第七話 「私の行為は」
「あなた、それ本当?」
身を乗り出すようにして由梨絵が聞いてくる。
「一言一句正確とは言わないが、本当だぞ」
現在1限目体育に向けて着替えの真っ最中である。周りを見渡せばピンクやらグリーンやらブルーやらが咲き乱れているが、私も最近リニューアルして、新型装備で出撃中である。いや、仲間入りとかはどうでもいい。現在頭の中では定例独唱会が開かれているので問題無しだ。しかし、目の前で凶悪なI型谷間を見せつけながら身を乗り出してくる由梨絵を前に、欲を捨てたはずの坊主達が横目でチラチラとそちらを気にしている。ええい、坊主ども!気合を入れんか、気合を!
しかし1限目体育ってどういう時間構成だろうか……これだけはオカシイと思うんだが。私と由梨絵が所属する普通科特別進学クラスは進学に重きを置いた授業割となっていて、内容もそれなりにレベルが高い。の割にこうした頓狂な時間構成である。1限目体育なんて疲れて後が続かないだろうに。まぁこの日だけは朝のH・Rが2次限目の担任の授業にて行われるので、ゆっくりした朝を過ごせる日でもある。
そういえば授業においてのみで言えば前の人生が役に立っている。無駄に時間があったから一人で勉強していたしな……。おかげで好成績をキープできているのは前世のおかげといえるだろう。だが、その前世のおかげで、こうして体育等は始終ドキドキしっぱなしなのである。慣れろ?無理無理。彼女いない歴=年齢嘗めんな。
まぁそんな事はどうでもいいんだよ。
昨日G・Wのイベントに勇と同行をさせてもらう様、さなちゃんにお願いした。結果としてお友達の了解を得た上で、問題なければ良いよという事となった訳だ。これで一つ不安材料を解消できたかと思っていたのだが、実はそうでも無かった様なのである。
何故かと言うと、今朝からさなちゃんの様子がちょっとおかしいのだ。
まず、今朝は私よりも早く起きてシャワー浴びてた。私は薙刀自体の稽古は行っていないが、それでも基礎訓練の為の足腰づくりにと毎朝夕と行っていたロードワークのような事を今も続けている。別にシャドーしながら川縁を走る訳ではない。薙刀というのは薙刀の取り回しに目を奪われがちではあるが、殆どの武術に共通する通り足腰と重心の取り方がモノを言うので毎日続けていた。今はほとんど癖のようなもので、終えて帰った後にシャワーを浴びるのが日課であったのだが、今朝は誰かが使った跡があった。といっても2人しかいないんだから、誰と言えばさなちゃんしか有り得ない訳だ。
まぁ、そこはたまたま早く目が覚めただけかもしれない。
だがその後、朝食にも来ない。
部屋に声をかけたら「後で」としか言わないし、お弁当も取りに来ない。
で、居間で用意した朝食の前に私一人ぽつーんと座っていたら、玄関のほうから出かける音が聞こえてきた。さなちゃんが、勇との時間よりも早くに家を出たのだ。慌てて声をかけたら「お弁当…今日は、要らない」と言って振り返りもせずにそのまま行ってしまった。
一体どうしてしまったのだろうか?
一応お弁当2人分を持ってきてはいるのだが、要らないと言われた以上持っていくのも気が引ける。そもそもさなちゃんのクラスの中に乱入するのはあれ1回だけで、他は余程の事が無い限りしないと決めているから、登校して来たは良いのだがどうしたものかとお弁当箱を二つ机に置いて思案していたわけだ。誰かに託せばお弁当は届くだろうけど、それでは根本的に解決になっていない。
明らかにおかしいというか、怒っている、または避けられているような感じるのだ。
で、登校して来た由梨絵に「2つ並べたお弁当は一体何事よ」と質問され、説明し終えた後に言われたセリフが冒頭なのだ。
さなちゃん、勇に少々迷惑が掛かっている事は無論自覚している。もしかしたら強引過ぎたのかと思ってもいる。が、そこまで気を害する程のことを私が強引にしてしまったかどうか、という事に疑問が生じる。転生してこの方ずっとさなちゃんを見続けてきたが、これくらいの事で怒るさなちゃんでは無い筈なのだ。
確かに水族館は、どちらかと言うと親子連れが多いイメージだ。私自身水族館と聞いても、さか○くんさんしか思いつかない。だが、だが最近読み始めた雑誌には定番デートコースとしての紹介も多い。となると『ナンパ野郎/みずタイプ』が居るに違いない。現に私みたいなのに声をかけてくる男共が居るくらいなのだ。私なんかより可愛いさなちゃんなんて、きっと『モンスターハウスだ』的なことになってしまう可能性が非常に高い。美和ちゃんに、佳奈美ちゃんという2人が居たとしても、2人も結構可愛かったから逆効果だ。例えるならオードブルにメインディッシュ、デザートまで着いている状態だ。
なので非常に心配で堪らないのである。
だから勇を連れて行き、同行と言う名のガードをしてもらう。あわよくば2人きりにしてしまえば「あとはお若いご両人で、おほほほ」なんて事も可能かもしれない。まぁ友達同士なので流石にそこまでは無理だろうけど。
で、以上みたいな内容を事細かに説明したわけではないが、一連の流れをざっと話して今に至る訳だ。
話を聞いた由梨絵は私のことをのジト目で穴が開くように見つめた後、オーバー過ぎるほどにため息をついて身を離した。
「どうしたんだ、由梨絵」
心の中で安堵のため息をつきつつ、ようやく体操服を身に着けてくれた彼女の様子を伺う。一瞬だけ逡巡する様子を見せた由梨絵だったが、私の方をちらりと見て、こう言い放ったのだ。
「あなた、妹さんに嫌われるわよ?」
言われた言葉を理解すると共に、私の世界が止まった。
◇
「別にあたしは問題ないけど…」
「私も、構いませんが…」
目が覚めたのは5時前。嫌にはっきりと目が覚めたのでそのまま起きたのだが、洗面台に移る私の顔は随分と酷いモノだったので、早めに目が覚めたことは幸いだった。シャワーを浴びて何とか顔を整え、学校に向かったのはいつもより10分も前。勇に会うのも躊躇われ、姉さんと顔を合わすのも気まずくて、「お弁当は?」との姉さんの声に「今日は、要らない」と碌に顔を見ず、朝食も食べずにそのまま学校に来てしまっていた。
そしていつも通り教科書は広げるけど目を通さないまま、ぼーっと過ごすこと1時間ほど。そうして教室にやってきた美和と佳奈美に早速昨日の話を伝えていた。だけど要領よく伝えたつもりだったのに、2人の反応が思わしくない、というか考え込んでいる。何か変な風に言っただろうか。
2人は何故か表情を曇らせたまま私を見つめている。
「美和」
「はい、佳奈美さん」
そしてお互い向き合い頷きあうと、行き成り私を左右からぐいっと立ち上がらせ、そのまま教室外へと連れ出した。
「ちょ、2人とも。どうしたの?」
「いいから、黙って歩く」
「今の早苗さんに拒否権はありませんよー」
なんだか確保された犯人のように両腕を引っ張られ、そのまま保健室に連行された。保険の先生はまだいらしていないようだが保健室は開いており、佳奈美に支えられつつ、美和がベットを軽くしつらえて、そのまま押し倒されるように寝かしつけられてしまった。あまりにもされるがままだったけど、確かに体が何故かうまく動かない。そうしていざ横になると体が楽な気がして、そのまま布団に身を預けて目を閉じると、思わず深く息が漏れた。
「明らかに寝不足と過労?……だろうね。先生じゃないから正しいとは言えないけど」
横になった私の顔を改めてまじまじと見た佳奈美がため息とともに言葉を漏らす。それを受けて美和が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「多分そうだと思います。早苗さん、今朝ちゃんとご自分の顔色を見られましたか?」
「いつもと同じだったけど…?」
確かに朝起きたらひどい顔になってたけど、何とかしてきたつもりだった。だけど2人から見ると、何とかなっていないかったのだろう。心配そうに覗き込んでくる佳奈美は、私の言葉を聞いてさも困ったと言わんばかりに眉根に指を当て考え込んでいた。美和も美和で私の言葉に酷く深いため息をついている。
「…ダメだな、こりゃ。自覚なしだ」
「佳奈美さん、私、保険の先生に話をしてきますね。早退したほうがいいと思います」
「ああ、それならあたしがひとっ走り行ってくるよ。ついでに荷物も取ってくるから美和が看てあげてて」
びゅんと音を立てるように本当に走って出ていく佳奈美。余程急いでいたのか、ドアを開けっ放しで出て行ってしまったので、美和がちょっと苦笑しながらドアを閉めて私のところへ戻ってくる。そうして私の顔を覗き込むと、ちょっと崩れてしまっていた前髪を優しく整える様に撫でてくれた。
「早苗さん、今日は早退しましょう」
「ふぇ?」
早退?なんで?確かに体は重いけれど、そこまでじゃないと思うんだけどと言うと、美和は強く首を振ってそれを否定した。
「ご自分では気が付かれていないのでしょうけど、顔色とても良くないです」
「……そんなに悪そうに見える?」
「ええ」
余程私の顔色は酷いらしい。
「東条先輩も生方君も、何も言わなかったのですか?」
その問いに思わず口籠る。今日はなんだか顔を合わせ辛くて、私一人で登校してきてしまった。それが悪い事では無い筈なのに、思わず美和から顔を背けてしまう。
「…2人とは、今日は、別々で来たから」
「そう、ですか」
そんなちょっとぶっきら棒な私の言葉に短く同意してくれたあと、美和はそのまま黙ってしまった。保健室内に秒針の進む音だけが響く。
「早苗さん」
「…うん?」
改めて静かに私に語りかけてくる美和。その声音は他の音に紛れそうなほど小さくだったけど、私の中にすっと染み入った。
「まだ出会って数週間ですが、私も佳奈美さんも早苗さんのお友達だと胸を張って言えます」
「…うん」
「だから、早苗さんがいいと思ったときで良いです。私達に話してくださいね」
「……」
「多少でもお力になれる……なりたいと思っていますから」
「…ありがとうね」
両の手を自分の胸の前で握りしめ、言葉は静かに、でも力強く響く様に話しかけてくれる。
どうしてこんなにもこの2人は、私に優しくしてくれるのだろうか。私は美和、佳奈美に対して、そこまでしてもらえることの程をしただろうか?思わずなにか打算的なものがあると勘ぐるような考えが一瞬頭に浮かんだが、私を見つめる美和の顔を見てすぐさま頭からその考えを弾き出し、自分を恥じた。
美和の目はまっすぐで、本当に心の底から心配して私を気遣ってくれている。そんな彼女に対して一瞬でも先ほどのような考えを浮かべた自分が情けなくて、思わず布団で頭を隠してしまった。
そうしてお互い黙ったまま暫くしていると、バタバタと廊下を走る音が聞こえてきた。その足音の主は保健室前まで来ると、乱暴にドアを開けて駆け込んできた。
「早苗!」
駆け込んできたのは、なぜか佳奈美ではなく勇一郎だった。
「あれ、生方…君?」
「早苗が倒れたって!?」
美和もてっきり来るのが佳奈美と思っていたのだろう。乱暴に入室してきた勇一郎に驚きを隠せないでいる。そして、いつもの威勢のいい声とは違って、なんだか酷く怯えた様な声音で勇一郎が私のことを聞いてきた。ちゃんと顔を出して何か言うべきなのだろうけれど、やっぱり顔を出す勇気は無くて、そのまま布団を被って黙ったまま身を丸めてしまった。
そんな私を見てか、美和が先ほどと同じように静かにだけど、強く勇一郎に話しかけた。
「静かに。それに倒れた訳ではありませんから。佳奈美さんは?」
「ご、ごめん。佳奈美ちゃんは俺と出会った後、職員室へ行ったよ」
美和に諭されつつも気になるのか、足音が聞こえる程に大股で私の傍までやってくると、頭まで被った私の布団を行き成りはぎ取った。酷い顔をしているらしいから見せたくなかったのに、いきなり布団をめくられて短く呻いてしまう。
「ちょ、ちょっと?生方君?」
「……」
いつもとは違う乱暴な動きに美和が慌てるが、勇一郎は呻く私をじっと見つめる。そして沈痛な色を乗せたままくしゃりと表情を歪め、そのまま踵を返して保健室入口へ取って返していった。
「生方君ってば?」
行き成りの行動に美和が思わず戸惑いの声をかける。勇一郎は顔だけ振り返り、返事を返した。
「早苗は俺が家に連れて帰るよ」
その言葉に思わず私が慌てて声をかけた。
「私を連れて帰るって授業どうするのよ。帰るにしても1人で帰れるから気にしないで」
「ほっとける訳無いだろ!!」
間髪をおかず返された返事に、思わず固まってしまう。大声を出してしまったことをバツが悪く思ったのか、声のトーンを落として勇一郎は更に言葉を続けた。
「千鶴子さんには俺が説明してくる。美和ちゃん、申し訳ないけどもうしばらく早苗を頼むよ」
「それは言われずともですが……生方君?」
「何?」
「本当に任せて大丈夫なんですね?」
「ああ」
短く、だけど強くハッキリとそう答えると、勇は来た時とは違い、静かにドアを閉めて保健室から出て行った。
その後、もうしばらくして私の荷物と一緒に、佳奈美と保険の先生が戻ってきた。保険の先生に事情を改めて2人が説明してくれる。何から何までしてもらって、私がやらないと、とは思うけれど、横になった後どうにも体が思うように動かせなくて、結局なすがままに早退することとなった。
結局先生の見立てでは、睡眠不足と過労から来る自律神経失調のようなもの、ともかく今日は横になって休むように言われた。めまいや吐き気が起こるようであれば病院に行くように、とまで。自分では全く大丈夫だと思っていたのに、周りからは全然そう見えていなかったことに、ようやく理解が追いついてきた。
だけれどそれは昨夜の記憶が蘇るだけで、本格的に体のダルさを自覚することとなった。
昨日の事がこんなにも体に出るなんて、私ってどれだけメンタル弱いんだろうと思わず涙が出そうになる。だけど隣に座ってくれた美和が優しく手を繋いでくれたおかげで、何とか耐えることができた。
そしてH・Rが始まる時間となったので、美和と佳奈美は保険の先生に後を託して教室へ戻ることになった。担任の先生への事情説明は保険の先生と美和、佳奈美がしてくれるそうなので、私はそのまま保健室で勇一郎を待つだけ。保健室を出ていく2人になんとか「ありがとう」と言いたくて体を起こそうとしたけど、「先ずは元気になってから。明日、今日と同じ顔色してきたら、また強制送還だかんね」「ええ、問答無用ですよ~」と私をベットに押し戻して、教室へと2人は戻っていった。
一人ベットに横になった私は天井を見ながら、なぜか情けなくてまた涙が出そうになったけど、なんとか目を閉じて堪えた。
◇
「嫌わ…れ…る?」
由梨絵の発した言葉に、私は呻くように絶句した。既にほかの生徒は体育館に向かっているのだろう。教室には私と由梨絵2人だけ。静かになった教室に由梨絵の言葉が静かに響く。
「最初に聞いたきり毎回長くなるから面倒臭くてカットしてたけど、変っていないのなら早苗君と生方君、互いの事が好きなんでしょう?」
口の中で舌が乾いてぴったり張り付き、言葉を発する事が出来なくてただ頷いて同意を返す。そんな私を腕を組んで仁王立ちのようにポーズを取った由梨絵がキッと見つめてくる。身長が私より低い筈なのに、どうしてだか背の高い人から見降ろされているかのような威圧感を受けた。
「で、まだ付き合っていない。付き合っている素振りも今のところ無いし、お互いがそれを口にした様子もない」
「……あ、ああ」
乾いた声で何とか言葉を返すが、言葉になっているかすら怪しい生返事だけが出る。
「生方君は、早苗君と同じく千鶴子にとっても幼馴染で、幼少時期からの長い付き合いがある。もうその辺り、早苗君の友達は知っているでしょう?で、そんな彼女たちの目の前で、彼だけを呼び止めて自分の用件を伝える。はたから見ると、何やら他には言えない“2人だけ”の内緒話をしている風に見えないかしらね」
昨日の昼の話は生徒会業務合間の雑談時に由梨絵にも話したので彼女も知っている。そして由梨絵の言うとおり、確かに残って欲しいという私の用件と、おば様からの連絡を伝えるために勇を呼び止めた。だが、それに他意は無く、単に私の用件はあまり人に関わって欲しくない事案に繋がっていた事の確認だったので勇だけを呼んだのだ。他には言えない、というのは確かに合っているが意味が違う筈だ。
「そして、そんな様子を見せつけた挙句、夕方に貴女は“生方君と一緒”に帰宅した。最近噂になって告白されまくりな、どういう訳だか急に身なりを気にしだした貴女と一緒に、ね。そして夕飯、想い合う早苗君と生方君の間に割り込んでくるような事を貴女が言い出す」
あの後、帰り道で聞いた勇の行動に多少イラつきを覚え、半ば無理やりではあったが勇を誘い入れてさなちゃんのG・W予定に入れてもらった。それは先にも話した通り、まだクラスの状況がわかっていない中だからこそ心配で、目を離したくなかったのだ。
「さて、第三者から見て、どう見えるかしらね?」
「どうって……」
私と勇は確かに幼馴染だ。そこに何が加わるというのかと問われても想像もつかない。一度瞑目した由梨絵はゆっくりと目を見開き、黙り続ける私を視線と言葉で刺し貫いた。
「きっと第三者から見ればね。貴女が生方君に好意を寄せている、もしくは付き合っていると思っても何ら不思議はないわ」
由梨絵の発した言葉が脳に到達して意味を理解した瞬間、私の頭は真っ白になり大混乱となった。
「え、えぇ!?いや、ええ!?」
「だってそうでしょう?長年過してきた男女が仲睦まじく2人で囁き合い、買い物まで一緒に行っちゃった挙句に、2人で出かけるなんて言ってるのよ?どう考えても、そっちに行きつくと思わない?」
ズラズラと並べられる事実に混乱が増す。言っていることは確かにその通りだけれど、言い方を変えられるだけで全く違って聞こえてくる。
「貴女方の付き合いをある程度知っている私でも、そういう考えに至れるんだから、妹さんでもそう思う可能性は十分にあるわ」
勇が、私と、付き合う?私が勇のことが好き?はいぃぃぃ!?何?なんで?なんでそうなるの?
何かを言おう、言わなければと、言葉を口にしようとするけれど何一つ言葉にできず、パントマイムにも見えない弱々しい身振りだけが虚しく空を泳ぐ。
「その様子だと、全く思い至っていなかった。というより考えもしなかった、ってところかしらね」
全くその通りで言葉もない。
何時でも手を繋いで遊びに行くさなちゃんと勇を見てきた私にとって、これから2人が共に歩くことは当然で、何かを思う余地など全く無かった。だが、最近の事項を由梨絵が簡潔に結び付けて私に説明したことで、私の中では只の点でしかなかった事、全く独立していた筈の行動が、意図していな形で繋がってしまった。しかもその形は良い方向を描いているものではなく、悪い方向を描いていた。
「さて、そんな人の好意を承知していながら、それを弄ぶ様な行動をする人を、誰が好むかしらね?」
由梨絵の言葉は辛辣だ。彼女は友人だからといって言葉を選ぶようなことはしない。悪い事は悪いと何一つ飾らずそう告げてくる。それを私は好ましく思っているが、それがいざ自分に向けられると「手加減して欲しい」と思ってしまった。そんな自分勝手が許される訳があるはずがないのに。私がしたことを考えればなおさらだ。
私は…知らず知らずとはいえ、さなちゃんの心を土足で踏み荒らす、非常に愚かしいにも程がある事をして……しまった…のか?
心の中に沸々と湧き上がる後悔と呼ぶ事すら憚られる念が渦巻く。
私は何をした?何をしてしまった?確かに昨夜はさなちゃんは了承してくれていた。だが今朝、さなちゃんは私と顔を合わせたか?なぜ勇一郎と登校していたのに、1人で行ってしまった?なぜお昼は要らないなんて言った?
それは私に対して、抱かざるを得ない想いがあったからではないのか。
さなちゃんの想い人、勇を私が横から掠め取るまるで泥棒猫な私に対する自衛行動。
そうして混乱の極地にあった私に更なる凶報が、話の中核に上っていた人物からもたらされた。
「千鶴子さん!早苗が倒……れ…て…早退……」
3年の教室にもかかわらずドアを無遠慮に開けて飛び込んできたのは勇だった。そしてもたらされた情報は「さなちゃんが倒れた」と最悪なものだった。
その継げられた言葉は、私の中の考えを更に加速させた。
つまり私が見せ付けた行動は、勇に想いを寄せるさなちゃんに対して、意地の悪いというレベルを通り越した“あてつけ”であったのだ。目の前で、想い人に対して、他の人間が好意的な行動を見せ付ける。そこから生まれるのは『嫉妬』だ。だけど優しいさなちゃんがそれを口にするはずが無い。結局それを自分の中にしまいこんで表面上は問題なく装っていたが、心労となってさなちゃんを苛んだ。
たった一日で体に影響が出るほどに。
もはや言葉で謝ってどうにかなるレベルではない。最低最悪の行動を私はしてしまった。
「ゆ、勇…」
最早事態も原因も明白。だが情けない事に、ある筈のない一縷の望みに縋る無様な失敗者のように、私は勇に詰め寄り事の真偽を確かめようとした。それが例え私自身に止めを刺す行為であったとしても。
しかし勇は近寄ろうとする私を見るなり部屋を出て扉を閉めてしまった。閉じられた扉がまるで拒絶を表すかのようで、思い至った考えが私に重く重く圧し掛かる。
勇にすら見捨てられるような事を……私はして……しまったのだ。
「由梨絵、私は…と、取り返しのつかないことを、取り返しのつかないことをしてしまった…」
茫然自失となり思わず涙を零す私を、由梨絵はそれでも見捨てることなく、優しく肩に手を載せてくれた。
「まずは体操服を着なさい。話はそこからよ」
愚かとか度し難いとか言う以前に、人としての問題で、上半身下着のままでした。
あらゆる意味で、もう死にたい……。
◇
授業中でよかった……
勇一郎にお姫様抱っこされながら、裏手の職員用出入り口に来たタクシーまで連れて行ってもらい、気恥ずかしい思いをしながらもやっと家に着いたところだ。あの後、言った通りに姉さんを説得したと勇一郎が戻ってきた。私の予想だと姉さんが慌てて走ってくると思っていたけど、戻ってきたのは勇一郎1人だった。
よっぽど焦って走っていたのか、顔を真っ赤にして息を上げて戻ってきたときは逆にこちらが心配になったほどだった。そんなに心配してくれたのかと、考えては駄目なのにちょっと嬉しく思ってしまった。しかし、あの私の事となると暴走しがちな姉さんをどうやって落ち着かせたかは気になった。でも、今の情けない姿を姉さんに見せる事にならなくて良かったと心の中で勇一郎に感謝した。
多少横になっていたことで落ち着いたのか、体の感じは最初よりは良くなっていたけど、いざ呼んでもらったタクシーまで行こうとベットから立ち上がる時ふら付いてしまった。
「ちょっと動くなよ」
体の動きが覚束ない私を見かねてか、勇一郎が横から私の体を抱え上げた。後ろで「これが若さかっ…!」なんて保険の先生の黄色い声が聞こえてきたけど、体のダルさと恥ずかしさでされるがままだった。「止めて」と言いそうになったけど、抱え上げられて見上げた勇一郎の顔は真剣で、声を挟めるような雰囲気ではなかった。
距離としては100mも無い程度。だけどその間、力強い両腕と懐の内の暖かさ、そしてあまり揺らさないように細心の注意を払って歩いてくれる勇一郎の心遣いが、私の体のダルさを少しだけ軽くしてくれたように思えた。
ちなみに家に入るところは流石にお姫様抱っこは勘弁してもらった。鍵も出さないといけないし、ご近所さんに見られたら、もう外歩けない。そうして怠い体を動かして自分の部屋まで帰ってきた。
そして、今は私の部屋だ。
元平屋で部屋数が少なかった家に、私が中学になった時、さち枝お祖母ちゃんが姉さんと私の部屋を増築してくれた。生まれて初めて持った私だけの部屋。「フローリングの方が良いかい?」なんて聞いてくれたけど、前の家が総フローリングだったし、私も姉さんも畳が何故か嬉しくて、今も部屋の内装は白の壁紙に畳引きだ。ウォークインクローゼットなんて洒落た物は無いけれど、襖の押入れも、障子も気に入っている。家具なんかもそれに合わせて落ち着いた色調の物ばかりで、多分美和や佳奈美なんかが見たら「渋い趣味だね」なんて苦笑されそうな部屋だ。そんな中に不釣合いにぬいぐるみやサボテンの鉢植えがあったりするのはご愛嬌だと思って見逃して欲しい。
制服から何時ものパジャマに着替えて敷いたお布団に横になっている。勇一郎は一度着替えてくるって家のほうに戻った後、私の布団の横に胡坐をかいて座り込んでいる。でも、座り込んだきり、何も喋らずじっと腕組みをして私を見つめている。
少し重苦しい雰囲気の中、時折走る車の音や人通りの声だけが静かに聞こえる。
そうしてどれだけお互い黙っていただろうか。沈黙を破ったのは勇一郎だった。
「早苗、どうしてこんな無理……って、そもそもはこっちの所為だよな。すまない」
「…別に勇一郎が謝ることじゃないでしょ」
昨夜もそういえばしきりに謝っていた気がする。だけど勇一郎が謝るようなことは何も無いはず。姉さんと付き合いだしたことにショックを覚えて体調を管理しきれなかった私が悪いだけなのだから。
「いや、だってさ。早苗がこんなんになったのって、明らかに昨夜のあの話が原因だよな」
「……それはもういいってば」
改めてあの話を聞かされるのではないかと思い、そこから連想された結果が頭を過ぎって思わず言葉尻が上がる。だけどそんな私の言葉遣いに気が付かないのか、勇一郎はそのまま話を続けた。
「俺も最初は断ったんだけどさ、どうしてもって千鶴子さんが聞かなくて。往来で頭下げるんだぜ?そんなの断れないって」
早苗だってそうされたら断れないよな?って、苦笑いしながら勇一郎が言い訳をする。でも私にはそれが唯の惚気のようにしか見えなかった。
「……2人で行けば良いじゃない。何で一緒に、なのよ」
「あ、いや、それはそのだなぁ……2人だと…意味が…」
ごにょごにょと途端に歯切れが悪くなる勇一郎。自分で話題を振っておいて勝手に照れている。まったく何をやってのかと心にチクリと痛みが走る。
「勇一郎は姉さんの事だけを考えていれば良いのよ。今日だって私を送ることなんて無かった」
さっきまで優しくしてもらったのに、言葉に着いた棘が大きくなっていく。出してしまったら駄目だと思っていたはずなのに、心と言葉は裏腹で、棘は次第に大きくなっていく。
「姉妹だからって、私にまで気を遣う必要なんてない。毎朝だって私が勝手に着いて行ってるけど、本当は姉さんと一緒に行きたいんでしょ?だったらそう言いなさいよ。邪魔だって言えば私だって……」
「早苗?」
勇一郎は優しい。思わず縋ってしまいたくなる程に。だけど優しさは兄妹と恋人同士では持つ意味も質も違う。私に向けられた優しさは無論兄妹の物だ。それでも隣を歩きたかったのは私のワガママだ。勇一郎が本当に姉さんと付き合う前に、ほんのちょっとでも夢を見たかったのだ。それは駄目だと、いけないと無論分かっていても。大人になる為と言いながらも、それが出来ない未熟な自分が恥ずかしく、それを隠すように言葉を続ける。
「そうすれば私だってもう着いていかない。夕飯だってもう姉さんにしかお願いしないし、お節介を焼くような事だってしない」
「お、おい?」
溜まっていた物が流れるように噴き出る。あれほど言葉少なだった昨夜とは打って変わって饒舌になった私に勇一郎が驚いているが止められない。
「もう勇一郎の家の洗濯だって手伝わない。勇一郎の部屋の掃除だってしない。デートコース決定版とか、年上が喜ぶプレゼント特集ページに折り目が着いた本だって、これからは見て見ぬ振りして本棚に隠しておくから」
「ちょ、何でいつの間に俺の部屋掃除してんだ!?ってか前に机の上に揃えて置いてたのお前かぁぁ!」
相談して来たくせに具体的な行動は剣道で全国一位になってからなんて言うものだから、それは私のちょっとした悪ふざけだった。けれど、もう付き合いだしたなら変なお節介をすることなんて無いし、勇一郎が姉さんを喜ばせたいなら隠しておいてあげる方が良いだろう。
「さっきも言ったけど、勇一郎はもう姉さんのことだけ考えていれば良いよ。私の事なんか放って置けば良い」
そうして私は、自分で大きくした棘で、自分に止めを刺す言葉を口にした。
「折角念願叶って姉さんと付き合いだせたんだから、私なんかに構ってちゃダメだよ、勇一郎」
顔を逸らしながらだけど、言ってしまった。認めてしまった。きっとこれで、もう前の3人には戻れない。
「姉さん、多分勇一郎の為にあんなにオシャレとか勉強し始めたんだから、きっともっと、も~っと綺麗になるよ?私なんかに構ってたら、他の男の人に取られちゃうんだからね?付き合ってますアピールとかそんな回りくどい事なんて考えてないで、しっかり手を繋いでないと駄目だよ、勇一郎」
「早苗……」
聞くところによると、昨年度末の大幅校則見直し条項の中に、交際に関する規則について大幅な罰則改定が行われている。無論これも姉さんの働きかけの一部なのだそうだ。元を辿ればこういった校則は「勉強に集中してほしい」との意図があってだけれど、健全な精神とは勉学だけで育つものではない。人とのふれあい等で成長し、それを糧として大人になる。やるべき事は抑圧ではなく、それが本質的にどういうことかを理解させること、結果がどういう事を生むのかと言う事を真剣に考えさせる事こそ重要なのだと切々と学校側を説き伏せたのだそうだ。
だから冬桜は今でも道徳の授業が2週に1回H・Rとは別で存在する。その前は見つかれば即、呼び出し謹慎、場合によっては停学という厳しいものだったが、現在は学校でイチャイチャしていても軽く注意される程度。あまり度が過ぎるようであれば厳重注意と反省文くらいだ。流石にこうゴニョゴニョなことに至った場合は容赦なく重い処罰が待っているけれど。
つまりはこう言った事も予測した上で、なのだ。姉さんには全く叶わない。勉強も、成長も、恋も、何もかも。
再度訪れる静かな時間。だけど先ほどと同じように、勇一郎がそれを破った。
「様子がおかしいのは、そういう事か……こっちを向け、早苗」
勇一郎が大きくため息をつきながら言ってくる。
「なによ?」
多分私は泣きそうな顔をしているに違いないから、顔は向けたくなかった。けど、勇一郎の声にはそれを許さない力強さがあった。そうして渋々勇一郎に顔を向けると、ぴしっとおでこを弾かれた。
「どうしてそんな事を思ったんだ?」
真面目な顔つきで勇一郎がそう尋ねてくる。最早言う事を言ってしまったので、毒を食らわば皿までと、口から思っていたことが蛇口の壊れた水道のように止め処無く出てきた。
「だって勇一郎と姉さんで水族館デート行くんでしょ?どうせ2人っきりで行くのが恥ずかしいとかが理由でしょ。稀にどうでも良いことで姉さん恥ずかしがるのよね。私と下着を買いに行った時だって変に恥ずかしがって見てくれなかったし。話逸れたけど、でも、今更そんなの恥ずかしがる必要なんて無いじゃない。だって夕食の時だって、頬っぺたについたおかずを取ってもらって、どうみたってカップルですなんて事やってるんだから。爆発してしまえ」
「ちょっとお前話題ってか言葉選べよ…つか、アレはだな……」
言葉に詰まる勇一郎。ほらみなさい。言い返せないじゃない。
「綺麗になったせいで男の人が寄ってきたから焦って告白でもしたんでしょ。まぁ最初の決意表明とは変っちゃったけど、受け入れてもらえたんだから結果オーライじゃない。姉さんも姉さんよ。受け入れたくせに周りの事ばかり気にして、勇一郎の事をもっと大切にしてあげれば良いのに。勇一郎が可哀想よ」
再度弾かれる私のおでこ。私のイライラは溜まった物を吐き出したおかげで多少は落ち着いたが、何度も頭をつつかれれば腹も立つ。それが私が起因することではないなら尚更だ。
「恥ずかしいからって私のおでこを弾くのやめてよ!」
「違うっつーに。どうしてそう先走った考えに至るんだか……ったく」
やれやれという風に頭を振ると、今度は弾いた私のおでこを労わる様に、優しく撫でくれた。いきなり優しくするなんてずるい。
「止めてよ。姉さんに悪いじゃない」
「ちょっと聞け」
「嫌」
「いーから聞けっ!」
珍しく大きな強い声にビックリして思わず黙る。
「まず一つ。まだ俺は千鶴子さんに告白すらしてない。お前に相談したとき全国一位になってからって言ったのは嘘じゃない」
はい?んじゃ何で2人して水族館なんかに行くのよ。
「で、G・Wの件だが、確かに俺が断り切れなかったというのもあるけど、本来の理由は……お前が心配だからだ」
「はぁ?」
2人でデートと言う事と、私が心配と言う事に一体何の繋がりがあると言うのだろう。思わず気の抜けた返事をしてしまったが、勇一郎の次の言葉に、心臓をキュッと掴まれた。
「思い出させるから言うなって言われてたけど……千鶴子さん、お前が言ったみたいに最近告白されてばっかりだった所為で、どうも中学の時のことを思い出したらしいんだ」
中学の時といわれて真っ先に思い出すのは、私が原因で起きたストーカー事件。最初にもっと私が毅然とした対応をとっていればあんな事にはならなかった、大切な人たちに迷惑をかけることが無かった筈の忌まわしい思い出だ。
「昨日呼び出されたのだって、それが理由だった。どうしても心配でならないから、着いて行こうってな。俺も一応言ってはみたんだけどな、早苗も高校生なんだから大丈夫じゃないかって。でも、千鶴子さんが言ってたんだよ。もう二度と早苗をあんな目にあわせたくないって」
あの事件の時の事は思い出したくなくても、思い出そうとすれば鮮明に思い出せてしまう。
それは相手の事ではない。
姉さんとさち枝お祖母ちゃんの事だ。あの時の「大丈夫、さなちゃんは何も心配しなくて良い」と言いながら、優しく私の頭を撫で、私を安心させようと笑顔を浮かべていたのに、なぜか自分を傷つけているような姉さんの顔は痛ましくて見ていられなかった。さち枝お祖母ちゃんも同じような顔をして、私に「心配ないからね」って言ってくれた。私に元々非があるのに、まるで2人とも自分に非があるように責めている顔をしていて、それが堪らなく辛かった。
「ほら、その顔。さっきの保健室でお前は、あの時浮かべてた顔と同じ表情をしてる。心の中で自分を責めてる顔だ」
私の心の中を見透かすように、勇一郎が私の目を覗き込む。思わず視線が泳ぎかけたが、勇一郎のその目が、それを許してくれなかった。
「この話を千鶴子さんが俺にお願いして来たとき、同じような顔をしてたよ」
その言葉が心に氷柱を差し込まれたかのように、頭に血が上った私を冷静にした。
「昨日の夕方だってお前の事を碌に見れなかったのは、千鶴子さんの気持ちも分かるし、早苗の友人関係に割って入るのも申し訳なくて、どうしていいか分かんなくて恥ずかしかったからなんだよ」
そうして天井を仰ぎ見るように顔を挙げ、ポツリと呟いた勇一郎の言葉に自分の耳を疑った。
「ああ、もう、畜生。カッコワリいなぁ……俺、お前の事護れるようになるって誓ったのに」
「……えっ?」
護る?誰が?私を?勇一郎が?なんで?
湧いた疑問をそのまま口にすると、思わぬ返事が返ってきた。
「勇一郎、今なんて……」
「…俺は昔、千鶴子さんに早苗を護るから安心してほしいって言ったんだよ。そんな顔させたくないのに……ったく」
恥ずかしいからなのだろうか、勇一郎が撫でてくれた手で私の目を覆うようにしてしまう。
私を護るって誓った?なんで?さっきまでアレほど勇一郎から顔を逸らしていたくせに、急にもっと顔が見たくなった。だけど、もっと見たいのに頭を振っても大きくて暖かい手は私の上から退いてくれなかった。
「手、退けてよ。見えないじゃない」
「今見んな、ぜってー情けない顔してるから」
しばらく退けて、退けないの応酬が続いたが、暫くしてようやく勇一郎が手を退けた。ちょっと顔が赤く見えるけれど、先ほどと同じように私の目を勇一郎が見つめている。
「悪かったよ、早苗。でもな、結局、千鶴子さんは早苗のことが大好きなだけなんだよ。だから今日みたいに1人で変に勘繰らないでくれ」
お前がそうして元気が無いのが、俺も、千鶴子さんも一番堪えるんだからさ――そうして勇一郎は何時ものように優しく私の頭をゆっくりと撫でてくれた。ちょっと力が強いように思えたけど、それが何故か心地良かった。
「本当に付き合い始めたんじゃ…ないの?」
答えは出ているはずなのに、敢えて聞いてしまう。そして帰ってきた言葉はその通りだった。
「マジで未だだよ。それに千鶴子さん、告白されても特定の異性と付き合わないって断ってるってさ。ハードル高いわ」
「……そっか」
そしてまた静寂が部屋の中を支配する。けれど最初の重苦しさはもう無くて、どこか暖かい雰囲気だけが私の部屋に満ちていた。
そうして気を抜いてしまったからなのか、朝ごはんを食べなかったからなのか、きゅる~っと私のおなかが鳴った。見る見るうちに顔に血が昇るのが分かってしまう。なんと言う空気の読めない私の体。そんな私を見て数瞬の沈黙の後、勇一郎がぷっと吹き出した。
「わ、笑うなぁ!」
「いや、良いじゃんか。素直なのは良い事だぜ?」
わしゃわしゃっっと乱暴に頭を撫で繰り回す。顔から火が出そうで、慌てて布団を頭から被ってしまった。
一頻り笑った後、勇一郎が立ち上がる気配がした。
そっと顔をのぞかせると私の家の鍵を手にしている所だった。
「何処か行くの?」
「腹減ってんだろ?俺じゃ何も作ってやれないから、何か買ってくる。リクエスト在るか?」
ゼリーとかって食欲無いときに良いんだっけ?何が良いんだっけかなぁと言いながら首をひねり考えている勇一郎に、私は一つリクエストした。
「……パックのオレンジジュースと菓子パン。できたらクリームパン」
「そんなんで良いのか?プリンとかの方が良いんじゃないのか?」
それは多分勇一郎は覚えていないだろうけれど、私にとっては非常に思い出深いメニュー。実に平凡なリクエストで何でもない物だったので、勇一郎が他のものを提案してくる。だけど無性に今はそれが食べたかった。
「この間の貸し1。姉さんの写真と焼き増ししてあげたじゃない。だから私の言う通りにしなさい」
「へいへい……分かったよ。おとなしく寝てろよ?」
そうして勇が出かけていくと、一人静かな家で先ほどの事を思い返していた。
私の行動は全て只の憶測の空回り、独り相撲だった。何て滑稽なんだろう。その所為で姉さん、勇一郎、美和、佳奈美に大迷惑をかけてしまった。事の起こりは只の忘れ物。でもそれが起こした波紋は大きく、いろんな人を巻き込んでしまった。そもそもその波紋だって自分が大きくした様なものだ。忘れ物はするまいと誓ったけれど、それは単に自分を戒める物だった。
だけど改めて今は思う。例え忘れ物という小さなことでも他への影響は出るのだ。いきなり100点は無理だろうけれど、何時かあらゆる事を考慮して行動できるように努力しなくてはならない。そう、姉さんが何時もしているように。
自分がしてしまった事の恥かしさに思わず頭を抱えそうになるけれど、それは今はしてはダメだと思った。
まず元気にならないといけない。
そして明日、皆に今日の不明を認めて謝らないといけない。
そして何よりも、姉さんが帰ってきたら今朝の事を謝らないといけない。
勇に託したとは言っても、姉さんは今も学校で私のことを心配しながら過ごしているのだろう。朝食も食べず、お弁当すら手に取らず出て行った私を、相当訝しがって不安がっているに違いない。一応メールしておこうかなと思ったけど、ちゃんと顔を合わして謝るべきだと思って止めた。
そして、今回の事で一つ、私の中で生まれてしまった物がある。
それは諦めてしまった『勇一郎へ想いを伝える事』への回答。先ほど聞いてしまった『私を護る』という言葉の所為だ。多分、深い意味は無いのかもしれない。もしかしたら私が都合よく勘違いしているのかもしれない。でも、それでも私の進む道筋の中で輝く一つの星になってしまった。最初から諦めてしまっていたけれど、もしかしたら姉さんみたいに頑張れば、私も同じ道を辿り、やがて辿り着く事ができるかもしれない。
忘れもしない小学二年の春。
あの時、下ばかり向いていた私の顔を強引に空へと向けてくれた、やんちゃな少年。
誰かを握り締めてばかりだった私の手を強引に握って、眩しい世界を見せてくれた人。
今でもありありと思い出せるあの手の暖かさ。それを思い出したら、あの時と同じように急に目の前が明るくなったような気がした
大人になると私は入学時に心の中で宣言した。でもそれは漠然としすぎていた。
でも今、私にとっての大人になる『何か』がはっきりと見えた。
それは『勇一郎』だ。
私は勇一郎に認められる、内面も外面も立派な『女』になる!
そうすれば以前思えたように、夢叶わずとしても、きっと後悔など無く一緒に肩を並べて歩けるはずだ。
単純だと思うかもしれないけど、まさに霧が晴れる思いだった。
そうして考え込んでいると、意外と早く勇一郎がコンビニの袋を下げて帰ってきた。買って帰ってきたのは、お願いした通り紙パックのオレンジジュースとクリームパン。でも数は2個ずつで、俺も腹減ったしと笑いながら一緒に同じものを食べた。
まるであの時の再現だ。
最近こういったものを食べることなんて無かったからか、それとも目標が見えたからか、はたまた過去を思い出したからなのかは分からないけれど、勇一郎と一緒に食べる菓子パンはとても懐かしくて、そしてとても甘くて美味しかった。
ふと、勇一郎を見ると優しく微笑んでいてくれていた。
「ん?どうしたの?」
「いや、久しぶりに聴けたと思ってな」
勇一郎が笑いながら自分の鼻を指差す。
「あっ!」
「いいじゃんか。俺は好きだぜ?」
どうやら又やらかしてしまっていたらしい。
けれど今は悪い気はしない。だけどやっぱり恥ずかしくて、残ったひとかけらを慌てて飲み込むと布団へ逃げ込んでしまった。そんな私を見て勇一郎が笑っている。
「食べて直ぐに横になると太るんじゃなかったっけか?」
「い、良いのよ!今日だけなんだから!」
ちょっとだけ顔を除かせてそう反論する。また勇一郎の暖かい手が私の頭を撫でてくれた。一体どれだけ私の頭を撫でまわせば気が済むのかと言いそうになったけど、結局何も言わずにされるがままだった。
しばらくすると、胃に物が入って血が巡ってきたのか眠くなってきた。そういえば昨日は寝たか寝れなかったか、どっちだったかサッパリだったっけ。その内抗えないほどに眠たくなってきた。
「ねぇ、手、握っててくれる?」
思わず勇一郎に甘えてしまった。だけど勇一郎は何も言わず、差し上げた私の手をゆっくりと握ってくれた。
「いつまで握っとくんだ?」
「寝るまで……でいいよ」
「おっけー」
あの時と同じように、だけれど力強く大きくなった手が、私の手をやさしく握り締めてくれる。
「勇一郎?」
「ん?」
「ありがとう。それと、ごめんね」
「……俺のことはいいから寝とけよ」
「うん」
そうして前の日が嘘のように、私は直ぐに眠りへと落ちていった。
そして見た懐かしい夢の中でも、手の暖かさは消えることが無かった。
少し長くなりましたが、何とかなったかな。
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2013/3/25 相変わらずの誤字脱字とおかしい文脈修正
2013/4/17 誤字脱字修正
幕間
「ねぇ、佳奈美さん」
「何?」
「どっちにつきますか?」
「えらく抽象的な質問だけど言わんとすることはわかるよ。だからあたしはこう言おう! 女ぁ!」
「いえ、どちらも女性ですが…」
「ご、ごめん。一回言ってみたかっただけ。そんなの早苗に決まってる」
「よかった、私と同じで」
「多分その予想は外れてないと思う。この数週間の間、早苗と生方のやり取り見てきたしさ」
「最初はてっきり……だと思ってたんですけどね。昨日の昼食で分かっちゃいました」
「ま、千鶴子先輩には悪いけどさ、早苗と友達だもん」
「ですね~」
「でもさ、美和の言う通り生方は多分……だよな」
「ちょっと分が悪いかもしれません」
「なに、あたしは分の悪い賭けは嫌いじゃないよ」
「佳奈美さん、それって大概失敗しますよ」
「うっ……で、でもさ。全然目が無いって訳でもないと思うんだ」
「そうですね。聞く所によれば東条先輩は異性との付き合いは全く考えていないとのことでしたから」
「ま、下手に踏み込むと馬に蹴られるから、所々で背中を押す位だけどね。うちらに出来る事って」
「お節介が過ぎる、と思いますか?」
「度を越せば、ね。でも2人いるんだから、お互いがお互いを見ていたら、そんな事にはならないよ」
「私が言い出したことですけど、少々お節介が過ぎるかとビクビクしていたのです」
「うん。でも、あれを見ちゃったらね~」
「ええ。あんなに元気がない早苗さんを見たら居てもたってもいられなくて」
「早苗も分かりやすいよねぇ。それに気が付かない生方もかなり鈍感だけど」
「その素直な所が早苗さんの美点じゃないですか」
「確かに。早苗は笑ってるのがいいよね~。あたし、早苗の笑顔が大好きなんだ~」
「はい、私もです」
「しかし、あたしが想像してた高校生ライフと大きくかけ離れたなー」
「どんなのを想像してたんですか」
「いや、進学校だからさ。生き馬の目を抜く、結構ギスギスしたのを想像してたんだ」
「なるほど。それで楽しそうにしていた早苗さんと友達に、と言う事なんですね」
「そそそそ!初対面で不躾なあたしを友達にしてくれて、楽しい学園生活をくれたんだ。力になってあげなくてどうするよ」
「私も割と近い想像でしたけど、入学式で横に座った早苗さんは初対面の私にすごく優しく話してくれました」
「ほほぅ」
「切っ掛けも、理由も、それがどんなに小さくても、心細かった私にはとても嬉しかった。だから私も早苗さんのお力になりたいんです」
「酸いも甘いも経験できそうな、楽しい高校生活になりそうだぜ!」
「押し付けにならない、迷惑をかけないを合言葉に、ちょっぴり応援作戦開始です!」




