第336:帰路
アギデスク平原での決戦に敗北した皇国軍は、散り散りなりながらもデル・レイ王国を目指した。元々60万の大軍である。いくら敗走時の被害が多いとはいえ、集結する兵はランリエル全軍に匹敵する数になっても不思議ではない。
しかし、サルヴァ王子はそれをさせなかった。皇国軍が敗走した瞬間、かねてより温存しておいた3万の騎兵を自ら指揮し、戦場を迂回し皇国軍の頭を抑えたのだ。敗走する皇国軍に被害を与えるよりも、デル・レイで再集結するのを防ぐのを優先した。しかし、いくら騎兵とはいえ、後ろから追いかけたサルヴァ王子が敗走する皇国軍の先頭を抑えられるものなのか。
今回の戦いでサルヴァ王子は奇策を用いなかった。奇策を用いたとすれば、それは戦後だった。正確には戦後を想定したものだった。常識的に考えれば、負けて当然の兵力差の中、勝利するのを前提で準備を進めていたのである。ある意味、これ以上の奇策はない。
2倍の敵を正面から迎え撃つ。という数的劣勢の中、サルヴァ王子は更に1万の兵を戦場から離脱させていた。特に信用できる者を選別し指揮官とし、迂回路を整備させていたのだ。でこぼこの道を平に慣らし、小石を拾い、林を切り開いていた。奇策を警戒する皇国軍の索敵範囲の外で、密かに行われた。
皇国軍は必死に敗走するとはいえ、甲冑を身に着けたまま走り続けることなど出来ない。戦場からある程度離れれば、逃げ切れたと考え、やれやれと、そこからは歩き出す。その間に整備された迂回路を騎兵で駆け抜けた。頭を抑えられた皇国軍は、デル・レイに向かうのを諦めてアルデシアに進路を取ったのである。
サルヴァ王子は、皇国軍の敗残兵がアルデシアに向かったのを確認すると、ランリエル騎兵の退路遮断前に通過してデル・レイに撤退している皇国兵を改めて追撃した。とはいえ、皇国軍がアルデシアに向かわせるためにはある程度の時間、そこに留まる必要があった。結局、改めての追撃では大きな戦果は得られなかった。
その後、後続のランリエル兵と合流し、合計10万ほどになったランリエル兵は改めてデル・レイ王都に向かった。更にこの後、ベルヴァースとコスティラの兵も合流する予定である。
そして、ランリエル軍が迫るデル・レイ王国王都バリュースでは、ランリエルとの決戦に敗北したアルベルドが敗残兵を率いて来るとの連絡を受け、大騒ぎになっていた。前回の敗北があるとはいえ、それは油断もあった。今回は負けるはずがないと考えていたデル・レイ国民は思わぬ敗北に驚愕したのだ。
「まさかアルベルド陛下が敗北するとは」
「皇国軍はランリエルを遥かに超える大軍ではなかったのか!?」
そしてついには、
「ランリエル兵が来る前に逃げ出した方が良いのでは」
と騒ぎ始める者まで居た。
皇国軍の敗北はフィデリアにも伝えられた。最初、それを聞いたフィデリアは口元を隠した後、目に涙を浮かべると、ついにはその場に崩れ落ち嗚咽を漏らしたという。
人々は
「フィデリア様は、亡くなった皇国兵を痛み涙を流された」
「そこまでお嘆きになるとは、なんと心優しいお方か」
と口々に話したが、それは確かに半分は当たっていたが、半分は外れていた。
その時、泣き崩れたフィデリアは、皇国軍の敗北を伝えてきた者を下がらせた。噂話はこの者から広まったのだが、彼が退出してから、最近ではすっかり彼女の腹心の立場となっているリンブルクの将軍ラングハインがフィデリアに声をかけた。
ラングハインは、かつてリンブルク兵がフィデリアに降った時に交渉に当たったリンブルクの先任の将軍でリンブルク軍のまとめ役である人物だ。
「フィデリア様。確かに皇国兵に被害が出たのは心中お察ししますが、これでアルベルドの威信が失墜したのも事実です。今こそ、兼ねてからの計画を実行に移す絶好の機会なのでは」
そう言ってフィデリアを慰めたが、彼女は小さく首を振った。
「はい。確かにその通りです。私もあの男が敗北したと聞き、それを喜びました。ですが、それでも多くの方が亡くなったのも事実です。それを喜んでしまうなど、私の心はこんなにも荒んでしまったのかと、情けなく……」
報告を聞いたフィデリアが口元を隠したのは、思わず浮かんだ笑みを隠すためだった。そして、多くの人間が死んだにも拘わらず笑みを浮かべてしまったことに涙を流したのである。
彼女の告白を聞いたラングハインは、彼女の肩を抱いて慰めた。
「それはフィデリア様の所為ではありません。貴女をそこまで追い詰めたアルベルドの罪なのです」
本来、彼女は人を殺そうとするような人間ではない。しかし、復讐せずには居られないほど、彼女を追い詰めたのはアルベルドだ。事実、アルベルドはフィデリアを殺していた。彼女の精神を殺していたのだ。
フィデリアは、夫以外の男に身体を許すくらいなら自ら命を絶つほど清廉な女性だ。その彼女が、アルベルドに犯されてもユーリの為に死ぬことすら出来なかった。故に、男と身体を重ねるなど、軽く食事を一緒に取る程度と倫理観を殺した。そうしなければ狂っていただろ。いや、すでに狂っているのか。彼女の身体を通り過ぎた男は、延べ人数ならば5桁を超えている。1年にも満たぬ間にだ。
嘆き悲しむフィデリアをどう慰めれば良いか分からぬラングハインは、話題を他に変えることにした。実際、重要なことだ。
「と、兎に角、あの男の権威が失墜したのは良いですが、よもや圧倒的な戦力の皇国軍が負けるとは思いもよりませんでした。予定とは違いますが、計画通りにことを進ませますか?」
彼らの計画では、皇国軍が勝利して帰国凱旋する時にデル・レイを通過するように誘導してアルベルドをデル・レイ王宮に誘い込む。というものだった。その場合、いつデル・レイに来るか予測できるので、準備もしやすかった。それがまさか敗戦して急遽、デル・レイにやってくるのは予定外だ。
そして、実際、その話をされればフィデリアも嘆いてばかりは居られない。復讐に向けて動かなければならないが、彼女だけでは判断できないこともある。
「今回の敗戦で、あの男の身辺の警護が強まったりはしますか?」
「はい。おそらくは。彼に権力が集中するのを快く思っていない者も多いはず。今回の敗戦で、その者達の勢力も強まりましょう。暗殺を目論む者が出る可能性もあります。身辺の警護どころか、外出すら慎重になるでしょう」
暗殺のような手段で権力を得ても、その後、捜査されて追及されては意味がない。そして、新たに権力を握った者と対決してまで追及するかは、殺された者がどれほど権力を持っていて、どれほど愛されていたかによる。今回の敗戦でアルベルドの権威は失墜し、非難する者も多くなる。今なら、暗殺して権力を握れると考える者が出ても不思議ではないのだ。
「そうですか……」
意気消沈するフィデリアだったが、その落胆した声色に将官が慌てたように補足する。
「ですが、それも皇都の戻ってからの話でしょう。このデル・レイをあの男は自分の本拠地と考えているはず。大臣の多くも彼が任命した者がほとんど。そもそもデル・レイに彼を暗殺して権力を握れる者などおりませんからな」
確かに、デル・レイの大臣や重臣、将軍の誰かがアルベルドを暗殺したとして、皇国の副帝になり替わられる訳はない。
「それなら、やはり、このデル・レイで計画を実行すべきなのですね」
「皇都に戻られては、次の機会がいつになるか分かりませんので……。そういう意味ではその通りです」
皇都に戻れば警護や警戒心が強くなる。というのは、情報として与えただけで、だからデル・レイで実行すべき。と言ったわけではなかったので、フィデリアの判断には少し戸惑った将官だったが、結果的には、そういう意味になるかと頷いた。
「それでは、このまま実行するとして、計画を修正する必要があります。勝利して凱旋するなら兵の大半は王都外において、王都に入るのは護衛程度と考えておりましたが、ランリエルの追撃を考えれば全軍を率いての籠城となりましょう。アルベルド個人の警護という意味では皇国よりも手薄でしょうが、倒した後を考えれば、こちらも相応の被害を覚悟しなければなりません」
経済の発展していない時代には、王都と言えど人口はそう多くはなく、そこに多くの兵を入れたりはしない。籠城でもなければ、万単位の兵は城外に留めるものだ。
「……貴方がたには、申し訳ありません」
「いえ。私も不必要なことを言い、申し訳ありません。被害は考えるべきではありませんでしたな」
かつては1万を数えたリンブルク兵も、ランリエルとの戦いに前線に立たされ続け、生き残ったのは2千のみ。その2千だけでも生き延びさせようと、フィデリアは彼らの待遇改善のため、何人の男に抱かれたか。フィデリア自身も覚えていない。
フィデリアによって助けられた彼らは、彼女の為に命を捨てる覚悟だ。アルベルドを倒した後、彼らリンブルク兵の運命がどうなるか。彼らはフィデリアと何度も話し合い、結論づけた。一蓮托生だ。フィデリアも、今更それを蒸し返し、リンブルク兵の命には変えられないと計画を中止すると口にしない。
「ですが、ただ殺すだけでは、済ましません」
「はい」
実行者が、死ぬ気でかかればかなりの社会的地位の差がある相手でも、殺すのは難しくはない。そして、社会的地位がほぼ同じで、更に既知ならば確実に殺せる。このデル・レイで女神フィデリアより地位が上の者など居る訳もなく、彼女が命を捨てて殺しにかかれば、皇国の副帝すら確実に殺せる。ただ、殺すならばだ。猛毒の針を仕込んだ指輪をつけて、アルベルドに触れるくらいは造作もない。
しかし、それで済ます気なら、とっくの昔にやっている。死ぬだけで済むと思うな。
「それでは、王宮が皇国兵で埋まろうと計画通りに」
将官は、そう言って決意の瞳をフィデリアに向けた後一頼した。
「ですが、出来る限りこちらの味方になりそうな者だけ王宮に入れ、敵に回りそうな者は王宮に入れないようにいたしましょう」
戦争の多いこの大陸では、王都事態を高い城壁で囲んでいる。そして、その中に更に王宮がある。まさに城中の城である。その王宮に限ってならば、味方の優位を保てるかも知れない。
「はい。よろしくお願いします」
フィデリアが、自分を殺す決意をしているなど、露ほども気づかぬアルベルドは、すでにデル・レイ王国内に入っていた。追撃するランリエル兵は、敗走する皇国兵をアルデシアに向かわせるため退路を遮断する必要があり、一時その場に留まっていたこともあって、アルベルドら皇国軍首脳部には、もはや追いつけぬほどの距離が開いている。アルベルド達はデル・レイ王都に入る前に、身だしなみを整える余裕すらあった。
それは、誇りまみれの姿を見せたくないという見栄だけの問題ではなく、まだまだ余裕があると見せる演出上の必要性があったのだ。身だしなみを整え、一旦、現在の状況を整理することになった。
「思いの外、兵が集まりませぬな」
「後から追い着いて来た兵が言うには、突如現れたランリエル騎兵が我が軍の退路を断ったとのことでした。その者は何とかランリエル騎兵の包囲を潜り抜けたようなのですが……」
「ランリエル騎兵だと? いったい、どこから現れたのだ」
「確かに騎兵は足が速いであろうが、道中には我が軍の兵も多数居よう。思うようには進めまい」
頭を捻る皇国軍首脳部だが、戦闘中から追撃経路を整備していたから迂回しても頭を抑えられた。など分かるはずもない。とはいえ、彼らもまったくの無能ではない。建設的ではない話で時間を無駄にすることはなかった。
「理由はともかく、ランリエル騎兵が現れて、我が軍の退路を断ったのは事実と認めるしかない。問題は、どれほどの兵を集められるかだ」
「どれほどの兵が集まるかは、物見を出せば分かるだろう」
その後、情報を集めてデル・レイに向かう皇国兵は5万程度と推定できた。
「5万か……。ランリエル30万を相手にしても王都で防衛するなら、持ち堪える事は出来そうだな」
「うむ。皇都に援軍を要請すれば、その間にこちらに到着しよう。そうなればランリエルを破るのも訳もない」
実際、サルヴァ王子は全軍で追撃しているのではなく、多くの兵をアルデシアに向かわせており、デル・レイに向かっているのはランリエル兵の10万とベルヴァースとコスティラ兵のみだ。しかし、それを知りようのない彼らからすれば、全軍で追いかけてくると考えるのは仕方がない。
軍首脳部の将軍達の会話を聞いていたアルベルドだが、彼の情報では、すでにランリエルの戦闘継続能力は限界の為、援軍を要請するまでもなく敵は撤退するはずだ。ランリエルにしてみれば、追撃して王都を包囲してみて、こちらが降伏でもしてくれれば儲けもの。程度で追撃して来るのだろう。とアルベルドは判断していた。
勿論、サルヴァ王子は戦闘継続能力を伸ばすために兵力を減らして追撃しているので、アルベルドの判断は間違っている。尤も、皇国兵5万で籠る王都に、半数程度に兵を減らして包囲するランリエル軍。攻略するのに難しいのに変わりはないが。
まあいい。とにかく、今回の戦いに勝利した。後は、ランリエルを滅ぼすだけだ。
そう考えながら、アルベルドは軍首脳部の者達の会話を聞いていた。まったく、どうしてこうも無能な者達ばかりなのだろうか。アルベルドにとっては誠に馬鹿々々しいことに、誰もアルベルドの勝利に気づいてくれないので、まるで自分が負けたかのように思われているのだ。
勿論、短期的には負けた。だが、戦いとは最終的に勝利出来るかが問題であり、今回の戦いで経済力を含めた国力の総動員をかけて決戦にかけたランリエルは、ここで皇国軍を倒しきれなかった時点で、将来的な敗北が確定しているのである。今後、同じような動員が出来ない以上、ランリエルは皇国軍の侵攻に受け身になり続けるしかなく、そもそも防衛の為の動員にも金がかかる。
現在、ランリエルの味方になっている国々が皇国に攻められても、大規模な援軍が期待できないなら、それらの国々が離反していくのは目に見えている。そうなれば元々のランリエル本国の国力など皇国に比べれば塵芥だ。
ただ、アルベルドにとっても、簡単に己の勝利を皆に説明出来ない理由もある。それを分かっているなら、ランリエルが挑んできた決戦に乗る必要がなく、受け流してランリエルの国力が消耗するのを待てば良かったのだ。どうして決戦に応じて、その挙句に敗走し、多くの犠牲を出したのか。という批判を受けかねない。
皇国の威信を守る為に決戦を受けた。という理由を付けられなくもないが、義兄ナサリオが一度敗北している。二度目の戦いなら慎重になるべきという意見は当然だ。ランリエルの国力が限界だったとは知らぬ態で済まし、結果的にランリエルに勝利した。ということにするしかない。
難しいのは、あまり余裕があるように見せては行けないのと同時に、あまり悲惨な姿を見せる訳にも行かないことだ。人は分かりやすいものを支持する。偉そうにしている者を偉いと思うのだ。
とりあえず、当面は問題ないと結論付けたアルベルドは、軍首脳部の者達が出した結論を訂正する必要も感じず、デル・レイ王都へと向かった。そうして到着した軍勢は騎兵を中心とした2万ほど。軍勢の隊列を整え、整然と王都に入った。更に続々と到着して最終的には想定通りの5万になる予定だ。
兵は一旦、王都外に留め、警護の騎兵のみ連れて王宮に向かう。王宮の門の前で出迎えを受けた。
「アルベルド陛下。お待ちしておりました。部屋をご用意しておりますので、ゆっくりをお休み下さい」
アルベルドを敗者として迎える訳にも行かないが、ましてや凱旋として迎える訳にも行かない。出迎えた者も、どう声を掛ければ良いか分からず、休息を取って欲しいとしか言葉がない。ある意味、後の事はアルベルドに丸投げという事だ。元デル・レイ王のアルベルドだが、国王用の部屋の主は現在ユーリだ。改めて別に部屋を用意した。
「数日もすれば、ランリエル兵もやって来よう。王都の防衛計画を、我が軍の者達と立てろ。それまで兵には十分に休息を与えるように。ただし、警戒は怠るな。一部の兵だけで急襲して来る可能性もあるからな」
「はっ!」
アルベルドは、そう伝えると改めて馬を進めて、王宮に入ったのだった。




