第40話:思わぬ敵
「カルデイ?」
その固有名詞を聞いた王子は、不思議な事を耳にしたかのように首を傾げた。どうして今その名前が出るのか。そんな感じだった。
王子は跪く騎士の前に立っていた。
バルバールとの国境の本陣に、ランリエル王都フォルキアから伝令の騎士が駆け込んできたのだ。その若い騎士コンティは、その名を告げたのである。
王子の反応にコンティは、まだ微かにあどけなさが残る顔に戸惑いの色を浮かべた。もしかして自分が言い間違えたのかと考え、再度ゆっくり、はっきりと報告した。
「これより5日前、カルデイ帝国沖にバルバール海軍の船団が現れ、2千ほどの軍勢が上陸。カルデイ帝国沿岸の村々を襲いました」
コンティの再度の報告は、今度こそ王子の脳裏に届いた。
何をやっているのだ。騎士の言葉が頭に染みわたり、初めに思い浮かんだ言葉がそれだった。後ろにある椅子に膝が崩れたかのように座ると、今度はそれを口に出して言った。
「何を……やっているのだ。あの男は」
ひじ掛けに右ひじを置き、そこから延びる手で頭を支えた。急激に頭が、いや体全体が重く感じたのだ。その重い頭でサルヴァ王子は考えた。
戦っているのはランリエルとバルバールではないのか? それをカルデイ帝国の、しかも民衆を攻撃しただと? 常軌を逸している。
背後に立つ副官ルキノの顔も青い。椅子に崩れ落ちている王子を気遣うように視線を向けた。
サルヴァ王子とその副官の様子にコンティは不安を覚えた。自分の報告に、稀代の英雄と称えられるサルヴァ王子が、これほど衝撃を受けるとは夢にも思わなかったのだ。だがこれが役目と、コンティはさらに報告を続ける。
「バルバール軍は村々を襲った後、そこかしこに立札を建てて行ったそうでございます。それには
『現在バルバール王国は、ランリエル王国に攻められている。そのランリエル王国の軍勢は、カルデイ帝国からの資金提供によって養われていると聞いている。ゆえにカルデイ帝国を我らの敵とみなす』
そう書かれていたそうでございます」
その言葉に王子は二の句が継げなかった。帝国からの資金で軍勢を養っていると言われれば、確かにそうではあろう。だが、帝国の民衆とて喜んでランリエルに資金を提供しているのではない事ぐらい、出させている王子自身がよく分かっている。
いや、正確には民衆は帝国に税を払っているとしか思ってはいない。あくまでその後、帝国がランリエルに多額の賠償金を支払っているのだ。ましてや、帝国の民衆がランリエルによるバルバール攻めを歓迎している訳では決してない。
そのカルデイの民衆を、バルバール軍は、いやディアスは攻めたというのか。
王子は今まで、敵総司令に対して、ある意味畏怖にも似た感情を持っていた。圧倒的な国力差があるにもかかわらず、ディアスはランリエルに対し五分の戦いを演じているのである。国力の差を補う為、ランリエルの民衆を攻撃するという手段もやむなし。そうも思っていた。
しかし、それがカルデイ帝国を攻めただと?
王子の頭の中に繰り返し、なぜ帝国を攻めるのか、という言葉が渦巻いた。何をどう考えても、最終的にそこに行きつくのだ。コンティの報告はさらに続いた。
「さらに帝国国内では、海岸線防衛の兵力が足りないのはランリエルに税を払っているからだ。ランリエル軍が帝国の海岸線を守るべき、という声も上がっております」
「これが……狙いか。ディアス!」
サルヴァ王子が思わず叫ぶと、ルキノが反射的に王子に目を向けた。
「どういう事なのですか? 殿下」
「話が広まるのがあまりにも早い。逃げ惑う民衆に間者を紛れ込ませ、その流言を。つまりこの状況はランリエルの所為であるという煽動を意図的に広め、ランリエルが帝国を支援すべき。そういう世論を作り出そうとしているのだ」
その言葉にルキノは驚愕し目を見開いた。
「ですが、我が軍にはその余裕はありません。今ですら国境で対峙する軍勢は、ほぼ互角なのです。これ以上他に軍勢を差し向ける余裕はありません」
王子もルキノのいう事は十分承知している。帝国に軍勢を派遣するのは厳しい状況だ。だが、その流言に対し、それはバルバールによる扇動だ。そう訴えたところで、帝国の民衆は納まりはすまい。確かにその言い分には一理あるのだ。
「帝国に、独力で海岸線を守らせる事は出来ないのでしょうか?」
「いや、それは難しい。現在帝国軍は相次ぐ独立国の乱立と、我が国への賠償金の支払いで規模が大幅に縮小している。まあ、それは私がさせているのだがな。今帝国を支援せざるを得ないのは、自業自得と言うところか」
王子の顔に苦いものが浮かぶ。とはいえ、それは帝国支配には必要なものなのだ。
だが帝国には、王子を敗死寸前にまで追い詰めたエティエ・ギリスが総司令官としている。彼は何をしているのか?
ギリスは自らが策を立てるというより、敵の策を見破りそれを逆手とって勝利を得る武将だった。ランリエルによるカルデイ帝国侵攻時にも、それにより王子を追い詰めたのだ。その帝国軍総司令にして、バルバール軍総指令には敵しえないと言うのか。
その考えを王子は言葉にしてコンティに問いかけ、彼は答えた。
「1度目の上陸はまったくの奇襲でしたのでどうにもなりませんでしたが、ギリス将軍は2度目の上陸は阻止する事に成功しました。しかしその後は……」
「3度目以降は阻止できなかったと?」
「はい。残念ながら……。3度目以降、敵は艦隊を散開させ多数の個所から同時に上陸する構えを見せました。それに対しギリス将軍はある程度の規模の軍勢で数か所を守るのみ。手薄なところが襲われております」
「そうか……」
バルバール軍は、兵力を散開させたかのように見える。だが、その裏をかいて分散させていない可能性もある。
そしてそれを読む情報がないのだ。敵兵は輸送船の中にあり姿は見えない。他の個所の輸送船は空で、一群の輸送船にだけ兵士を満載している可能性もある。それを見抜こうにも敵船内が見えない以上、まさにコインを投げて裏か表かの博打でしかない。
その博打に勝っても上陸を阻止できるだけ。防御体制が敷かれていると見れば、バルバール軍は上陸を中止するだけで何の被害もない。だが、博打に負ければ軍勢を分散せた帝国軍は各個撃破され、大きな被害を出す。
しかも、輸送船内の兵士はどこかで乗り換え直す事が出来るのだ。そうすればまた博打のやり直しである。
いくら洞察力に優れたギリス将軍でも、そのような割の合わない博打は打てない。いや洞察力に優れているからこそ、博打などしないのだ。
「いかがなされますか?」
コンティを下がらせた後、副官のルキノが問いかけてきた。その表情に困惑の色を隠せない。
元々、ランリエルに屈する前のカルデイ帝国の国力なら10万近い軍勢を動員できた。それが相次ぐ独立国の乱立と、ランリエルへの多額の賠償金の支払いの為、今では精々4万を動員できるかどうか。
しかも、国土の南を海に接するだけのランリエルと違い、帝国の海岸線は南から東にまで伸びるのだ。ランリエルの海岸線を防衛するのに7万の軍勢を必要としたのであれば、単純に計算すると帝国の防衛には10万以上の軍勢が必要という事になるのだった。
「この本陣には現在5万の軍勢があります。カルデイ帝国が動員できる軍勢は4万。合計9万では、我が国より長い帝国の海岸線を防衛する事すら出来ません。そうなればバルバールと戦うどころでは……」
「いや、帝国の海岸線を防衛するのに9万もの軍勢は不要だ。バルバールから帝国まではあまりにも遠い。すぐに戻れる距離ではない。我が国の海岸線を防衛する時は、最大1万の敵軍が海上にいると考えて7万を配置したが、帝国まで1万もの軍勢を動かしはすまい。バルバールとて、それだけの軍勢を国境から引き離すのは危険だからな」
尤も、必ずと言えるほどの確証がある訳ではない。しかし敵の意表をつくのが作戦とも言えるが、だからと言って意表をつけば良いと言うものではない。一戦で勝敗を決する奇襲作戦というならともかく、海岸線攻撃は長期間にわたる。発想において意表をつかれはしたが、その布陣においては常識の範囲内のはずである。
「しかしそれにしても、反対側の国境からバルバールに侵攻しているはずのコスティラ軍は、いったい何をしているというのでしょうか……。彼らがバルバール国内を攻めてくれていれば、このような事も起こらなかった筈です」
不意にルキノが、まさにそういえば、というふうに言った。カルデイ帝国が攻められたという衝撃に、今の今まで失念していたのだ。もっとも失念していたという点において、王子も副官を責められない。王子もその存在は現在頭の中になかったのだ。だがそれから導き出した結論は、副官とは違った。
「いや、初めから他の手を借りる事を考えたのが間違いだったのだ。やはり自らの力のみを頼むべきだった」
王子は毅然としてそう言うと、さらに副官に命じた。
「さっきも言ったとおり、バルバールは帝国に1万もの軍勢は派遣していないであろう。だが、万一という事もあり得る。国境を攻め敵軍の規模を推し量る。3万以下の軍勢しかいないと見えればそのまま攻め潰してくれる。だが、それ以上と見えれば軍勢はここに残し、私は一旦王都に戻る。帝国への対応は王都に戻らなければどうにもならんからな」
帝国への対応は大きく分けて3つ考えられた。一つは援軍を派遣する事。もう一つは帝国単独で防衛できる軍勢を整えられるように、ランリエルへの賠償金の支払いを軽減させてやる事。そして全く放置する事だった。
援軍を派遣するのは簡単だが、バルバールとの戦いを考えれば避けたいところだった。だが、賠償金の支払いを軽減することによって帝国の軍勢が増えることは、今後の帝国支配を考えればそれはそれで避けたい。ルキノにはそれは難しいとは言ったが、可能ならば、放置する、というのが最も好ましい。
だがそれも、帝国国内の世論、情勢、各独立国動きを詳細に調べ検討を重ねた上での判断が必要だ。判断を誤れば、帝国、独立国すべてが離反しかねない。その為には王都に戻り、念入りに情報を集める必要があるのだった。
その後、改めて国境を攻めたランリエル軍であったが、やはりバルバールの布陣は厚いと見て、敵の奇襲に対応できる距離まで後退して陣を固めた。そして、王子はわずかな供回りとルキノのみを従え、王都に戻ったのだった。
ランリエル王都フォルキアに到着したサルヴァ王子は、父である国王にすら帰還の挨拶をせず、慣れ親しんだ軍部の執務室に入った。帰還に先立って各地に派遣し、情報を集めさせていた部下からの報告を受けたが、それらは王子に利するものとはならなかった。
「やはり帝国国内では、ランリエルに対しての不満が強い。そういう事か」
王子の前で跪き、頭を下げ報告していた部下は、さらに俯きその問いを肯定した。
「はっ! もちろんバルバールに対しての不満もありますが、帝国の民衆にとってバルバールなど遠い異国。あまりにも意外な敵であり、隣国である我が国へ怒りをぶつける方が分かりやすい。そう言う事もあるようです」
たとえ直接被害受けた相手でも、よく分からない者より、分かりやすい相手に怒りをぶつける。人の心理はそういうものだ。バルバールが潜り込ませた間者による扇動もある。
その後、さらに独立国についての報告も受けたが、それもあまり芳しくなかった。各独立国は、帝国海岸線の防衛を買って出ると積極的には名乗り出ぬ情勢である。
これはある意味仕方がない。いうなれば独立国と帝国を仲違いさせる政策を王子は打ってきたのだ。今、手を取り合って共に闘えと言うのは難しい。
やはり帝国の問題を放置するのは不可能という事か。そう判断せざるを得ない。ならば援軍を派遣するか、賠償金の削減としての資金援助をするか。
「それで、帝国の被害の規模はどれほどのものなのか?」
その問いに対しての部下の答えは、王子の予想を遙かに超えていた。ほとんど、ランリエルが海岸線攻撃で受けた被害総額に匹敵するのだ。だが、帝国が受けたという被害は、その攻撃にさらされた期間を考えればランリエルが受けたそれより小さい筈だ。
にもかかわらずこれだけの被害が出ると言う事は、バルバール軍はランリエルに対したものよりも勝る軍勢を派遣しているという事になる。だが、国境で戦った感触からすれば、間違いなく帝国を攻撃しているバルバール軍の数はそう多くはない。
確かに帝国は攻撃されるはずがないと油断はしていたであろうし、その後、兵力不足からほとんど防衛出来なかったにしても、あまりにも被害が多い。そう考えた王子にある疑惑が浮かんだ。
もしかして帝国軍総司令のギリスが、被害を水増しして報告しているのではないのか? という疑惑である。
まず状況としてバルバールからの被害に対して、ランリエルから何かしらの保障が受けられる。そうギリスは考えている。でなければランリエルによる帝国支配に影響が出る。
現在帝国の民衆がランリエルの支配に甘んじているのは、王子が帝国に対し増税を禁じている事も大きい。増税を行い軍勢を整えてランリエルに対抗するより、その方が民衆にとっては生活が楽。そう考えているのだ。
それが、この苦境に帝国を放置すれば民衆が立ち上がりかねない。帝国軍が僅か4万といえど、民衆が共に立ち上がればその統治は難しくなる。何かしらの支援はすべきだった。
その支援が金銭で補われるなら、受け取った金銭で行える事は多い。被害を受けた民に救いの手を差し伸べるのも、そして、減少している帝国軍の規模を大きくする事もだ。
この苦境を逆手にとり、軍勢を整えランリエルからの独立を果たす気か! 王子の胸中に苦々しいものが走る。勿論ギリスとて、わざとバルバール軍からの攻撃に民衆を晒している訳ではあるまい。だが、どうせ守り切れぬならと開き直り、それを利用しようとしている。王子はそう看破した。
独立の為には、ランリエルからは援軍よりも資金提供を望む。ギリスはそう考えているはずだ。下手に援軍など来ようものなら動きを監視され、独立の妨げとなる。
受けた被害を大きく申告する、それはすなわちバルバール軍の規模が大きいという事になり、援軍を派遣するにも大軍が必要となる。そして現状ランリエル軍にその余力は無い。つまり、資金による援助しか選択肢が無くなる。そうギリスは読んでいるのだ。
もっともいくら資金を提供されたとしても軍勢を整えるには時間がかかる。すぐに民衆を守れるだけの体勢を作るのは難しい。だがギリスは今はそれよりも、独立を果たす方が先決。そう考えているのか。
「やってくれるわ……」
サルヴァ王子の呟きに、ルキノは気遣わしげな視線を向けたが、それに王子が口を開く事はなかった。フィン・ディアスに続きエティエ・ギリス。自身に匹敵する能力を持つ者に、対する手立てを打つ事の難しさに頭を悩ませていたのだ。
王子の思案は長く続き、窓の外を夕日が赤く染めても終る事が無かった。




