなくて悩み事っていうの。勇一郎の隠し事は分かり易いんだから、そうやって隠しても無駄よ」


 思い悩んでいたことを簡単に見透かされ、思わず嘆息が漏れた。こういう時に幼馴染というのは厄介なもので、隠し事なんて大体が無駄に終わる。付き合いが長いと、どうしても何かしら察しが着いてしまうのだ。

 それは無論、こちらからあちらに対しても言えることだ。

 ちなみに千鶴子さんにはそれが通じないが、そこはやはり年の差なのだろうか。

 そうして簡単に悩み事と見透かされた事に気恥ずかしさを覚え、思わず明後日の方を見ながら言葉を続けた。


「相変わらずこういう時は変に鋭いよな、早苗って」

「恐れ入ったか」


 横目で見てみれば、満足げな表情で威張って見せる早苗が視界に映る。

 けれどそれは直ぐに照れ笑いとも苦笑とも付かない、困ったような笑顔になって、少し小声で話を続けてきた。


「まぁ、察しは着くんだけどね。姉さんの事でしょ?」

「……まぁ、そんな所…かな」


 本当にこういう事は鋭い。

 そんな早苗に舌を巻き、然も降参だとばかりに肩を竦めて見せ、曖昧に肯定の返事を返した。


「ま、猪突猛進が取り得の勇一郎が悩む事って言ったら、姉さんの事くらいしかないしね~。おおかた姉さんと金剛寺先輩辺りの話でしょ」


 あっさりと早苗は更に悩みの核心を突いてきた。

 両手を挙げてやれやれといった風におどけて見せるが、正直なところ内心はあまりの鋭さに動揺を隠せないでいた。

 全く本当に馴染みというのは厄介だ。


「……べ、別に気にしてない」

「はいはい、嘘はいいから。で、何をそんなに悩んでるの?」


 言い当てられた事に、子供のような憮然とした言葉が思わず口を突くものの、早苗は気にした風を見せずに先を促してくる。が、流石にこんな所で話す訳にはいかない。


「そこまで大した事じゃないさ。だから気にすんなよ」

「気になるわよ。だって私のお風呂前と姿勢が変わってないし、声かける迄ピクリとしないんだもん」

「そんなに時間経ってたのか。でも、本当に何でもないから」


 さっさと話を終わらせようとするも、早苗は尚も食い下がってくる。

 つい数年前は俺の後ろを付いて来るばかりだったのにまったく……と、早苗の押しの強さに素直に驚きつつも、意表に出られた事を頭の隅ですんなり受け入れていた。だけど簡単に胸の内を明かすのも気恥ずかしく、少しの間、無言の状態が続いてしまう。

 何時もならこの状況を早苗は黙って待つ事が多いけれど、今日の早苗はそうしなかった。


「こらー、素直になりなさいって」


 夜だという事を慮って声量は控えめだが、生垣を飛び越えて来そうな威勢で先を促してくる早苗。そんな飛び掛って来そうな勢いに圧されそうになるが、ここで話すと無論千鶴子さんにも聞こえてしまう。そんな東条家をちらりと見やった俺の動作を早苗は見逃さず、退路を塞ぐように声を続けていく。


「姉さんは私と入れ替わりで今お風呂だから大丈夫よ。少々の声じゃ聞こえないし、少なくとも後30分は出てこないから」

「……」

「……何考えてるのよ。勇一郎のエッチ」

「ち、違う!!」


 変に勘繰った事を言われ、泡を食って反論したのが運の尽き。乗せられたかと思いはしたけれど、一度言葉を発してしまえば、促されるままにするりと言葉が続く。


「ただ……千鶴子さん、本当に変わったなって。いや、変わったというか、何ていうか……遠くなったような気がするんだ」

「遠くなった?」

「……ああ。その言い方のほうがしっくり来るかな。多分俺の一方的な思い込みだとは思うんだ。だけど、こうして見ていると、そこに居る筈なのに手が届かないような、そんな思いが頭を過ぎるんだよ」


 早苗もまた同じ感想を抱いていたのだろうか。同じ様な感想を述べて見せた。


「確かにね。この数ヶ月、良くも悪くも姉さんには驚かされっぱなしだもん」


 確かに驚かされるというか、波風高かったように思えるのは事実だ。入学式やその後の雰囲気の変わり具合、G・W前のひと騒動に体育祭。

 そしてつい先日の昼休憩の一幕。まぁこれはどちらかと言うと早苗の自縄自縛だとは思うけれど。

 ともかく千鶴子さんを中心にして色んな事が起きて、そしてその度に自分の不甲斐無さに気が付かされてきた。


「どうしてかな。近いのに遠いと思うのは」


 何度となく思って、都度それらしい答えを当て込んでいた疑問が口を突く。

 早苗だってこんな事を言われても困るだろう。だというのにに、殆ど弱音に聞こえるその言葉を受け止め、ちゃんと返してくれた。


「確かに遠くなったような気もするんだけど、多分何も変わってはいないよ。ううん、変わったかもしれないけれど、私は手を伸ばせば十分届く距離だと思うよ。それになんていうか昔に戻った気がして、色々有ったけど私は楽しいと思ってるよ」

「昔に戻った?」


 慮外の早苗の言葉に、思わず口を挟むように疑問をぶつける。


「小学校の頃はこの家とお祖母ちゃん、姉さん、勇一郎、そのご両親だけが私の世界だった。中学生になってからは色々と視点も変わって、その世界も広がったけど、何時でもそこが私の中心だった」


 当時を思い出せば、確かに俺の世界も似たようなものだった。何時だって何処だって千鶴子さんが中心だった。


「姉さんもそんな感じだったように思う。だって姉さんを探して視線を巡らせれば、必ず姉さんは直ぐ傍に居たから。でも姉さんが高校に入ってから、一緒に居る時間が少し減って、私もなんだか遠くに姉さんが居る、間に大きな壁ができちゃったんじゃないかって思ってたの」

「でも、それはお前が乗り越えただけだろ?」


 早苗の言葉は彼女自身が乗り越えたからこそ抱けたものだと思った。

 だけど早苗は頭を振ってそれを否定した。


「ううん。確かに多少の壁というか互いに歩み寄り有はあったけど、元々壁なんてものは無かったの。見方の問題といった方がいいのかな。

 う~ん……ほら、姉さんと私、背は違うけど、見えて、見ている物は同じでしょ? きっとそれと事なんだよ……って、自分で言ってちょっと悲しくなった」

「よくわかんねぇ例え方だな……ってか、なんで自分で凹んでんだよ」


 早苗が自分の考えを何とか伝えようとしてくれている事が、その真っ直ぐさが、そしてその例え方がなんとも早苗らしくて自然と笑みが零れた。


「ともかく、上を目指すのは必要な事だけど、姉さんはそこに居る。だから勇一郎の事を姉さんが見過ごす筈は無いし、手を伸ばせば、姉さんも必要な分だけ手を差し出してくれる」

「手を、伸ばす……か」

「金剛寺先輩の事も同じ。先輩が手を差し伸べて、それに姉さんが応えた。それが珍しかったから、私も勇一郎も驚いただけなんだよ」


 何時の間にか早苗の言葉に合わせる様に、早苗に歩み寄って手を伸ばしていた。

 物理的な距離を縮める事が、想いの距離を縮める訳ではない筈なのに、ただそこにあることを確かめたくて、空を掴むように手を伸ばす。


「こんな風に昔はよく手を繋いで帰ったじゃない。ね、昔に戻った感じがしない? 今も昔もきっとこれからも、きっと変わらない」


 傍から見れば意味も分からず差し出されたように見えるその手を、早苗が同じ様に生垣越しに手を伸ばして掴んで見せた。

 俺のゴツゴツとした手を、椛の葉っぱのような小さな手が握る。


「変わる必要があるものと、変わらなくてもいい事があるって私は分かった。勇一郎はちゃんと変わっているけれど、根っこは変わってない。ずっと見てる私には分かる」


 ほんのりと暖かい手が気持ちよくて。


「ほら、ね。ちゃんと手は届くよ。姉さんも私も、ちゃんと今ここに居るよ。だから、周りを気にしないで、勇一郎は自分を信じるままで行けば良いって、私は思うよ」


 覆う様に握られた早苗の両手を見て、肩の力が抜けた。



(……やれやれ、本当に不甲斐無い)



 結局愚痴を言って慰められてしまった。

 早苗の言わんとすることは何となく分かる。けれど、ストンと胸に落ちてはくれなかった。ただ、どうやら不必要に力んでいたみたいで、早苗の言葉に強張っていた体が解れていく様な感覚はあった。


 ただそれだけだったが、最近感じていた焦りは一先ず鳴りを潜めたようで、何時もの夜の練習後のように気分が落ち着いた。


 そうして改めて己が状況を見てみれば、手を握られ慰められているという、少々恥ずかしい状態ではあるものの、確かに懐かしい気分だった。


(事の起こりも、コレだったよな――)


 そういえば彼女達2人が越してきて、その手を握って駆け回ったのもG・Wだったし、こんな風に手を握ってやったのもG・W間際の事だった。G・Wと言うのはどうも俺達にとって何かしらの転機やイベントがやってくる時なのかもしれない。


「ちっさいな、お前の手」


 そんな事を考えながら、『手を握っていて欲しい』ってあの時言われたっけかと、妙に感慨深く感じ入りつつ、俺の掌にあっさり収まる早苗の手を撫でた。


 ついさっきまでの前後不覚な状況から、あっさりと引っ張り上げてくれた事に対する感謝を表すように。


「女の子なんだから当たり前よ。っていうかちっさい言うな」

「何でだよ」

「色々と突き刺さるのよ」

「何にだよ」

「そういう所にだけ疎いんだから……はぁ」


 そうして何時ものような軽口交じりの会話を、お風呂上りの千鶴子さんに注意されるまで続けたのだった。









 翌日。


 昨晩の長話の為か早苗が風邪を引いたらしく、軽い熱を出して学校を休んでしまった。早苗は休むつもりは無いらしかったのだが、大事を取るようにと半ば強引に千鶴子さんが休ませたのだ。

 大丈夫だよ、いや、無理をして肺炎にでもなったらどうする、いやいやそれは流石に行き過ぎ、などと相変わらず過保護なやり取りを見ていたが、原因が昨夜の長話にあるかもと早苗の口から出るや否や、間髪置かず千鶴子さんに鋭いチョップを入れられてしまった。

 相変わらず早苗の事となると怖い千鶴子さん。顔だけがぐるんとこちらを向いて、感情が抜け落ちたような見開かれた目が見つめてくるのは、こう言っては何だけれど正直ホラーだ。

 子供の頃から接してきて尚、この微かに薄笑いを浮かべた表情の千鶴子さんには、ゲームに有るような伝説級装備を与えられたとしても勝てる気がしない。蛇に睨まれた蛙よろしく、何時の間にか正座して、千鶴子さんからお小言を頂いてしまっていた。

 まぁ元々早苗の方から話しかけたという事もあって、結局千鶴子さんから「さなちゃんの分も確りとノートを取ってきなさい」という事で放免となった。


 そんな肝が少々冷える思いをした日のお昼。


 土曜の午後は授業が存在しないから、目一杯部活に取り組める日だ。

 さてその前に腹ごしらえをと席を立ったところで、『これから様子を見に窺ってもいいかな』という、美和ちゃん、佳奈美ちゃんから早苗のお見舞いについて尋ねられていた時のことだ。


 全く想像していなかった、意外な人から声をかけられた。


「こんにちは、生方君。取り込み中に悪いのだけど、ちょっと時間取れるかしら?」


 声の主は瀬尾野先輩だった。


「こ、こんにちは、瀬尾野先輩!」

「こんにちは、瀬尾野先輩」

「ええ、こんにちは」


 腰を直角に曲げものすごい勢いで頭を下げた佳奈美ちゃんに、妙に畏まった風を見せる美和ちゃん。そんな2人に瀬尾野先輩が苦笑を浮かべ「変に畏まらないでいいわよ」と2人の妙な行動を制していた。


 ちなみに何であんなに畏まっていたのか後で聞いた話なのだけど、千鶴子さんとはまた違った意味で瀬尾野先輩は学園女子の憧れの的らしい。

 佳奈美ちゃん曰く「自分が持ち得ないからこそ憧れを抱くものなんだよ」との事で、先日の体育祭では黄色い声援の方が勝っていた麗人だ。俺としては千鶴子さんが一目置く人、というだけで十分に信頼に足る人という認識だ。

 まぁ、あのサッパリとした感じや、凛々しく見みえつつも、女性として意識するに余りある物をお持ちだから、男女問わず人気が有るのは納得ではあるけれど、話題にするのは憚られるのでよくわからんと言う事にしておこう。


 で、その瀬尾野先輩が何故か1年のクラスまで上がって来て、俺を名指しで呼び出している。はっきり言って頭の中は?マークで一杯だった。


「こんにちは、瀬尾野先輩。俺は構いませんが、何かしましたっけ?」


 普通に挨拶を返しはしたものの、どうしても言葉尻は及び腰になってしまった。


「そんな込み入った事じゃないわ。まぁ、ついてらっしゃいな。後これは時間をとってくれるお礼よ」


 そんな俺の様子を見てか相好を崩しながらも、ポンっと包みを俺に渡すと、「それじゃ生方君を借りるわね」と、踵を返して呆ける俺を置いて、有無を言わさずスタスタと歩き出した。


「ちょ、瀬尾野先輩……って、ともかく2人とも。早苗の方は大丈夫だと思うから是非行ってやってくれ」


 それだけを言うと、小走りで駆け寄って先輩の横に並ぶ。


「……全然状況を理解できないんですが?」

「とりあえず落ち着ける場所に移動しましょう」


 なんで瀬尾野先輩が?、と胸中は疑問符で一杯だったけれど、瀬尾野先輩とも接点が無い訳ではない。千鶴子さんのところでの夕食に一緒に同席したこともあり、高校に入る前から面識はあったのだ。

 だから、こうして呼び出されるという事は、ちゃんとした事情があるのだろうとそれ以上追求せず、黙って着いて行く事にした。







 そうして連れて来られたのは生徒会室だった。


「適当に座って。今お茶を入れてあげるわ」

「…どもっス」


 とりあえず言われるがままに座ると、言葉通りお茶を静かに出してくれた。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 先輩は小さな包みを取り出し、丁度対面になる位置に座ってこちらを見つめてきた。他の役員の人が居ない2人だけの生徒会室は、土曜の午後と言う人気の失せた校舎の中でも一際静かで、なにか訊問でも始まるような雰囲気に思え自然と背筋が伸びた。


「なんか、よくわかんないんですが……何でしょうか?」


 改めて瀬尾野先輩に問いかける。

 しかし先輩は、のんびりとお茶を飲んでいる。


「せっかちなのは嫌われるわよ。ちなみにさっき君に渡したのはお弁当だから、ここで今食べちゃってもいいわよ。私も今からお昼を摂るつもりだし」

「……なんか気を遣ってもらってスミマセン」


 とりあえず当たり障りの無いことを口にする。


「別にいいわよ、私の手間なんて掛かってないのだし。まぁ、自分から首を突っ込んだ事でも有るから、仕方ないと割り切っているので生方君が悪く思う必要は無いわ」

「はぁ……」

「それでも面倒である事に変わりは無いのだけどね。貸しを作らせるなんて珍しい事にもなったから、差し引きゼロといったところかしら」


 そう言いつつも「まったく何で私が」と小さく呟きながら、鞄から自分の包みを開け始める瀬尾野先輩。


 先輩の人柄は多少なりとも知っている。といっても直接に深く付き合いのある人ではないし、千鶴子さん経由だから本当の意味で細かくは知らない。口癖が『面倒』が差す通り、あまり他人事に積極的に関わろうとしない性質だけど、無関心に見えて面倒見は非常に良く、実はとても義理人情に厚い人なのだ、とは千鶴子さんの談だ。


「ま、ともかくお昼にしましょうか」

「はい」


 そうして一先ずは静かに昼食が始まった。


 頂いたお弁当は別に気取った感じはなく、いたって普通のお弁当だった。ただ、瀬尾野先輩から手渡されたのに 、入れ物やお弁当の詰め方に既視感を覚えた。

 とりあえず卵焼きを口に入れると、馴染みある味付けに気が付き手が止まった。


(あれ?)


 瀬尾野先輩からお昼に誘われて、更に当人自らお弁当を手渡されたのに、それはよくお世話になるご近所様の味だった。思わず視線を上げてみれば、少し意地の悪そうな笑みを浮かべて瀬尾野先輩がこちらを見ていた。


「さて、ここで問題。そのお弁当は誰が作ったでしょう?」

「千鶴子さんですよね、これ」

「正解」


 間を置かず答えると、予想通りの答えが返ってきた。

 ただ、俺の回答は予想の範疇だったのだろう。瀬尾野先輩はからかいの表情を収め、何処か呆れに近い表情を浮かべていた。


「即答だなんてクイズにもならないわ。9年も一緒に過ごせば胃袋掴まれてるようなモノなのね」

「いや、食べ馴れてると言うか…ほら、家庭の味ってのが有るじゃないですか。それと同じ様なモンですよ」

「家庭の味が……ねぇ。なるほど」


 自分もお弁当を摘まみながら、何処と無く淡々と言葉を返す先輩。


「勉強に運動、料理まで高レベルでそつ無くこなせ、尚且つ容姿端麗。性格も多少フラットな感じは受けるけれども、それは最初だけ。付き合いが長くなれば、意外と思える程に感情豊かな事に気付く。

 けれど情に流されない確固とした意思と意識を持ち、その公平さ故に生徒会長として教員から絶大な信頼を得ている。更には作法、立ち居振る舞いの所作は、一般の同学年と比べて隔絶していて、その上武道の嗜みまである。

 まったく何処の空想上生物よ、って感じがしない?

 普通なら何処かで妥協しそうなものでしょうけれど、現状を良しとせず、今もなお向上心溢れる。唯一問題点を挙げるとすれば、平素の言葉遣いが同学年女子とは思えない位。生方君はどう思う?」


 いかにも何か問題あり気な風に千鶴子さんの事を述べる瀬尾野先輩。

 けれど、おかしいかと問われても、それが常であったから何か思う事などある筈もなかった。


「俺はそうじゃない千鶴子さんを見たことが無いんで、そうじゃない方が何だか不自然な感じを覚えますね」

「なるほどね。でも、変わるとしたら変わるとしたで、どんな風になるのか興味があると思わない?」


 千鶴子さんの中心は何時だって早苗の事で占められて、そしてその為にはどんな労力すら厭わない。それが変わると言うのはちょっと想像できなかった。

 確かに皆、最近は変わりつつある。でも、千鶴子さんも早苗も、変わらない所も持っている。早苗にも教えられた事で、きっと真理だ。


「千鶴子さんは何があっても千鶴子さんだと思いますよ。とても、強い人ですから」

「確かにね。でも、通説に“堅いものほど、いざと言う時脆い”なんて言うじゃない。千鶴子はどっちだと思う?」

「どっちかは判らないです。けど、きっと千鶴子さんなら何か躓く事はあっても、必ず1人で立ち直る事ができると思いますよ」

「ふぅん……」


 俺の言葉に納得していないのか、瀬尾野先輩は質問を続けてくる。

 

「じゃあ、早苗君についてはどう思う?」

「早苗について……ですか?」


 早苗についてと聞かれ、改めて考えてみると、何故か直ぐに言葉が浮かばなかった。

 最近の目覚ましい成長を見せる早苗は、どう言葉に表したらいいものか。

 そうこう思案している間に、先輩は畳み掛けるように言葉を続けてくる。


「元々、千鶴子の所為っていうのもあるのだけど、早苗君は早苗君で結構有名なのよ。そう、色々とね」


 意味ありげな笑みを浮かべてかけられた言葉は、こちらを探るように、それでいて淡々としていた。


「麗しの生徒会長様の妹。姉とは違い小柄で性格は控えめ。顔立ちは十二分に整っていて、美人と言うより可愛らしい。誰に似たのか生真面目さは言うに及ばず、中間、期末考査も上位に属し、運動センスも体育祭で魅せたように中々の物を持っている。

 姉と同様、少々無愛想な感じはするけれど、いざ接してみれば礼儀正しく、深く話してみれば年相応で垢抜けない。友人達と一緒に居るときに魅せる屈託の無い笑顔は、絵に描いたような“理想の後輩像”と、上級生からは専らの評判。

 事実いくつかの部活から部員、またはマネージャーとしての引き合いが多数寄せられては居るものの、今のところ所属は無し」


 千鶴子さんと同じ様に述べられていく早苗の所見。

 ただこちらについては、結構知らないというか、自分が思っていることとは違う内容が含まれていて、「そんな奴じゃないのに」と思わせられた。

 俺が知っている早苗は、控えめというのは一昔前の事で、どちらかと言えば快活な方だ。と言うより昔からその気質は見え隠れしていたと思う。それに確りしているように見えて、結構抜けている事があり、目の離せない、手のかかる妹みたいなものだ。


 でもそう思っているのは自分だけだったようで、述べられた内容に些かの居心地悪さと言うか、何か据わりが悪く感じられ 、思わず反論の言葉が出た。


「早苗は昔こそ内気でしたけど、今は全然違います。それでも抜けてる所は変わってなくて意外とドジですよ、あいつは。確かに最近は変わって来たとは思いますけど、なんていうか未だ見てないと危なっかしいというか……」

「早苗君にだと、そう思える訳ね……なるほど」


 なんとか自分の考えを口にするも、先輩は相変わらず納得したのかしていないのか、いつもと変わらない落ち着いた表情で相づちを打っている。

 そうして暫く静な昼食時間が過ぎ、殆どお弁当を空にした辺りで何の前降りもなく、いきなり本題を切り出された。



「で、生方君。どっちを取るの?」

「…っ!!」



 危うくむせてご飯を飛び散らすところだった。

 和やかとまでは言わないものの、静かなお昼休憩だろうと思っていたら、思いっきり不意打ちで横っ面を張られてしまった気分だ。

 そんな俺の混乱を他所に、先輩はズバズバと斬り込むように言葉を放ってくる。


「千鶴子は最近角が取れたのか、近寄らせない雰囲気も薄れ、笑顔を浮かべている事が多くなった。それを接しやすくなったと見た周りは、これ幸いと言い寄る輩が急増中。金剛寺君なんかがいい例ね」


 確かにそれは自分も耳にした。ただ、先日千鶴子さん自身からの言葉を聞いているので、焦りのような気持ちは湧かなかった。


「そして早苗君。さっきも言った通り人気は高いし、それをひけらかす事もしないから、周りの勝手な評価は上がる一方」


 でも――、と一度言葉を切り、次にかけられた言葉は血の気を引かせるに十分な物だった。


「惜しむらくは、既に“彼氏持ち”という事で、踏み入った関係になるのは諦めざるを得ない状態と言われてるのよ」


 そう断言して、じっと俺を射抜くように凝視する。

 その瞳は、ただ鋭く、有無を言わせない圧力の篭った視線だ。

 まるで剣道の試合直前のような緊張を孕んで、無言で視線をぶつけ合う事十数秒。


 観念するかのように、先輩の言わんとすることを口にした。


「それって、もしかしなくとも……俺ですよね」

「ちゃんと自覚はあるのね。もしすっ呆けてたら張り倒してたわ」


 視線の圧力を緩めないまま、言葉の圧力が重くのしかかってくる。

 まるで切り捌くように、いや、確実にそういう意図をもって、先輩は俺に話しかけてきている。


「ま、気持ちは分からなくでもないわね。文武両道な美人姉妹が幼馴染で、誰よりも一番近い距離にある。まさに両手に華なんて状況、手放したいなんて思わないのが普通だもの。ねぇ?」


 鋭利な棘のある言葉が問答無用で突き刺さる。

 先輩の真意が何処にあるのかは判らない。

 けれど、俺からしてみればいつもの事のように思えていても、周りから見れば先輩の言ったとおりにしか見えないのだろう。そんなつもりはない筈なのに、心の何処かでそれに気が付いていたのだろうか、反論すべき言葉が思いつかない。

 だけど視線が下がるのだけは、千鶴子さん1人と決めた筈なのだからと耐えた。


「……そんなつもりは無いって言っても、駄目なんですよね」

「そうね」


 有無を言わせない真摯な先輩の表情に、腹を決めて話す事にした。


「俺には好きな人が居ます。その人に憧れて、ずっと一緒に歩きたいって思う人が居ます。でも今の状況が2人にとって良くないっていうのも分かります。先輩の言う通り、どっち着かずに見えても仕方ないです。

 でも、2人とも俺にとっては何を置いても大切な人なんです。だからいきなり無碍に扱うような事はできません。少し時間をもらえれば、きっと改善できると、いや必ず改善します」

「結果的に片方を……そうね、例えば早苗君を失う…とは言い過ぎかしら。疎遠になる事になっても?」


 早苗を失うという言葉に、何かがざわりと自分の中でうねった。

 けれど何時かそれは起きる事なのだ。

 護ってやると約束したけれど、何時まで経っても籠の鳥ではないのだから。

 だけど、いざそういう時が来たと想像したとき、何故か心に一抹以上の寂しさを感じてしまった。


「……そういう決断も必要だと、わかっています」


 なんとか言葉にしてみたものの、何時の間にか握った手に汗が滲む。背中を這うように感じる嫌な感じは果たして掌の汗の所為か、それとも別の何かの所為か。


「両方とも手に入らないなら、どちらか一方だけを大事にするしかないわね。そうすれば、片方だけは失わない。あなたにはそれが出来る?」

「はい」


 先輩の問い掛けに間髪を置かず返答する。

 それに何れはそうなるのだと、改めて自分に言い聞かせる為に。

 少し下を向きそうになった顔を上げ、改めて先輩を見返す。


「なるほどね。でも実際のところそうなってみないと分からないのが、どんな事にも共通していえること。だからね、改めて聞くのだけど――」


 そう前置きして投げかけられた言葉に、かつてない程の衝撃で心を揺さぶられた。



「中途半端な生方君。君が“異性”として“本当”に好きなのはどっちなの? そもそも“本当”に好きなの?」



 瀬尾野先輩の視線は鋭く、こちらの心の底まで見透かしそうな程に鋭利だ。

 その視線がまるで鈍器が如く、容赦なく俺を打ち据える。


「君はさっき私が2人について聞いたことに対して、千鶴子については、半ば妄信的なほど肯定し、千鶴子1人で何とかできると君は断言した。ほとんど神格化されてるように聞こえたわ。翻って早苗君については反論して見せた。まるで自分が一番早苗君を知っていると言わんばかりに」


 かけられた言葉は、先輩なりのただの疑問なのだろう。

 けれど、自分で言葉にしてみせた事に冷や水を浴びせられたようで、反論の言葉が一切思い浮かばなかった。


「そのやりとりで思ったのだけれど、憧憬や保護欲は恋とは違うわよ」

「そ、それは……」


 脳裏に浮かぶのは、今も眩しく心に残る千鶴子さん。

 何時も笑って気が着けば傍に居てくれる早苗。


 何かに、亀裂が入った音を聞いたような気がした。


「生方君は、もう一度自分と、周りをよく考えた方がいいんじゃないかしらね」


 何か言わなければならないような気がするけれど、頭の中は真っ白になって、何も言葉を生み出してはくれない。静かな教室が嫌になるくらい鼓動の音を意識させ、それはまるで心を削る音のように聞こえた。


 そうして沈黙したまま、昼休憩を終えるチャイムの音が鳴り響いた。


「さて、少し意地悪が過ぎたからしらね」


 さっきまでとは打って変わった砕けた声音で先輩が続ける。


「文句なら千鶴子に言って頂戴ね。相談役なんて私には到底出来ないのに押し付けるのだもの。私には人の悩みを解決できる器量なんてないのにね」


 ここで漸く瀬尾野先輩が態々俺を呼び出して、こんな話をしてきた理由がわかった。

 千鶴子さんだ。

 多分昨夜の事か、それとも前からか、自分が何かを抱えているように見えたのだろう。そしてそれを解決出来ていない様子を見て、瀬尾野先輩に頼んだのだろう。そして、先輩なりに現状を分析して、俺に問いを投げかけてきた。

 そう当たりをつけて問うてみれば、返答は想像の通りだった。


「あなたが思い悩んでいるのはバレバレだったみたいよ。でも相談してくる気配はないから、隣の妹さんは心配でならなかった、と。で、それを見ていたお姉さんも心配だったそうよ。主に妹さんの方を、だけどね。

 で、相談されないのは、早苗君や千鶴子では解決できない類の物ではないか、と考えて私に振った。まったく頭の回転が速い割にはに、どうしてこういう所で変に鈍いのかしらね、千鶴子は」


 まったくあの子は、とまるで子供を叱るかのように優しい声音で呟いたのもつかの間、改めて鋭い眼光が俺を捉えた。


「生方君。全部が全部私の言葉を受け取る必要は無いわ。結局の所、私見に過ぎないのだから。私は生方君を完全に理解することはできない。

 でも、そういうものもあるっていう事をちゃんと頭において、きちんと考えなさい。男の子なんだから、自分で片付けれるようにならないと。まぁ普通は16になるかならないかで、そんな簡単に選べたら誰も苦労しないわよね。

 でも、選らばなくちゃならないなら早いに越したことはないわ」


 先輩は自分のお弁当をしまいながら言葉を続ける。


「だってそうでしょう? ことのよりけりはあるかもしれないけれど、何事も早く経験を積んでおくことが肝要だもの。それに傷を負っても治りは早いわ。よくも悪くも、ね」


 こうして昼食時間は終わりを迎えた。


 考えなさいといわれても、正直何も考えれそうに無かった。







 そうして午後の部活動時間になった。

 頭はお昼休みの事で一杯だったけれど、時間になれば体は動いてくれた。


「生方っ! 声出てないぞっ! 手首を意識しろ!」

「はいっ!!」


 威勢の良い声と竹刀の打音が響く中、意識を切っ先に集中させる。


 自分のままで進めばいいと言ってくれる早苗。

 見ていてほしいと言う千鶴子さん。

 もっと自分と周りを考えなさいと言ってくれた瀬尾野先輩。


 憧れと混同しているのではないかと指摘され、なぜか答えを言葉にできなかった。


 ――本当に好きなの?


 俺は千鶴子さんが好きだ。


 心の中の俺が声高に主張するけれど、あの時すぐに言葉にできなかった。

 憧れがきっかけだったかもしれないけれど、好きだと感じたんだ。


 間違いはないはずなんだ!


 けれど途端に泣きそうな早苗の顔が頭をよぎる。


(くそっ、何で!)


 早苗にそんな顔はしてほしくないのに。


(何でこんなに、イライラするんだよ!)


 モヤモヤと膨れ上がる名状しがたい無い何か。

 考えれば考えるほどにそれは濃く深くなっていく。


 ふと、視界の端に主将が映る。

 激を飛ばす主将は、いつもと変わらない。


 俺達の和に加わってきた主将。

 告白したと聞いたけれど、千鶴子さんは意中の人はいないと聞いた。なら諦めたのかと言えば、そうではないらしく、千鶴子さんと話している所を何度か目撃している。


 嫉妬だとは思いたくないけれど、それを見るたびに心の何かがチクチクする。


 ――両手に華は手放したくないわよね。


(違う! 俺はそんなこと思っちゃいない!)


 その変わらない様子に、なんと言うか年上の余裕を見せつけられているようで、余計に思考がまとまらなくなった。



(何で主将は、ああも平然としていられるんだ?)



 そうして考えの収まらないまま、部活はいつの間にか終了時間を迎えた。







「主将、ちょっといいですか」

「なんだ?」


 部活が終わり、修練場の片付けも終わろうかと言うところで、俺は主将に声をかけた。


「主将、最近千鶴子さんとよく話してますよね」

「東条とか? 確かに俺から声をかける機会は増えたな」


 千鶴子さんの話題を振ると、何時もの厳しい表情から見た目にも分かるくらいにやわらかい表情を浮かべた。


「その、どんな事話てるんですか?」

「特に変わった話はしていないぞ? こちらの稽古の話だったり、生徒会の話だったり。最近は3年生と言うこともあって進路絡みや授業の話が多いな」

「そう、ですか」


 何のこともなさ気に話す主将に、心の中のチクチクが大きくなる。


「どうした?」


 聞くだけ聞いて、じっと先輩を見つめる俺をいぶかしんだのか、先ほどの表情から一転して目が鋭くなる。


(こんな事を聞いて何になるんだ。俺がとやかく言うことじゃないだろ)


「いえ、何でもないです。すみません、いきなり変なこと聞いて。片付けに戻ります」


 そう言ってその場を後にしようと背を向けたところで、不意に肩をつかまれた。


「おい、皆。片付けはここまででいいぞ。後は俺と生方がやるから帰ってよし」

「えっ!?」


 突然の主将の言葉に、皆驚きの表情を浮かべている。無論俺も同様だ。


「主将?」

「いいから。とりあえず言う事聞いておけ」


 副部長がどうしたのかと主将に尋ねるも、ちょっと夏の大会前にしておきたい事があるだけだと答えていた。そう返す主将の顔は、試合時に見せる真剣な表情となっていた。

 その表情に気圧されてか、俺はただ状況を眺めているしか出来なかった。


 そうして最後の部員がお疲れ様でしたと一礼し、修練場の扉が閉まる。

 つかの間に訪れる一瞬の静寂。

 

「さて」


 そう言うや、先輩は作法等お構い無しに無遠慮に胡坐をかいて座り込む。


「お前も突っ立ってないで座れ」


 言われるがままに正座して座る。


「そう畏まる事も無いだろ?」

「いえ、修練場で防具もつけたままなんです。礼を欠く訳にはいきません」

「まったく、生真面目だな」


 そういうと先輩も正座しなおし、改めて俺と向き合った。


「さぁて話してみろ、生方」

「主将?」

「何か俺に言いたい事があるのか、それとも他か。ともかく何かあるんだろ。だから人払いまでしたんだ」


 先輩の表情は有無を言わせない程に真剣だ。

 でも、さっきも考えたとおり、先輩に何かいう事は無い……はずだ。千鶴子さんの事でも俺が割って入って聞いていいものでもない。

 でも、この胸の中のモヤモヤしたものは、確かに何とかしなければならない。このままでは練習にだって影響が出かねないと思っていると、そのままを指摘された。


「今日の練習。練習内容はこなせていても、お前は身が入っていなかった。そんな状況じゃ、この先の練習に支障も出るし、他の部員達にも悪影響が出る。それに俺達剣道部は夏の大会を控えて、これ以上ないくらい気合が入っている」


 主将は大きく息を吸い込み、目を見開いて握りこぶしで床を叩く。

 決して力任せの行為ではなかったけれど、静かな修練場の中に嫌に大きく響いた。


「だから、はっきり言ってお前のその態度は部の雰囲気に水を差す。これ以上続くようであれば看過できん。だからそうなる前に言え。部長命令だ」


 そう指摘され、練習態度にまで出ていた事に酷く衝撃を受けた。

 そんなつもりはなかったといっても、態度に出ていればそれは関係ない。俺個人の問題で、気合を入れている部活メンバー達に迷惑をかけるわけには行かない。


 俺は観念するしか他なかった。


「じゃあ、ハッキリ聞きます。主将は千鶴子さんの事が好きなんですよね?」

「ああ、その話か。隠し立てするような物ではないし、その様子じゃ大体は知ってるんだろう? その通りだ。だが今のところ色よい返事は貰ってはいないがな」


 何がおかしいのか声を上げて笑う主将。

 俺はどうしたらいいのか分からなくて悩んでいるのに、主将はそんな悩みなど無いかのようだ。何故笑っていられるんだ。

 そんな主将に心の内でくすぶる気持ちと、不甲斐無さと、そして多分嫉妬による自己嫌悪とがない交ぜになって、膝の上で握った拳に力が入る。


「何で、千鶴子さんを好きになったんですか?」

「何でって……ふむ」


 半ば呻きにも似た俺の問いに、主将は笑いを納め、スッと細めて腕を組んだ。


「そうか、生方。お前もか」


 瞬間、ぞわりと総毛だった。


「俺はてっきり妹さんとばかり思ってたんだが」

「それは…早苗には俺、借りがあって……」

「借り…か」


 瀬尾野先輩の言ったとおり、周りからはそう見られていたようで、主将も同じように俺達の事をそう見ていたようだ。ただ、咄嗟に口を突いて出た言葉に、確かに得心が行く物があった。

 俺は早苗には返しきれない借りが有る。あいつには色んな無茶をやって、その度に巻き込んで迷惑をかけてきた。だからこそ悲しませるような事はしたくない、させない、会わせないと心に決めてきた。

 だから俺が早苗を心配したりするのは当然の事なんだ。


 でも、そんな俺の思いはあっさりと一蹴され、更に本日二度目の最大級の衝撃で心を揺さぶられた。


「俺の見立てじゃ、どうみても東条の妹さんはお前に好意を持っているぞ」


 主将の言葉に心臓が暴れ馬のように跳ねまくる。何処かに飛び出してしまいそうで、思わず胴の上から胸を押さえつける。

 

「おまえ自身気が付いて無いとは言わせんぞ? 朴念仁な俺ですら察せるんだ」



 早苗が俺の事を好きだということ。



 それは……事実だ。


 そむけていた顔に突きつけられては、認めてしまうしかなかった。

 平素あれだけ傍にいれば、どうしても分かってしまう。

 なんていったって幼馴染なのだ。

 だけれど、俺はそれから目を逸らしていた。


「……泣かせないって約束したんですよ、千鶴子さんに」

「それじゃあ、妹さんがあんまりだろう」


 口を突いて出たその場限りの答え。返す主将の言葉ももっともだ。

 ここまで来たらもう話すしかなかった。


 如何に自分が最低だという事を。


「判ってます。そこんところ、俺、凄い最低な事してます。千鶴子さんが幸せを感じる事は、早苗が笑っている事なんです。だから俺は千鶴子さんに幸せになって欲しくて早苗を大切にして居る。言ってしまえばダシにしてる」


 一度ひねった心の蛇口は、今まで誰にも打ち明けた事のなかったことを溢れさせる。


「本当は俺だって気が付いてますよ。だから俺のほうからワザと、早苗に千鶴子さんの事が好きだって相談したんです。こんな俺は追うに値しない、お前を見ていないって言ってやれば諦めるって。でも、誰に似たんだか、全然諦めないんですよ、アイツ」


 早苗にそれを打ち明けたときの事が脳裏に浮かぶ。色々な感情がないまぜになって混乱しているだろうに、アイツは真面目に始終俺の話を聞いてくれた。


「何時の間にか俺が護ってやらなくても、早苗は堂々と歩いているんです。護ってきたつもりが、実はその早苗に支えられてたなんてことに気が付いたとき、本当に羞恥心で死ぬかと思いました」


 ――がんばれ、勇一郎!

 心の底からの何一つ混じり気の無い純真な笑顔を浮かべ、そう言ってくれる早苗。


「そんな奴に俺は千鶴子さんが好きだって言っちまってるんですよ。でも、それでも頑張れって言うんです。真っ直ぐ前を見ろ。悩むなんて性に合わないことをするな。ぶつかって行けって」


 その言葉にどれだけの想いが乗っているのか。

 そしてその言葉を早苗が口にするたびに、どれだけ自分自身を傷つけているか。

 それをどれだけ俺は見てみない振りをしてきたのか。


「それにみんなと歩きたいって言うんですよ。そんな俺に。千鶴子さんに好かれたいが為に接している俺を。そうやって励ますんですよ。意識しない訳にはいかないじゃないですか」


 正直に言えば、早苗が向けてくれる好意と、俺が早苗に向ける好意が交わるかもしれないと思った事だってある。だけれどそれは、千鶴子さんにあれだけ憧れていながら、飽きたかのようにあっさり早苗に乗り換えるなんて恥知らずも程がある行為だ。


「でも、俺はその気持ちに応えてやれません。俺はその気持ちを利用しているだけ。本当は隣に居る資格なんて無いんですよ。そんな俺が千鶴子さんを好きになる資格も無いんじゃないかって事もわかってるんですよ」


 人の気持ちを踏み台にして、自分の気持ちを通す。

 そんな道理に外れた所業、認められるはずが無い。認められていいはずが無い。


 でも……


「でも。それでもやっぱり諦められないんです。諦めたくないんです」


 何時の間にか俯いてしまっていた顔を上げ、真っ向から主将を見つめ返す。


「俺は千鶴子さんの事が好きなんです。俺の憧れなんです。

 本当に強い人で、優しくて、自分に厳しくて。何時でも真剣に取り組んで、早苗を、周りを大事にして居て、偶々その近くに居た、ただ家が隣なだけの俺なのに、ずっと仲良くしてくれて」


 ――これで今日から私達は“友達”だ!


「出会いは最悪だったんですよ。ずっと迷惑のかけっぱなしだったし、この間だって迷惑を盛大にかけてしまったのに、俺の事をちゃんと見ててくれて、その上で俺を信じて時間を俺にくれている。そんなに千鶴子さんに、俺は何も出来てないんです。認められていないんです」


 ――だから……もう少し見守っていて欲しい。


「だから、俺は早く千鶴子さんに認められる男になりたい。肩を並べたい。同じ目線で物事を見れる男になりたいんです」


 ――頼りにしているよ、カッコいい騎士様。


「でも、俺だけがふわふわと地に足のつかない状態で、情けない限りなんですよ。剣道に拘ってたのも、せめて剣道だけでも、何か1つだけでも結果を出して2人に並びたかったんです。そうすれば2人に対して対等に向き合えるって。

 けれどそんな考えじゃ負けて当然です。実際今年の個人戦じゃ、俺は全然でした。

 団体だって一年の癖にメンバーに選ばれて、いい所見せたかったですけれど、そこでも俺は全然でした」


 言葉にしながら脳裏を駆け巡る様々な思い出。

 そのどれもが色鮮やかで眩しい物だ。

 その眩しさが2人を現しているかのようで、後ろ暗い気持ちを持つ俺には眩し過ぎた。

 でも、だからこそ手を伸ばさずには居られない。


「2人の力になってやりたいんですよ。でも、今の俺は動機も何もかも不純で情けないばかりで、全然駄目なのに、負けたくないんですよ」


 多分きっと、これから先、俺には今の2人以上に特別な人は訪れない。

 

 そう――


「だから、俺は金剛寺主将に負けたくない! 千鶴子さんを取られたくない! 早苗を傷つけて泣かせてしまう事になっても!!」


 何時の間にか立ち上がって、主将を見下ろしていた。

 思い返せばただの言いがかりも甚だしく、主将にとっては全く関係の無い話だったに違いない。というよりどう考えてもみっともない嫉妬心の塊だ。

 けれど、何もかも言い切ったことで、何かつかえが取れた気がした。


 静けさを取り戻した修練場の中、腕組みをし、座して動かなかった主将がいきなり笑い始めた。


「これだから挑むという事は止められんよなぁ!」

「えっ?」


 呵呵大笑する主将に思わず毒気を抜かれそうになるが、主将の笑い声は止まらない。

 ただ、その顔つきは肉食動物の獰猛なそれだった。


「いいじゃないか。誰かに迷惑かけなくて済めば万々歳だが、生憎と世の中は複雑で、誰にも迷惑をかけないなんて事は無い。傷付き、傷付けることを知っている。なら、それを知ってなお突き進もうとする気概を持っているなら、それでいいじゃないか」


 攻撃的な笑みを浮かべつつ、何処か楽しんでいるような雰囲気で言葉を続ける主将。


「例え勝とうが負けようが挑んだ事に意味がある。そして挑む過程で得る物に無駄は無く、いずれ何かしらの糧になる。その時に胸に刻んだ意志。想い。そして傷つけた者には、泣いて傷付いた者と同じ傷が残る」


 そうだ。

 きっと結果はどうであれ、俺は早苗を傷つける。

 というより既に傷つけてしまっている。

 悲しい顔をさせるだろう。深く傷付けることになるだろう。

 でも、それでも譲れないなら這いつくばって謝ってでも、俺は我を通す。


「それを恐れてたんじゃ始まらんが、肝の据わった目になったお前なら出来るだろう」


 それだけ言うと主将は、脇に置いておいた竹刀を手に取った。


「卒業まで後身指導に重きを置くべきだと思っていたが、どうやら、そうもしておれん様だな。生方、面をつけろ」

「えっ?」


 俺の言葉を待たず、防具をつけ始める主将にあっけにとられる。


「俺も譲るつもりも、負けるつもりも毛頭無い。まぁ東条に振られてしまえばそれまでなんだが、それは置いといて、お前と今、やり合いたくなった」


 目の錯覚か、炎のような気迫を纏わせて主将の姿が陽炎のように揺らめいて見える。


「男と男の意地のぶつけ合いってやつだ」


 犬歯をむき出しにした、まるで猟犬のような獰猛な笑み。

 こんな主将は見た事が無い。

 けれどそれに対して気後れする気持ちは沸かず、逆に”やってやろうじゃないか“という気持ちが心から溢れ出た。


「主将が勝っても、俺は諦めませんよ」

「当たり前だ。だからこそ、今のお前の本気を俺にぶつけろ。そして俺も本気をお前にぶつける。今お前が吼えたように、俺もそれに応えよう!」



 夜の帳が降りる中、俺と主将の意志が竹刀となってぶつかり合う。

 試合結果は3―2で主将の勝ちだった。

 負けたけれど、それがかえって清々しい気持ちにさせてくれた。


 そして分かった。


 遠くなったとか思ったけれど、それは単に俺自身の覚悟の問題だったのだ。


 心中を吐露し、言葉にすることで、はっきりとそれが分かった。


 それを踏まえたうえで、これからどうなるかは俺にも未だ分からない。

 色んな傷や痛みを、俺は色んな人に残すことになるだろう。



 けれど悔いは残らない。残さないように出来る。そう思えた。



 俺の心の中に、本当の意味で火がついた日だった。

たまには男臭いのもいいかなぁと。

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