第325:女神
ランリエル皇帝はゴルシュタット、リンブルク両王国の諸問題を解決し、グラノダロス皇国との決戦に向け、兵力を集結しつつあった。
兵力の集結し編成が完了すれば決戦。だが、グラノダロス皇国副帝アルベルドは、ランリエル内部にまで浸透した信奉者による情報網により、その時期を当のランリエル陣営よりも正確に把握していた。
身体に命令を出すのは頭脳であるが、実際に身体に命令と栄養を送るのは神経と血管。ランリエル陣営の補給物資の補充地に信奉者を抱え、その流れを把握するアルベルドはランリエルの神経と血管を抑えているに等しい。頭脳以上に身体の動きを知り尽くしていた。
「ランリエル陣営諸国の軍勢の集結、および編成完了は3ヵ月後」
その情報を得ていたが、更に重要な情報も得ていた。
「我が軍の後方に迂回するような軍も、我が軍を奇襲するような軍も、その気配なし」
この大陸では基本的に兵士は全て職業軍人。戦術的な少数での奇襲では狼狽せず弾き返す。ならば大兵力での奇襲では敵に発見されやすく、やはり奇襲は成立しない。そして戦略的な奇襲。つまり、一軍の迂回行動による後方への展開だが、それには補給が必要だ。アルベルドは信奉者からの報告により、その可能性が無いことも掴んでいる。無論、油断はしない。
「だが、決戦にはまだ時間がある。それまでに状況が変わる事も十分にあり得る。監視は怠るな」
執務室で報告を受けたアルベルドは、腹心の部下コルネートに改めて命じた。アルベルドがデル=レイ王時代に抜擢された人物で、今ではアルベルドの信奉者を統括する役目を担っていた。正式な役職は外交官のままだが、それは信奉者組織自体が非公式なのだから仕方が無い。それに、外交官という身分の方が他国に出向くのに都合がよく、大陸全土に広がる信奉者組織を密かに統括するのに便利だ。
組織にあって段階を踏んで出生した者は組織に忠誠を誓うが、ある個人に抜擢された者は、その抜擢してくれた個人に忠誠を誓うものだ。アルベルドも、それを見越して抜擢した者も多い。
当然、コルネートも自分を抜擢してくれたアルベルド個人に忠誠を誓っていたし、アルベルドも、それを計算済みだ。故に、このような裏の仕事を任せているのだ。しかし、最近では多少、煩わしい事もある。
「そういえば、最近、フィデリアと頻繁に会っているようだな? また、産まれてくる子の為に、俺に、自分を正妻に推すようにと頼まれたか?」
煩わしさから思わず先制攻撃を仕掛けた。こう言われてはコルネートの口も塞がれる。しかし、円滑な人間関係を考えれば、このような高圧的な態度は悪手である。人を従わせるには、時に高圧的な態度が必要な事もあるが、それは相手が小物で有ればこそ。高圧的な態度に屈せぬ者ならば表面上は従うように見せても、心では反発を招く。
真に自身が優れているならば、日々、その優れた姿を見せているはずであり、優れた部下ほどその姿に従う。高圧的な態度など不要だ。
アルベルドにしては、らしからぬ対応だが、それだけにこの手の話に辟易していた。コルネートからだけではなく、部下の何割かが同じように訴えるのだから精神的に負担にもなる。
いや、このコルネートのように先制攻撃で黙るならば、まだ可愛いほうだ。中にはそれでも屈せず
「ですが、女神とも称されるフィデリア様を陛下の正妻になされるは、陛下の御為でもあります」
と引き下がらない者も多い。
その点については、アルベルドも、やり過ぎたか。と思わぬでもない。
現在、フィデリアはデル=レイ王になった息子ユーリの後見人という立場だ。アルベルドの内縁の妻と目されている彼女がデル=レイで大きな影響力を持つのはアルベルドの支配が強まるという事でもある。
だが、フィデリアは皇帝殺しの罪で処刑されたナサリオの妻だ。強引にその結婚の事実自体を無くしたものの人の記憶までは消えるものではない。それを打ち消すほどの名声が必要だ。
女神フィデリア。その名声を更に高めた。勿論、彼女自身の日々の振る舞いが人々の賞賛を得ているのも事実だが、それを虚構にならない程度に拡大解釈して話を広めているのはアルベルドの手の者達だ。その結果、デル=レイにはフィデリアの為ならば、火の中、水の中という者も多い。
戦争とは職業軍人が行うというのが、この大陸の常識だ。その理由は幾つかある。その一つは国土の広さに比べて人口が少ないことだろう。他国と戦争をするにも行軍距離は長くなり補給の負担も大きい。多少訓練をつんだ程度の徴集兵を引き連れた挙句、補給の負担が増大し、敵に持久戦を取られれば撤退するしかない。などとなれば本末転倒だ。民を招集するにしても補給支援に限定させるのが効率的だ。
だが、フィデリアの信奉者達は、その職業軍人に対し、農具を武器に戦うだろう。そしてフィデリアの信奉者は民衆だけとは限らない。
現在、皇国の中枢を担う官僚はアルベルドの息のかかった者が占めている。その中には副帝となってから抜擢した者も多いが、コルネートのようにデル=レイ王時代に育てた子飼いを呼び寄せた者も少なくないのだ。その彼らのデル=レイに住む親類縁者からフィデリアの評判を聞き、彼ら自身もフィデリアへの傾倒を強くしていた。
いつの間にか皇国内部にアルベルドの信奉者とフィデリアの信奉者の2大派閥が出来ていた。特にデル=レイ出身者ではフィデリアの信奉者の方が多いほどだ。しかし、アルベルドは、それほどこの事態を重く受け止めていない。
現在、その両者が対立するなど夢にも思わない。フィデリアの信奉者は彼女をアルベルドの正妻にと考えているが、それは敵対でない。むしろ、結びつきを強くしようという動き。心配する方が、どうかしているのだ。
その意味では、フィデリアを正妻にという進言は、実際には本当に煩わしいのだが、嬉しい悲鳴。と言えなくも無い。故にアルベルドとしても、絶対にあり得ぬ。と完全に否定する事は出来ない。それだけに嫌味の一つも言いたくなる。
アルベルドの先制攻撃によって口を開く機会を逸したコルネートは、やむを得ず、業務報告のみを行いアルベルドの執務室を後にした。王宮内の自身の執務室で職務を行い屋敷へと向かう。その馬車の中でコルネートは股間を勃起させていた。頭に浮かんでいるのは女神との痴態の記憶。
フィデリアにとって今回の懐妊は、まさに天からの授かりもの。妊娠したのを理由に正妻の座を求め、それを口実にアルベルドの腹心達と接触する口実を得た。更に、正妻になれない不幸を嘆きアルベルドの非道を訴える。
「私の事はどうでも良いのです。ですが、この子が庶子になるなど、不憫でなりません……」
そう嘆いてアルベルドの腹心にしな垂れつつ男の股間に手を伸ばす。
「この子の為ならば、私はどんな事でもします」
そう言われれば、女神が淫乱なのではなく、我が子可愛さのあまりと男達は考える。それには、あの女神が。という先入観もある。我が子の為の自己犠牲をとすら考えるのだ。そして、男達はその自己犠牲を賞賛しつつ、それに漬け込む。
清廉な女神が、我が子可愛さのあまり自分の思うがままになる。男達は、この状況に加虐的な興奮を覚えた。コルネートも例外ではなく、
「必ずやご期待にそえまする故」
と、前置きしつつフィデリアに様々な痴態を求めた。だが、主人はフィデリアである。
フィデリアにとって、コルネートは数人居る男達の1人に過ぎないが、コルネートにとって女神フィデリアは唯一無二の存在。しかも、抱けるなど夢にも思わなかった高嶺の花どころか天界の女神。
夜が明けるまで彼女を抱いた次の夜にはまた彼女を求めたくなる。だが、彼女の要求に何の手土産もなしには会えない。それがアルベルドにしつこく彼女を正妻にと進言する理由だ。だが、アルベルドは取り付く島も無い。故に彼女に会えない日が続いたが、ついには初老にさしかかろうという男が彼女との情事を夢にまでみる始末だ。
何とかして彼女を抱きたい。だが、事態は進展しない。まるで十代の青年のように抑えがきかなくなっていた。だが、表面的な平静を保つだけの理性は失っていない。
「行き先を変えてくれ」
構えて、落ち着いた声で御者に命じた。
行き先を変えた目的の屋敷に近づくと、前から来る別の馬車とすれ違った。反射的に馬車に掲げられた紋章を確認すると、とある大臣のものだった。コルネートの心が思わずざわついた。もしかすると、あの男は今から自分が向かう場所からの帰りなのだろうか。
到着したのは、フィデリアが皇都で使用する屋敷である。コルネートは思わず門前の地面に視線を向けた。地面には車輪の跡がくっきりと付いている。やはり、先ほどすれ違った馬車はこの屋敷を訪問していたのだ。
「ようこそおいで下さいました」
来訪を告げると屋敷の従者がコルネートを招き入れた。従者にしては若いどころか、あどけなさが残る少年なのに僅かに違和感を覚えた。ポーチでフィデリアが笑顔で出迎えた。訪問の要件は聞くまでも無い。こちらへと屋敷の奥に導かれた。
廊下を進むうちにコルネートは、ふとあることに気付いた。この屋敷には侍女の姿が見えない。自分を出迎えた少年従者だけではない。廊下を進み時折見かけるのも全て少年なのだ。
「そういえば、この屋敷には侍女はいらっしゃらないのですか? たしか、以前には幾人かの侍女を見かけたのですが」
「それが、お恥ずかしい話ですが、私を護るためにデル=レイから警護に来ていた若い騎士と侍女が間違いを起こすということがありまして……」
「そうですか。それは失礼いたしました」
なるほど。間違いというが、要するに若い騎士が侍女を襲ってしまったということか。それで今後、そのようなことが起こらぬように少年従者ばかりにしたのだな。警護の騎士を無くすことは出来ない。いくら厳罰にしても、間違いは起こる。間違いが起こらないようにするには、屋敷から侍女を無くしてしまえばいいわけだ。
合理的だと思ったコルネートだが、それでも、この屋敷には女が1人残っているではないか。ということには気付かなかった。
居間に通されたコルネートが長椅子に腰掛ける。心得たように他の者が姿を見せない。既にフィデリアのことで頭が一杯のコルネートには、従者達が’何を心得ている’かに気を配る余裕がない。
コルネートが座った長椅子のテーブルを挟んだ向かい側にも長椅子があるにもかかわらず、フィデリアはコルネートの横に座った。節度ある大人の女主人としては、あり得ないことだ。
「フィデリア様。先ほど、大臣のタムード殿の馬車とすれ違いました。もしかするとタムード殿も先ほどまでこちらに居らしたのですか?」
聞くべきではないと思いながらもコルネートは、その疑問をぶつけずにはいられなかった。フィデリアの眉が一瞬、ぴくりと動いたが、直ぐに笑みを浮かべてコルネートにしな垂れた。
「コルネート様。早とちりしないで下さい。確かに他の方にもお頼みしておりますが、私が本当に頼りにするのはコルネート様だけ……」
耳元で吐息と共に囁かれる。それだけでコルネートの疑問は四散した。疑問が払拭されたのではない。疑問など、どうでもよくなったのだ。それよりも女神との、これからの時間が重要なのだ。
彼女を抱くのには無償ではない。対価が必要だ。しかし、今日は、その対価を用意出来ていないのだ。傍らにある彼女の口から漏れる吐息は甘く、押し付けられた柔らかい胸が腕を包んだ。
「申し訳ありません。アルベルド陛下には何度もフィデリア様を正妻にと進言したのですが、快い返事が頂けず……」
前回の逢瀬では女神を自由にした男が、突如、床に這いつくばって許しを乞うた。許して貰い、是非とも抱かせて貰いたい。あの後、多くの女を抱いた。自分の妻は勿論、屋敷の侍女。評判の商売女まで呼び寄せた。だが、女神フィデリアに比べれば、なんと味気ないことよ。
「大丈夫です。コルネート様のご苦労は十分、存じております」
優しく声をかけ這いつくばるコルネートに跪いて声をかける。だが、手をかけ助け起こすのかと思えば、そうではない。耳元で囁きながらコルネートの背後にまわった。白い美しい手が後ろからコルネートを抱きしめる。背中に豊かな胸の柔らかさを感じる。
「ですが、やはり、この子が庶子になるのはどうしても……」
そう言いながらさらに胸を押し付けた。
「は、はい。それは重々承知を……」
彼女の歩行は女神のすり足と呼ばれている。宮廷の淑女たる者、歩く時はすり足。頭を出来るだけ上下させないのが美しいとされているが、彼女のすり足は全く頭が上下しない。足元まで隠れる衣装もあいまって滑るように廊下を進むのだ。
しかし、
「どうして、そのようなことが出来るのですか?」
そう問われた彼女は
「どうしても言われましても……」
と困惑したという。彼女にとっては出来て当たり前。人は出来て当たり前のことを説明するのは難しい。どうして呼吸が出来るのか? そう問われれば誰もが困惑するだろう。
そして、この女神にとって出来て当たり前。どうして出来ないのが不思議だ。というものが最近、更に発見された。
「フィデリア様。どうかご慈悲を」
まるで男の心が読めるかのように、フィデリアは男を翻弄する。なぜ、そんなことが出来るのか、彼女自身もわからない。ナサリオの貞淑な妻として生きてきた時には気づかなかった女神の淫婦としての才能。
「コルネート様。我が子のため、これからもご尽力いただけますか?」
「も、勿論で御座います」
女神がさらに身体を押し付ける。柔らかいものがさらに押しつぶされ背中いっぱいに広がるかのようだ。実際は、そのような事があるはずがない。だが、確かに背中全体で彼女の乳房を感じる。
「ですが、アルベルド陛下は、どうしても首を縦に振って下さらないのでしょう?」
「いえ。なんとしてでも、必ずやフィデリア様のご期待にそえるように……」
コルネートの額には脂汗が滲んでいる。すぐにでも振り返り押し倒したい。だが、待て! をされた忠実な犬のように動けないでいた。
「必ずですよ?」
「は。必ずや、神に誓いまする。ぎひっ!」
コルネートが奇声を発した。今まで優しく身体を押し付けていた女神が不意に、コルネートの太ももを抓ったのだ。
「神に誓うのですか?」
「い。いえ。申し訳ありません。フィデリア様。フィデリア様に誓いまする……」
そうだ。神など居るはずがない。神というものが本当に存在するならば、私は今、このような……。そこまで考えた彼女の思考が不意に中断した。そこから先は考えては行けないのだ。
「よく出来ました」
微笑んでコルネートの耳元で囁いた。
その後、コルネートに好きにさせてやったが、最後のご褒美はお預けだ。それは成功報酬である。
思春期の少年のようにフィデリアの胸に抱かれていたコルネートは、必ずや、ともう一度誓約し屋敷を後にした。しかし、彼はそれがアルベルドへの裏切りとは思っていない。彼女は自分を正妻にと言っているだけでアルベルドに反逆している訳でもなく、この関係も、アルベルドが彼女を正妻にしないのが原因だからだ。
全裸にガウンを羽織っただけの姿でコルネートを部屋から見送った。コルネートが廊下を進むと、どこからともなく少年従者が現れて玄関まで案内する。コルネートには、それが不自然に感じる精神的余裕はない。
フィデリアがガウンを羽織ったまま長椅子に座っていると扉から1人の少年従者が入ってきた。コルネートとの行為の後始末を顔色一つ変えずに片付けていく。床や長椅子までふき取る少年にフィデリアが気にした様子は無い。それどころか、更に部屋に入ってきた別の少年に濡れたタオルで身体を拭かせるのだ。
倫理という大陸を離れた彼女の心は大海原を漂流している。喉の渇きから海水を飲み干し、その塩辛さが益々喉を焼きつかせ渇かせる。本来ならば、夫以外の者との行為など死を持って拒む清廉さが彼女にはあった。だが、息子ユーリの為に死は選べない。故に死を選んだのは彼女の倫理。夫以外との行為など取るに足らぬもの。そう思い込むことによって精神を保っている。
それでも、ふと、本来の清廉さが顔を覗かせる。自分はなんということをしているのか。死を選べない彼女の精神はそれを覆い隠そうとする。もっと男に抱かれて、それが取るに足らないものと心に刻み込む。心の奥底では、その罪の意識が蓄積されていく。一時は覆い隠しても、ふとしたきっかけで、その罪の意識が顔を覗かせる。それを覆い隠そうと更に男に抱かれる。
部屋は、いつの間にか何人もの少年従者で溢れていた。部屋もフィデリアの身体もすっかり綺麗になっている。作業を終えた少年従者達は一列に並び、女神のお言葉を待ちわびた。
女神は、まるで久しぶりに故郷に帰ってきた我が子を迎える母のような笑顔で両手を広げる。
「さあ、皆、いらっしゃい」
その言葉に少年達が女神に殺到する。若い少年達は入れ替わり女神を求め続ける。
そんな少年達にフィデリアが微笑んだ。穢れを知らぬ女神の笑顔で。




