第317:出陣前夜
ボルディエス大陸北部はすでに雪の季節が近づいている。肌寒い風が木々を揺らす。乾いた大地には砂塵が舞っていた。その荒涼とした生命を感じさせぬ風景の中を全員が統一された甲冑に身を包んだ煌びやかな騎士の一団が進む。馬の歩幅まで統一されているかのように整然と隊列を組んでいる。雅とは程遠い周囲の風景と比べ場違いな印象すら受ける。
その日、ケルディラ北部でゴルシュタット王国軍と対峙するベルヴァース王国軍に本国から王国騎兵一個大隊が到着した。守備要員を除いた全ての将兵が整列して彼らを出迎える。如何に王国騎士団とはいえ大仰過ぎる出迎えだが、それには権威の上乗せがあるからだ。
「ルージ殿下。ようこそお越しくださいました」
下馬するルージ王子に総司令テグネールが白髪頭を下げて恭しく一礼した。才覚という面では各国の総司令達に一歩譲ると評される彼だが、総合的な評価は低くない。重要なのは実績であり、才覚のみで実績は確定しない。与えられた任務を墨守する彼の評価は才覚ではなく人格によるものだ。
命令を墨守するというのは、総司令としては物足りないと感じる者もいるが、それは彼が属するベルヴァース王国の立場を理解すれば納得できるだろう。ランリエル、カルデイという大国に挟まれたベルヴァースである。その行動は慎重にならざるを得ない。
生き残る為にはランリエルとカルデイとの力が均衡している必要がある。たとえ一方に組したとしても勝ち過ぎるのは命取り。片方が勝てば、たとえ味方であったとしても、将来的には飲み込まれる。その為、政治的判断が必要であり、本国からの命令には絶対だ。
「武人たる者、勝てる戦を捨てられるか!」
などという猪武者には任せられないのだ。
彼の前任者のセデルテ・グレヴィは、それを理解した上で、更に他の総司令達に才覚で勝るという稀有の人物だったが、彼は既に引退し、テグネールの参謀を務めているサンデルを養子に迎えて家名を継がせている。
更に、現在ではランリエル体制下に組み込まれている事を思えば、総司令とて軍の頂点ではなくサルヴァ王子の命令で動く。益々、テグネールが重宝される所以である。サルヴァ王子ですら、確実性ではディアスやギリスより信頼しているほどだ。
「戦況が、あまり良くないって聞いたんだけど……」
本陣の天幕に入るとルージ王子がテグネールに囁くように問うた。年齢の割りに子供っぽいと評される事も多い彼だが、悲観的な話を兵士達には聞かせない方が良いという分別は持っている。
「なに、確かに予想されていたよりも長引いておりますが、心配には及びませぬ。こちらもだいたい片がつき、もうしばらくすればランリエル本隊とも合流いたしまする。さすれば殿下の兄上であらせられるサルヴァ陛下にもお会いできましょう」
テグネールが微笑み答えた。ベルヴァースでは、彼を含めルージ王子に好意的な者が多い。国王の一人娘であるアルベルティーナ王女の婿としてベルヴァースに入国した彼は、王女と仲睦まじい事で知られ、祖国ランリエルよりもベルヴァースを愛するとすら言われている。
「あの大国ランリエル王の、いやいや、今では皇帝か。その皇帝のご舎弟にもかかわらず驕らぬ人柄でいらっしゃる」
「そのご舎弟が守ってくださるなら、我がベルヴァースも安泰だ」
民衆からはこのようにルージの評判はいい。大国の血筋、且つ、その祖国よりも我が国を大事にしてくれるなど、次期国王としてケチの付け所がない。それどころか、アルベルティーナ王女の方が民衆からの批判の声があるくらいだ。尤も、それも深刻なものではない。
「アルベルティーナ王女が、また我がままを言ってルージ殿下を困らせているらしい」
「お優しいルージ殿下でなければ、とっくに逃げ出しているに違いない」
などというもので、むしろお似合いの夫婦だと揶揄しているようなものだ。
そのような彼だからこそ陣頭に立てば兵達の士気もあがろうというものだが、次期国王にして大国ランリエル皇帝の舎弟。万一にも亡くなるどころか、怪我を負わせても大問題。テグネールはそれを危惧した。
「殿下がお越しになられ兵達の士気も高まっておりますれば、サルヴァ陛下とご面会した後は、ご帰国なされるのがよろしいかと。御身に万一の事がありますればアルベルティーナ王女もお嘆きになられましょう」
祖国よりベルヴァースを大事にするのもアルベルティーナ王女への愛ゆえ。そう言われるルージ王子だ。王女の名前を出されると弱いはずだが、ルージ王子は微笑みながら首を振った。
「大丈夫だよ。王女にはもう怒られた」
それは大丈夫とは言わないのではないかと思ったテグネールだが、次期国王夫婦の問題に立ち入った事は聞けない。
「左様でございますか」
と引きさがざるを得ない。
テグネールとしても、今はゴルシュタット王国軍を監視しているだけなのでそれほど危険とは思っていないが、この後、ランリエル本隊と合流すれば状況は変わる。
各戦線の整理がつきランリエル本隊の準備が整えば皇国との決戦。その方針はテグネールも理解している。こちらの戦線が収束してランリエル本隊に合流して決戦の準備が整う前にルージ王子には帰国して貰いたい。
テグネールは、決してルージ王子が邪魔なのではなく好意でそう考えているのだが、それだけに強くは言えない。更に言えば命令を墨守するという彼の信条も枷となった。
これはベルヴァース本国の方針の不徹底が問題なのだが、ルージ王子が王国騎兵一個大隊を率いて合流するという以外、具体的な指示が無い。査察や兵士への士気高揚が目的ならば帰国までの行程が連絡されているはずだが、それもない。帰国の時期も定まっていない。
帰国の時期が定まっていないなら、戦争終結まで従軍するという意味に取れてしまう。それでもただの一個大隊なら総司令の権限でどうとでも理由をつけて帰国させるのは造作ないが、率いているのがルージ王子ではそうもいかない。ルージ王子が自分で帰国すると言わない限り、テグネールにはどうにも出来ないのだ。
ここで前任のグレヴィならば、
「たとえ王族であっても、戦場にあれば我が部下であると思し召し下され」
と釘を刺した上で、些細な失敗を理由に罰として帰国させるという強引な手も辞さなかったであろうが、それはテグネールには不可能であった。
騎兵隊と共に運搬されてきた王子用の天幕が組みあがるまで、ルージ王子に理解できるかは別としてテグネールから戦況報告を行った。
「ゴルシュタット王国軍を引き付けて居るとは申しましても、ゴルシュタット本国ではサルヴァ陛下からの全権大使が向かい調停が行われております。彼らからの攻撃の心配は御座いませぬ。勿論、警戒は怠りは致しませぬが」
「それは良かったね。お城では皆、心配してたんだよ」
「はい。しかし、それも無理からぬこと。本国から遠く離れておりますので、こちらの戦況が分からぬのも致し方ありませぬ。私の経験では、このように戦況が分からぬ時に本国では極端に悲観的になるか楽観的になるかで御座いました。今回は相手があの皇国という事で皆が悲観的になったので御座いましょう」
「へえ。そうなんだ」
ルージ王子の顔には安堵の色が見える。テグネールは内心胸を撫で下ろした。勿論、テグネールには状況が掴めている。アルベルドはサルヴァ王子の戦略を涙ぐましいと評したが、テグネールもそれに近い結論を出していた。
実際、ランリエル陣営の中には総司令級ではなく部隊長の中にもテグネールよりも才覚ある者は多い。しかし、その者達が出せていない結論をテグネールが出せたのは才覚ではなく、その性格による。
賢人ベルトラムは知能も道具の一つでしかなく、その道具を制御する賢さこそを重要と断じた。なまじ知能に優れた者ほど無用の計算を行い本質から遠ざかる事も珍しくはないのだ。
戦術は、天候、地形からブランやグレイスのような猛将の存在が勝敗に複雑に絡み合う因数分解を要する数学とすれば、戦略とは基本的に足し算、引き算の算数。1+5+7と2+4+6を比べるようなもので、突き詰めれば13と12はどちらが大きい? という幼児に問うような次元の話だ。
にもかかわらず、知者ほど戦略に因数分解を持ち込もうとする。かつてベルトラムの裏切りによりサルヴァ王子の戦略は破綻したが、それに対し今は亡きコスティラ王国軍総司令ベヴゼンコは戦略とは単純明快であるべきと断じ、王子はぐうの音も出なかった。
勿論、サルヴァ王子も失敗ばかりではない。皇国との前回の戦いでは(皇国全軍-衛星国家の軍勢)<(ランリエル王国軍+カルデイ帝国軍+ベルヴァース王国軍+バルバール王国軍+コスティラ王国軍)という算数で勝利している。
サルヴァ王子は戦略に因数分解を持ち込んで破綻した計画を立て直そうとしているのだが、それが上手くいって問題を算数でやり直したとしても、皇国全軍と(ランリエル陣営+ゴルシュタット陣営+ドゥムヤータ陣営)を比べれば、テグネールの見るところ皇国全軍の方が多いのだ。にもかかわらず、本来、テグネールより才覚が優れた者ほど、勢いだとか戦の天才サルヴァ陛下が率いているからだとか、ディアスやギリスがいるからだとか因数分解を始めてしまうのだ。
尤も、見誤ってくれなければ、そもそもドゥムヤータもゴルシュタットもランリエルに味方をしないと言えるが、彼らには彼らの言い分がある。
「病気になって臥せっている時に、どうして病気になるような不摂生をしたのか責められ健康的な生活習慣の指導をされても病気は治らない。今、必要なのは病気の治療法なのである」
目の前にランリエルの軍勢が迫ってくればそれに対応するしかなく、そもそも皇国の方が強大だと言われても問題は解決しない。切羽詰った当事者の事情というものがあるのだ。
とにかく、テグネールの算数では決戦に向けての態勢が整ったとしても(皇国全軍-各地の手当てに必要な軍勢)と(ランリエル陣営全軍-各地に手当てに必要な軍勢)を比べれば、皇国側が2倍ほど軍勢が多い。
サルヴァ王子が戦術で数学を駆使するとしても勝つ見込みは少なく、ましてや安全とは決して言えない。ルージ王子には出来るだけ早急に帰国して貰いたい。
「ですので、ルージ殿下には、なにとぞ早急に国王陛下やアルベルティーナ王女にも心配には及ばないとお伝え下さい。殿下からご説明くだされば、方々もご安心なされましょう」
「大丈夫だよ。それは手紙でちゃんと伝えるから」
「そうで……御座いますか」
ルージ王子の屈託のない言葉はある種の論者封じだ。かつてランリエル第一の外交官サントリクィドはルージ王子にぐうの音の出なかった。あまりにも真っ直ぐな言葉は反論を封じる。ましてや、そもそも弁論が苦手なテグネールには手が負えなかった。
しばらくすると天幕が出来上がりルージ王子もそちらに向かった。用意された家具や寝具は清潔ではあるが質素なものだ。次期国王とはいえさすがに戦場では贅沢は言えない。夜には軍幹部らとの晩餐があるが、それまでは身体を休ませようと甲冑を解く。甲冑を脱ぐのを手伝った従者達も下がらせたルージ王子はベッドの上に身体を投げ出す。しかし、頭では先ほどのテグネールの言葉が浮かんだ。
「万一の事がありますればアルベルティーナ王女もお嘆きになられましょう」
今、自分とアルベルティーナ王女との間には2人の娘が居る。1人目を産んだ後、思いの他可愛いと王女が子作りに積極的になったのだ。
赤ん坊の世話は全てエリーカら侍女に任せ、可愛がりたい時に可愛がるという駄目親を地でいくアルベルティーナである。しかも、小柄な体型にもかかわらず意外にも安産でつわりも酷くなかった。
医学の発達していない時代だ。出産は命がけであり、出産をするくらいなら戦に出た方がマシ。とすら言われた。確かに戦とは意外と死者は少ないもの。1万同士の戦いでも死者は数百人。戦の方が死ぬ確率が低いとすらいえるのだ。
しかし、それもろくな医者に診せられない庶民の話。国一の名医を待機させる王女にその心配は少なく、1人目のお産が軽かったこともあり、2人目を作るのに恐れはなかった。
尤も、怒るアルベルティーナ王女をルージ王子が宥めるという昼間の姿からは王女と王子の夜の営みが想像できない。常に王女の世話をしているエリーカすら、いつ致しているのか不思議に思うほどだ。
しかし、夜の営みは意外にも王女の方が積極的だ。
「お前とこんなことをするのは子供が欲しいからだからな」
そういってアルベルティーナ王女がルージ王子を押し倒すのだ。ただ、その割には妊娠発覚後も、
「念の為じゃ」
と、王子を押し倒すのはちょっと意味が分からないが。
そのようにのほほんと生きている次期国王夫妻だが、ルージ王子が出兵すると聞きアルベルティーナ王女は激怒した。
「お前など戦に出ても役に立たぬくせに! 行っても邪魔だから行くな!」
ひどい言われようだが、確かに見た目から判断すればルージ王子は戦場では役に立たなさそうだ。だが、それは誤解である。少なくともルージ王子は役に立った実績がある。エリーカが思わず助け舟を出した。
「アルベルティーナ様。ルージ殿下は、先の戦いでは皇国の大軍を前にして、一歩も引かず敵を押し返す武功をお示しになったとか。役に立たないなどとは……」
「そんな事ぐらい知っておるわ!」
エリーカが黙って一礼して引き下がった。要するに、行って欲しくないから反対しているのであって理屈ではないのだ。そして、それは妻という立場ならば正しくもある。だが、残念ではあるが、次期国王としての立場で考えれば理屈も変る。
「思ったよりも苦戦しているみたいだから僕が行かないと。やっぱり、僕が行った方が皆も頑張るらしいんだ」
「お前みたいなぼけっとしている男が行っても、迷惑なだけじゃ!」
次期国王が前線に向かえば兵士達の士気が上がるというルージ王子と、とにかく無駄! 邪魔! 迷惑! と喚く王女では話が噛み合わない。結局、王女を納得させられないまま出立の前日となった。
喧嘩(と言っても王女が一方的に怒っているだけだが)をしていても夜には同じベッドで寝る。娘達は別の部屋で侍女が見ているので2人きりだ。アルベルティーナ王女がルージ王子に背を向けている。王女を説得できないまま、ついに出立を目前にして、何とか王女を説得しようと言葉を捜している王子だが、王女の背にかける言葉が見つからない。
「行くな……」
弱々しい王女の声。否定の言葉だが、王女からきっかけを作ってくれたのだ。思わず王女の細い肩に手を伸ばした。後ろから抱きしめようとしたが、王女が振りほどいて拒絶する。
「行くのなら私に触れるな」
その言葉に一瞬躊躇したルージ王子だが、更に手を伸ばし王女を抱きしめた。王女はまた振りほどこうとしたが、抵抗とも呼べぬ抵抗をした後大人しく抱きしめられる。
「じゃあ、行くのを止めるのだな」
王子の腕の中で呟く。
「ううん。僕は行くよ」
「ふざけるな! 私が好きなら、私が嫌という事をするな!」
王女が王子の腕の中でもがくが、意外にも王子の腕は力強く抜け出せない。王女がもがけばもがくほど強い力で抱きしめられる。
「でも、行かなくちゃ」
王女を更に強く抱きしめた。負ければ王女や娘達も危険になる。王女を愛しているからこそ行く。君の為に行くんだ。その言葉を口にはしない。それを言えば王女の所為になる。行くのを彼女の所為にしたくはない。
そして、そんな事は王女にも分かっている。しかし、私の為なのだろ? 私の為ならば行かなくていい。そう言えば王子が否定するのも予想できる。言葉は重要だ。口にすればそれが事実となる。
行って欲しくない。それでも、それでも夫が命をかけるほど愛するのは自分。そうであって欲しいという心もある。王女は自分が我がままなのを知っている。成熟した大人の女性ならば、そんな事を考えずに止めるだろう。だが、我がままでもそうあって欲しい。でも、行って欲しくないのだ。だから、理屈も何もなく行くなとしか言えなかった。




