第329:開戦前夜
セルミア王国北西に広がるアギデスク平原。
季節はすでに冬となり乾いた冷たい風が吹き荒れていた。
セルミア王国自体が歴史の浅い国であり、わずか数年前には存在しなかった。にもかかわらず後年、戦場としてこれほど有名な地は他にないと言われるほどに、その名を歴史に刻まれることになった。
ランリエル。グラノダロス。両皇国の軍勢がアギデスク平原を埋め尽くした。甲冑で埋め尽くされた平原の只中に緑の川が流れている。いや、その緑の川こそが本来の大地であり、両軍を分け隔てる最後の空間。ここを渡れば死闘が始まるのだ。
そのまさに三途の川と呼ぶべき川幅は、およそ1000サイト(約1.6キロ)。一見、遠くも感じるが、騎兵が飛び出せば瞬く間に達する。軍事的には手を伸ばせば届く距離。
兵力はランリエル30万足らずなのに対し、グラノダロス皇国は60万を超える。2倍を超える兵力差。軍事の専門家を100人集めれば、その中に’目立ちたがり屋’が混じっていなければ、100人中100人がグラノダロス皇国の勝利を予想するだろう。
それが、それぞれの軍を率いるサルヴァ・アルディナとアルベルド・エルナデスの戦歴を熟知していたとしてもだ。
前回のランリエルと皇国との戦いでも、総戦力は2倍差だった。だが、サルヴァ王子の奇策により、決戦場での兵力はランリエルが上回りサルヴァ王子が勝利した。戦いの天才サルヴァ・アルディナといえど、戦いとは数(戦力)が多い方が勝つ。という戦場の常識を覆しているわけではない。
しかも、この戦場を設定したのはグラノダロス皇国側である。
この対峙に先立つこと5日前、皇国軍が先に到着し、これより5000サイト(約8キロ)ほど西方にて陣を張り、ランリエル勢を待ち構えたのだ。数の差を行かせる地形を戦場に選んだのである。ランリエル側の先陣が到着したのは、それより2日後。アギデスク平原より東方1ケイト(約16キロ)にて陣を張った。そのまま後続の到着を待つ。
この間、皇国軍の内部ではランリエル勢の先陣を叩いて出鼻を挫こうと主張する将軍も居たが、皇国軍を率いるアルベルド副帝は、その意見を一蹴した。
「確かに、先陣を叩かれれば彼らの士気は下がるだろう。戦力的に見てもランリエルの先陣を叩くのは容易い。だが、ランリエルの後続の軍勢は馬首を返して引き返す。そうなれば、奴らは今まで通り引き篭もって出てきはせぬ。せっかく、奴らが穴から這い出てきたのだ。ここで一網打尽にする。私も、この戦いに飽いていたのでな。そろそろ、けりをつけたいのだ」
アルベルドの言葉に多くの将軍が頷き、何がおかしいのか大笑いする者まで居た。意見した将軍は、近視眼的な進言をしてしまったと赤面して引き下がったのである。
尤も、軍事の専門家、言い換えれば軍事だけを知っている将軍達は気付いていないが、経済的にランリエルの戦争継続能力は限界に達しており、例え出鼻を挫かれ士気が下がったとしても、ランリエルは決戦するしかない事をアルベルドは知っていた。
その後、ランリエルの後続も到着し全軍が集結した。更にその2日後、ランリエル陣営を監視していた見張りから報告があった。
「敵陣内で将兵が慌しく動き回り、荷駄へ物資の積み込みも行われている模様」
見張りは主観を交えず事実だけを報告した。それから、その’意味’を分析するのは参謀の役目だ。参謀達は、その動きを出陣の前触れであると順当に予測した。だが、出陣してどちらの方向。前進か、後退か。を判断するには続報が必要である。
だが、前進、後退のどちらであっても、こちらも出陣の準備をすべき。前進してくるならば迎え撃たなければならず、後退するならば追撃すべきである。
皇国側も出陣すべく軍勢を整えていると見張りから、その続報があった。
「ランリエル陣営の後方まで物見を出した結果、敵は後方にはいまだ兵を派遣しておりませぬ」
参謀達は、早速、その情報の分析を開始した。そして、今回も常識的な判断が行われた。
「後退。つまり退却するならば、殿が立て篭もる陣地を退却する経路に点在するように建設するはず。そのための兵を派遣していないなら、前進してくるに違いない」
戦いとは追撃時に最も死者が出る。その被害を最小限に食い止める為に、いわば捨て駒となるのが殿であるが、勿論、食い止めるにも効率を良くするのは当然だし、僅かでも生存の可能性が無ければ、殿の兵も逃げ出してしまう。退路に陣地がいくつもあれば、そこに立て篭もって敵の追撃を支え、支えきれなくなれば後退して、次の陣地に立て篭もる。ということが可能だ。
そうすれば有利に戦えるし時間も稼げる。本隊を取り逃がしたとなれば、敵もそれ以上の追撃は無駄と引き上げることも予想され命が助かる可能性も高まる。
この時、後方に陣地を作らずに退却と思わせないでおいて、実は退却する。という策は常識的にはしない。それが成功して抑えられる損害は全軍の数十分の一の殿分だけであり、失敗すれば、その数十倍の被害を出しかねない。リスク管理という面で見れば、割に合わない賭けだからである。
「奴らも覚悟を決めたか」
報告を受けたアルベルドは、そう呟くと、従者に命じて甲冑を身につけ始めた。とはいえ、60万の大軍である。出陣の準備にも時間がかかる。甲冑とは従者に手伝わせても身に着けるのに時間がかかるものだが、身に着け終ってからアルベルドは半刻(1時間)ほど待たされた。
整然と居並ぶ甲冑姿の騎士達。本陣直属の騎士団だけで他の部隊は、まだ慌しく準備を行っているが、60万を並べさせる時間的余裕が無いため、それは仕方が無い。整列している騎士団に出陣の演説を行うべく、アルベルドが姿を現した。見事な細工を施された銀の甲冑を身に纏い神々しいほどだ。
尤も、その神々しさの何割かの理由は、銀の甲冑に反射する太陽の光のおかげだ。天気は晴れているが、時折、雲も流れている。その雲の切れ間のタイミングを見計らってアルベルドの登場を演出した秘書官の功績である。
壇上に立ったアルベルドは数万の騎士を前に緊張した様子も無く、しばらくの間、無言だった。中々口を開かぬアルベルドに、騎士達が動揺しだす、その僅か前、見計らったようにアルベルドが口を開く。
「諸君。これからランリエルとの決戦が行われる。敵は我が軍の半数だ。だが、夢、侮ってはならない。その軍を率いるサルヴァ・アルディナは、古今、隠れなき名将。それに対する私は、軍事において、彼の万分の一の名声もない」
思わぬ敵将への賞賛と己への卑下に騎士達はどよめいた。
「だが、敵よりも我が軍が勝っているものがある」
それは、数だ。とは言わず、一旦、言葉を切った。一呼吸を置いて口の動きを再開させる。
「それは、諸君らである。今まで数百年に渡り、この大陸では大きな戦は無かった。なぜか。我が皇国が巨大な秩序として君臨していたからである。無論、皇国に属しない者達は、平等ではないと不満もあるだろう。だが、巨大な存在があってこその秩序である。皇祖エドゥアルド陛下がグラノダロス皇国を起こされる前は、この大陸は乱れ各地で戦争が幾度も繰り返された。人口はそれまでの10分の1になったとすら言われている。しかし、今、この大陸の人口は、その時の数十倍にならんとしている。なぜか! 我が皇国が秩序として存在し、争いが起こなかったからである。秩序には巨大な力が必要だ。この大陸の平和のため、グラノダロス皇国による秩序を守る諸君らには正義がある! 諸君らは正義の士なのだ」
騎士達が歓声を上げた。アルベルドの言う通り、この大陸は数百年にわたり平和だった。その為、実戦経験のある兵士は少ない。先の遠征からも数年の歳月を経ており、前回、参陣した者も負傷や年齢による引退などでその数は多くはない。
実践経験のない者達に臆する事無く戦わせるには、精神的麻薬が必要だ。人は、自分が正義と信じている時ほど残忍になれるともいう。今まで人を殺したことの無い彼らだが、アルベルドの演説により、ランリエル兵の首を落とすのに僅かながらも躊躇しないであろう。
アルベルドが片手をあげ、大歓声を制した。静まるのを待って、再度、口を開く。
「だが、その諸君らが守る秩序を乱す者がいる。名将サルヴァ・アルディナである。諸君達も軍人である。軍人として名将たらんとす。そう精進している者も多いだろう。私も、諸君達に名将になって欲しいと願う。だが、王者が名将であってはならない。名将とは、王者の元で、秩序を守り、秩序を乱す敵を討つ。そういう存在でなければならない。それが正しい存在だ。勿論、それを制する王が、皇帝が理性を持ち、名将を使いこなさなくてはならない。だが、己が名将でないからこそ冷静に判断できるのだ。しかし、王が名将なのだとすれば、だれが、それを制するのか。理性を保てるのか。才を持つ者は、必ず、その才を発揮する舞台を欲する。軍事の才を持つ者を制するものがないならば、暴走するしかない。事実、サルヴァ・アルディナは暴走した。それゆえに、彼は悪である」
正義の士。そう自らを奮い立たせていた騎士達は「悪」という言葉に目の色を変えた。
「サルヴァ・アルディナが名将であるから悪なのではない。王者だから悪なのではない。名将であり王者であるから悪なのだ。彼の存在が、どれほどの死者を生んだか。サルヴァ・アルディナが直接かかわった戦いだけではない。彼が率いるランリエルの台頭による歪が無ければ、起こらなかった戦いも多い。そして、死者は戦場だけにあるのではない。戦いに巻き込まれた民衆、戦いによって土地を失い餓死したものいる。彼が、サルヴァ・アルディナが存在するだけで百万の命が失われたのだ」
言葉を切ったアルベルドは数万の騎士達を見渡した。全ての者が、ある言葉を待ちわびている。アルベルドは、その期待に応えた。
「諸君らは正義の士である。そのサルヴァ・アルディナと戦う諸君らは正義の士である。正義の士である諸君らが悪に敗れるなど神が許さぬであろう!」
強調される正義の士。という言葉。正義の自分が悪を打つ。というその’設定’に騎士達は酔いしれた。
この演説を聞けば、サルヴァ王子はぐうの音も出ず。ディアスは、確かにと頷き。ギリスは、貴方がリンブルクを攻めたのはサルヴァ陛下と関係ないですよね? と冷静に批評したであろう。
アルベルドの演説の後、全軍の準備が整った皇国軍は決戦場と想定されるアギデスク平原を進んだ。アルベルドの演説を聞いたのは全軍の一部だが、軍隊の雰囲気とは全軍に感染する。アルベルドの演説を聞いていない者まで顔つきが違っていた。
挑む立場のランリエル陣営でも、サルヴァ王子による演説は行われていた。サルヴァ王子の甲冑もアルベルドと同じく銀の装飾が施されたものだが、勿論、意図的に示し合わせたものではない。実用性を損なわない範囲での装飾など限られており、大別すれば金か銀しかなく、両者とも金ぴかの甲冑。というものに美意識を感じなかっただけである。ただ、サルヴァ王子の副官であるテッサーラ王ウィルケスは、王子の登場を太陽光線の強い晴れ間のタイミングに合わせえるという演出を行わなかった。思いつかなかったのではなく、その手の演出を馬鹿々々しいと感じる性分なのだ。
尤も、アルベルドの演出家よりも、彼の方が主君を神格化しているともいえる。サルヴァ・アルディナには他者による演出など不要であると。
だが、演出以外にも、アルベルドとサルヴァ王子の演説には1つの違いがあった。状況的に仕方が無かったとはいえ、アルベルドが全軍の一部だけに演説を行ったのとは違い、主動的立場を取れるランリエル軍には余裕があり、サルヴァ王子は全軍、30万を前にして演説を行ったのである。当然、隅々まで王子の声は届かない。それでも、この場に居る。というだけで兵士達の心構えは段違いだ。
「今まで、多くの戦いを経て、この地に立つ。今まで、多くの血を流し、この地に立つ。多くの命を費やし、この地に立つのだ。そもそも、私が戦いを起こさなければ、起こらなかった戦い、流れなかった血、失われなかった命。その責は全て私にある」
将兵の士気を高めるための演説で、自己批判からの始り。王子に絶大な信頼をおくウィルケスすら、大丈夫なのかと背中に冷たいものを感じだ。
「だが、だからこそ勝たねばならぬ。ここで私が負ければ、これまで私を信じ己が命を捧げてくれた者達が無駄死にとなる。故に、必ず勝つ。私が勝たせる。グラノダロス皇国軍を率いるアルベルド・エルナデスは、確かに優れた政治家だ。だが、軍人ではない。私は彼と刃を交えたことがある。その結果、どちらが勝ったか。卿らも知るとおり私の勝利だ。それどころか、彼が率いた軍勢が勝ったためしがあるか!」
兵士達の中には、アルベルドはリンブルク攻略に成功したのではなかったか? と疑問に思った者も多数いたが、王子は彼らの思考を予測していた。
「戦いとは最終的な結果が全てであり、途中の微々たる勝敗に何の意味があろうか。彼は寸土といえど領地を得ては居ない」
確かに、現在、リンブルク王国は全土を取り戻している。その意味ではアルベルドのリンブルク攻略は成功していない。
「先の、皇国軍による侵攻も、当初、皇国軍が優勢であった。しかし、最後に勝ったのは私だ。敗北と見えた戦いですら、我が策略の内であり、決戦への布石でしかなかった」
兵士達が、なるほどと頷く。彼らの甲冑が擦れる小さな音は、30万という数により大地に響いた。その中で、自分の主君はこれほど自画自賛する人であったかとウィルケスは首を傾げた。
「これから我らを待ち受ける皇国軍は、我が方の2倍である」
「それを言ってしまうか」
ウィルケスは思わず呟いた。
兵士の士気にかかわると、末端の兵士達には敵軍の正確な数が伝えられないことも多い。特に今回のように2倍もの戦力差があれば、それを聞いただけで逃亡する兵士が出てもおかしくはない。この大陸の軍勢が基本的に全員が職業軍人だとしてもだ。
事実、兵士達の表情にも動揺が浮かんでいる。
「だが、前回の戦いでも皇国軍は我が方の2倍であった。それでも、私が勝利した」
その言葉に兵士達は確かにと再度頷き、動揺は収まる。ウィルケスや指揮官級の者ならば、前回は全体の数がそうでも決戦場での数ならばランリエルの方が数が多かったからであり、今回のように決戦場の戦力が2倍なのとは話が違うと分かっているが、末端の兵士には、その区別がつかない。
「皇国軍との戦いはすでに1年に及んでいる。その間、私が何もしていないと思うか。何も手を打っていないと思うか。私は、勝利するための全ての手を打った。後は、目の前の勝利を掴むだけである」
そう言い放つと、サルヴァ王子は腰の剣を抜き放った。日の光を受け光り輝く。
「この戦いに、私の全てをかける。故に卿らは勝って当たり前と思い戦えば良いのだ」
サルヴァ王子は剣を兵士達に向けた。不適な笑みを浮かべる。勝って当たり前。その言葉に兵士達がどよめいた。次に歓声が上がる。遠くて王子の声が聞こえなかった者達は、周りで歓声を上げている者に、王子は何を言ったのか? と問うたが、歓声を上げている者自身も王子が何を言ったか聞こえておらず、周囲の雰囲気につられて声を上げているだけだった。
王子の声の届かぬ兵士まで歓声を上げる中、王子が剣を天にかざすと、全ての将兵も剣を抜きそれに倣う。全兵士の顔に勝利への確信が浮かんでいる。
兵士達の大歓声に見送られ天幕に戻ったサルヴァ王子を将軍達が待ち構えていた。すでに想定した戦場での各部隊の布陣場所などは決められており、作戦面での協議も終っている。この場は、決戦を前に最後の顔合わせ程度のものだ。
だが、王子の演説を聞き、兵士達と同じように興奮して顔を赤くしている者が居る一方、何やら怪訝な顔をしている者も少なくない。
その中の1人が、おずおずとサルヴァ王子に声をかけた。
「陛下。見事な演説でございました。しかし、2倍の敵に必ず勝てる手をすでに打っているとは。感服しましたが、恐れながらその作戦を我らもまだお聞きしておりませぬ。戦を前にご説明いただけますでしょうか」
しかし、その問いにサルヴァ・アルディナは笑みを浮かべるだけで答えることはなかった。




