第321:蚊帳の外戦線
シルヴェストル公爵が紅茶を口元に運んだ。適切な温度で淹れられた紅茶は、その値段に見合った芳醇な香気を放ち公爵の鼻腔をくすぐる。
温い茶は上手くないが熱すぎる湯は茶葉から香気を飛ばす。東洋のある島国では茶を飲むのに「道」と称し立ち振る舞いまで極めるらしいが、味を極める技術ならばこの大陸も負けてはいない。
ミルクティーを淹れるにしても拘りがある。ミルクは急劇な温度の変化により変質する。ミルクティーを淹れる場合、熱い茶にミルクを入れれば高温から温度を下げて中間の温度になるが、ミルクにお茶を入れれば徐々に温度が上がり中間の温度になる。ミルクティー一つにも、科学的根拠があるのだ。
茶葉だけではなく茶器。テーブルや椅子まで場違いと思えるほどの高級品で揃えられていた。家具は全てドゥムヤータ胡桃。食器は海外からの交易品だ。それが、なぜ場違いかと言えば、ここが戦場だからである。北部ではランリエルがゴルシュタット、リンブルクを制し、中部ではバルバールがアルデシア王都を落とす快挙を成し遂げたが、その後は数倍の大軍に包囲され絶対絶命。
そして、この南部戦線ではドゥムヤータ・ブランディッシュ連合軍が皇国の衛星国家バンブーナ王国の軍勢と対峙していた。尤も南部戦線との呼称は厳密には正しくない。実際、この地域はこの大陸の南西に位置する。
呼称に正確性を欠き、いい加減な扱いだが、それは今日の茶会の出席者らにも責任がある。
「さすが、この大陸の貿易を支配するというドゥムヤータ。これほどの品は皇都でも一部の者しか口に出来ないでしょう」
皇都の一部の者。とは皇族を指す隠語。この大陸、特にグラノダロス皇国と、その衛星国家では皇族は神にも等しい。皇族に対する批判は勿論だが、皇族と同じ。という言葉ですら不敬罪に問われかねない。それ故に、このような回りくどい表現を使う。
その回りくどい表現を使った者こそバンブーナ王国国王チュエカ。元バンブーナ王国軍総司令だった彼は副帝アルベルドによって王国に抜擢された。敵味方の指導者が、このように茶会を開いて茶を飲んでいるのだ。しかも、公然の秘密として。
サルヴァ王子の当初の作戦としては、ランリエル勢主力により皇国軍主力を引き付け、ドゥムヤータ、ゴルシュタットの軍勢で南北から皇国本国を突く。というものを想定していた。手薄な皇国本国は容易に落ち、皇国軍主力も慌てて引き返そうとするところを後ろから追撃すれば殲滅する事も可能だった。
しかし、ゴルシュタットの裏切りにより当初の計画は崩れた。ドゥムヤータも一度は参戦に二の足を踏んだのをバルバール王国総司令ディアスの働きにより、強引に引きずり出された。というのが現状だ。バンブーナ一国の軍勢を引き付けてくれているだけでも御の字であり、ランリエルもそれ以上は望んでいない。
副帝アルベルドにしても、この状況は悪くはない。今まで皇国に逆らうような国は存在せず、皇国側の意向により他国を攻める場合も皇国軍は圧倒的多数の軍勢で敵の戦意を喪失させ一方的に蹂躙するのみ。その為、自軍より多数の敵どころか同数の敵とも戦った事がなかった。
つまり、ランリエルと皇国の双方から、動かなくていいと放置されている戦線であり、そこが南部だろうが南西部だろうが些細な問題なのだ。
しかし、それも当事者の立場になれば話は違ってくる。この戦線が膠着状態どころか馴れ合って小規模の戦闘すらないのが黙認されているのは、現在は、それが望ましいからだが、彼らには現在だけではなく未来がある。
「はは。大陸の貿易を支配するなど大げさな。元々、この大陸の貿易を一手に担っていたロタが没落し、運よく転がり込んで来ただけの事。それも、ランリエルやバルバールとも分け合っていますしね」
国王、しかも皇国の衛星国家の王に対して公爵の口調は砕けたものだ。それだけ親しさを表している。尤も、ドゥムヤータでは国王は選王候が任命する。その選王候筆頭と呼ばれる公爵は自国の王より格上。他国の王とも国際的な格付けはともかく実質的には同格という意識がある。
「ご謙遜を。確かにロタが扱っていた交易品は貴国と彼らで分割されましたが、利潤の高い商品のほとんどは貴国に流れているはず」
海外からの交易品は、香辛料などの食料品や嗜好品、高級食器や美術品などだ。どの品物にも低価格品から高級品まで等級がある。だが、商品とは売れなくては意味がない。つまり、需要が存在するかだ。
交易ルートを支配するのはランリエルだが、需要を制御するのは困難だ。
貧乏人が多く暮らす町に高額な美術品を流通させても売れないのは当然。つまり商売においては、どんな商品を扱うか以前に、どんな商品を求める顧客が居るかが重要なのだ。顧客の需要があるからこそ売れるのであって、どんなに良い商品でも需要がなければガラクタだ。
この大陸で最も裕福な人間が多いのは皇国とその衛星国家。この大陸で最も豊穣な耕作地帯をおさえ国土面積では大陸の3分の1程度にもかかわらず人口は大陸全人口の過半を有する。その人口の上に君臨する貴族の財力は他国の貴族と段違い。王族は桁違いである。そして皇族達は比べる対象とていない。ランリエル皇帝サルヴァ・アルディナは、多くの国々を支配下に置きタランラグラの塩で利益を出しているが、今回の戦争で借金漬けだ。
そのグラノダロス皇国への販路を押さえているのがドゥムヤータである。高額商品は利潤も高く、物量を見れば全体の半数以下の交易量だが、利潤ではランリエル、バルバール2ヶ国を併せた2倍に達する。
ランリエル商人やバルバール商人も皇国への販路を広げようと努力しているが、皇国からすれば敵対する者からの購買意欲など沸きようもない。どうしても彼らから買うしかないならともかく、中立の立場であるドゥムヤータ商人からも買えるのならば彼らから買うのが当然である。
「しかし、この戦いが始まってからは取引も減少しております。やはり、両国が争うのは良くないですな」
シルヴェストル公爵が当事者の自覚がないかのような口調でそう言った後、紅茶に口を付けた。
「ええ。我が方の貴族達も、品は欲しいが買うのは躊躇われると、困っている者も多い。まあ、それでも世の中には上手く立ち回る者も居るのですが」
「確かに。我が方の商人も品が売れずに困っているところに金貨の袋を山と抱えて買い漁っていく者が居ると聞いています」
そのようにして手に入れた品を
「実は手持ちがあるのです。良かったらお譲りしましょう。ただ、私も手放すのは惜しい。それなりの値でないと……」
と高額で他の貴族に売る。そのような者達も存在するのだ。
公爵の話にチュエカの口元が皮肉に歪んだが、どこか好意的でもある。
元バンブーナ王国軍総司令の彼は、本来ならばランリエルとのタランラグラ攻防戦での敗戦により処罰されて当然のところを立ち回りの良さで、その罪を回避した。今ではバンブーナ国王。世の中は上手く立ち回った者勝ちという思想がある。上手く立ち回る者には好意的だ。尤も、自分より上手く立ち回る者は排除せねばならないが。
そして、この二人。正確にはバンブーナ王国とドゥムヤータ王国は、今回の戦では上手く立ち回っている。双方、軍勢を出してはいるが戦闘らしい戦闘はなく損害も出費も少ない。戦えば武具は消耗するし怪我人の手当てにも金がかかるものだ。
しかし、それも未来に繋げられなければ無意味になる。いくら金を蓄えても死後の世界には持っていけない。シルヴェストル公爵にランリエルと心中する気は毛頭ない。毛頭どころか、石を砕いて臼で挽いて粉末状にしたものの一粒ほどもない。要するに全くない。
勿論、個人的にはサルヴァ王子に友情に近いものを感じてはいる。友達が死にそうで自分で助けられるならば、助けるのはやぶさかではない。だが、心中するほどの親友ではないのだ。ただの友達に心中を持ちかけられては迷惑である。
ディアス率いるバルバール王国軍の脅威に屈し、更にその場の雰囲気もあって出陣を決断した公爵だが、日を置いて冷静になってみれば、やはり、ランリエルが皇国に勝利するのは難しいと思えてくる。
つまり、現在の公爵の頭の中は、ランリエルが負けた場合にどうやって生き残るか。それで占められていた。当然、ランリエルが勝てば問題ないのだが。
ここで順当に考えるならば、衛星国家の王チュエカと親しい事を利用し、皇国への取り成しを頼む事だが、事が事だけに慎重にならざるを得ない。それに、こちらから提案するのは足元を見られる。
バンブーナ王国軍と対峙してすぐに皇国と戦うのは不味いのではないかと気付き、その後、チュエカと親しくなってからも、いまだに口に出せないでいるのは、その為である。
いわば自身とドゥムヤータを皇国に売るという事だが、物を売るにもタイミングが重要。同じ物でも売るタイミングによって得られる利益は天と地ほども違いが出る。
小物の商人ほど目の前の利益に目が眩み早売りをしてしまう。しかし、大抵の場合、そのような早売りをしては商品の価値以下の安値で手放す事になる。価値と同等の値で売るのが普通の商人なら、価値以上の値段で売るのが大商人というものだ。
勿論、それで客に損をしたと感じさせては信用を失う。価値以上の値段で売り、それでも客がその値に満足する。そう思わせるのが重要なのである。
美しい宝石と巧緻な細工が施された見事な釘飾りを美しいと誉れ高い令嬢に身に付けさせて舞踏会に出席させる。多くの者の眼を引き社交界でも話題になるだろう。手に入れたいと申し出る大貴族も多い。だが売らない。高額な金額を提示されても、その程度ではと断る。そして、ここが高値。と見切ったところで売りぬくのだ。
暴利ではない。多くの大貴族から垂涎の的となった首飾りを手に入れられるのだ。大金を払っても、皆からの羨望の眼差しの付加価値の値段だ。つまり、価値以上の値で売るには、価値とは別に、付加価値を付ければ良いのである。
しかし、目の前にいるチュエカがその売る相手かと言えば、そうではない。売る相手はあくまで皇国。チュエカは仲介者、あるいは仲買人である。この場合、仲買人にもある程度の利益を与える必要がある。誰も、ただでは働いてくれないのだ。だが、それにはチュエカ自身の行動も必要。
もしかしてチュエカ殿は、それに気付いていないのか? チュエカと、このような非公式の会合を繰り返し親密の度合いを深めているにも関わらず、動きのないチュエカに公爵にも多少の苛立ちと不安がある。
この取引のチュエカの取り分を増やすには、チュエカ自身が己の立ち位置を変える必要がある。ドゥムヤータからの申し出を「受けた」だけでの仲介者であるより、ドゥムヤータを説得、つまり買い付けた「仲買人」であるべきだ。そして、公爵にしても、こちらから「売る」よりも、「買われた」方が高く売れる。更に言えば、自分から皇国に寝返るのは今後の信頼関係にもかかわる。同じ寝返るにしても、自ら申し出るより、説得されたという形の方が望ましい。
だが、チュエカは、一向に説得してこない。彼から動いた方が、双方にとって利益になるにもかかわらずだ。その為、公爵は、争いは良くないなどと、こちらは戦争を望んでいないという意思をやんわりと伝えている。
そのシルヴェストル公爵の様子にチュエカも、公爵はどうやらお困りのようだ。まあ、俺が動かぬのでじれているのだろうな。と、考えぬわけでもない。
実際、チュエカ自身も、自分の価値を高めるには自分から動くのが良いとは理解していた。ただし、普通ならばだ。チュエカの動きを制限しているのは、普通ではない要素を彼が感じているからである。
王であるより、そもそも彼は軍略家。そして、まるで蚊帳の外にいるのかのような今の状況は、神の視点を彼に与える。ゲームをしている当事者よりも、観戦者の方が視野が広くなるものだ。
アルベルド副帝は、早期の戦争終結を望んでいないのではないか。実際、皇国が総兵力を動員すればどうとでもなる。というのがチュエカの見解だ。乱暴な意見のようだが、物事の枝葉を切り払い本質だけを論じればそういう事だ。
現在、皇国軍は、ランリエルに対して倍以上の兵力を派遣し攻勢を強めているが、それでもまだ予備兵力がある。他の被ランリエル的ランリエル勢ともいうべきドゥムヤータ、そして今後ランリエルに付きそうなゴルシュタットに対しては最低限の兵しか向かわせていない。
軍略家としてのチュエカからすれば、全くの無駄な戦いである。ランリエルに向かわせている過剰な兵を削減し、予備兵力も動員してドゥムヤータなりゴルシュタットに向ければ、それで戦わずして彼らは降伏するだろう。どちらか一方が降伏すれば、これは勝ち目が無いと他方も続いて降伏するはずだ。その後にランリエルに戦力を集中すれば良い。
そして、当事者で視野が狭くなっているとはいえアルベルドがこの程度の事に気付かないのか? という疑いがある。勿論、アルベルドがサルヴァ王子に匹敵する軍略家とは考えていない。アルベルドがサルヴァ王子に劣るというのではない。政治力を含めた総合力では引けを取るまいが、得意分野が違うのだ。だが、この程度は気付く軍略の才はある。
つまり、少なくとも現在では、まだアルベルド副帝は戦争を終らせる気がないのだ。そして、サルヴァ王子としてもアルベルドが、そうと望んでいるのを察した上で動いている。
その上でチュエカの予想ではサルヴァ王子が勝つ可能性がある。という結論に達した。ランリエル陣営であるベルヴァース王国軍総司令テグネールが、皇国が勝つ可能性が高いと判断した事を思えば皮肉な結論だ。
勿論、順当に考えれば兵力で皇国が圧倒的に有利。それはチュエカもよく分かっている。サルヴァ王子が勝つというのもあくまで可能性。尤も、0.1%でも可能性に違いない。その意味では可能性はあって当たり前なのだが、重要なのは、その可能性がどの程度か。だ。
2割。いや、1割程か。というのがチュエカの予想だ。圧倒的に不利なのは変わらないが、あってもおかしくはない。程度の確率なのも事実。
とはいえ、今、ドゥムヤータをこちらに引き込めば、その2割だか1割だかもほぼ0になる。ならば、ドゥムヤータをこちらに引き込むべきか? しかし、それも戸惑われる。繰り返すがアルベルドが早期の戦争終結を望んでいないからだ。こちらが良かれと思っても、相手が望まぬならば、それは有難迷惑というものだ。せっかくドゥムヤータを引き込んでも、それが功績にならないなら骨折り損である。
まあ、あの方の事だ。万一、ランリエルに負けた場合も考えているのだろう。ドゥムヤータを味方に引き入れるならば、その時を狙うべき。とはいえ、そうなると、その時にドゥムヤータがこちらに付くのか? 今回も皇国がランリエルに負ければ2連敗だ。
総国力では、それでも皇国の優位は変わらない。長期的に見れば盛り返すのは十分可能。とはいえ、2連敗すればランリエルは皇国より強い。そう判断する者がほとんどだろう。ドゥムヤータも例外ではない。
「いかがなさいましたか?」
黙り込んでいたチュエカにシルヴェストル公爵が言葉を向けた。チュエカも思わず苦笑を浮かべた。
「いえ。商売というのは、中々難しいものだと。つい考え込んでしまいました」
確かに彼は商売人だ。情勢という商品を上手く売りさばき、本来ならば没落してもおかしくない危機を乗り越え国王にまでなった。今もドゥムヤータが靡いてきているという情勢を高く売って利益を上げなくてはならない。だが、今は売り時ではないのだ。
「公爵殿は、新たに市場を開拓したい時、まずは何から手をつけますか?」
「物を売るにも需要と供給というものがあります。需要のないところに商品は売れません。商売を始めるには、まずは市場調査というものが必要です。私共が売りたいと考えても、相手がそれを望んでいるかどうか。望んでいる者が居るとしても、それがどの程度か。それを見極めねば巨額の損失を出します」
ある商品が金貨一袋で売れた。喜んだ商人は、その品を大量に仕入れて売りに行ったが、売れたのは極僅か。確かにその商品の価値は高く高値でも買いたいという客は居る。だが、大勢は居なかった。単純な話だ。
取引とは自分が売りたい物が売れるのではなく、相手が欲しがっていても程度というものがある。需要と供給のバランス。それの見極めが重要なのだ。
「なるほど。私も同感です」
チュエカが公爵に微笑を向けたが、その瞳には公爵を洞察するような。いや、公爵に洞察を求める光が浮かんでいた。分かるでしょ? と瞳が訴えている。
「なるほど」
公爵が呟き、紅茶に口を付けた。カップを皿に置いた後、もう一度
「なるほど」
と呟いた。
この一見、無駄な。だが必要不可欠な時間は、もう少し続きそうだ。




