第299:父と娘
ハイトマンらリンブルク騎士を先頭に女王クリスティーネが謁見の間に向かっていた。総勢およそ10余名。女王の傍にはルキノの姿もある。女王が不安げに夫に顔を向けると、ルキノは妻を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫だ。私がついている。お前はランリエルと同盟するとだけ言ってくれればいい。後は私に任せてくれ」
「はい。分かりました」
青ざめた顔でクリスティーネが頷いた。敬愛する父だが恐ろしくもある。今、顔を合わせれば、父にどんな感情が浮かぶのか。再会に喜びを感じるのか。恐怖を感じるのか。自身でも分からないほど、父との面会を前に心が乱れていた。
謁見の間に入ると大臣や官僚達が女王に身体を向け一礼した。クリスティーネが玉座に座ると、やっと頭を上げる。ルキノはすでに変装を解いているが、女王の横に立つハイトマンの後に控え俯き加減に顔を隠している。ここに国王が居るはずがない。その先入観により気付く者は居ない。護衛の騎士にしては胸を張らず俯いているのに幾人かが気にはかけたが、今はそれを指摘する時ではない。その代わりに気難しい官僚が、後で注意すべき事項として胸に留めおいた。
「ベルトラム・シュレンドルフ閣下の御出で御座います!」
衛兵が声高に宣言した。女王が待つ謁見の間に「閣下」が入るのに「御出」とは違和感のある台詞であるが、ベルトラムの敬称は「陛下」ではないがリンブルク女王より格は上。この奇妙な台詞も止むを得まい。
ベルトラムが20人ほどの騎士を従え謁見の間に入った。連れて来た50騎の半数は謁見の間まで引き連れてくると想定していたのよりは数が少ない。万一を考慮し、謁見の間に通じる通路に見張りを置いたのだ。ルキノ達との戦力差は縮まったが、それでも個々の技量を考えれば圧倒的な戦力差に違いはなく何の慰めにもならない。
その騎士達を従え、ベルトラムが玉座のクリスティーネに近づいていく。相変わらず軍服を纏わず平伏姿だが、その平伏の上からでも鍛えられた肉体が見て取れた。だが重鈍ではない。豪腕に偏ったのではなく技術に偏ったのでもない。武芸を身につけぬ大臣達から見ても理想的な戦士の肉体。それを感じた。
ハイトマンは士官として有能な男だ。武芸にも優れている。その彼もベルトラムの姿を王宮で幾度か目にした事はあるが、ここまで間近では初めて。その彼が、こりゃ勝てねえわ。と、反射的に脳裏で敗北宣言を行ったほどだ。
だが、敗北宣言と戦意喪失とは意味を等しくしない。自分が勝てなくても他の誰かが勝てればよく、1対1で勝てなくても多人数で取り囲んで倒せれば作戦としてはそれで良いのだ。
その鍵を握る男は彼の後ろにいる。振り向きたい衝動を抑えた。代わりに女王を挟んで反対側に居るルーベルトに眼球だけを動かし視線を向けた。ルーベルトは平然とした顔をしているが、緊張からか額に汗を浮かばせている。内心、笑みを浮かべたハイトマンだったが、自身の額にも汗が浮かんでいるのには気付いていない。
ベルトラムが一歩一歩近づき、クリスティーネが座する玉座の前で足を止めた。他国からの使者などが跪くべき位置より2ケイト(約1.7メートル)以上は玉座に近く、跪きもしない。聡い者はベルトラム入場の宣言があった時に、二重統治者とリンブルク女王が謁見の間で顔を合わせるのは初めてだと気付いていたが、今更ながら気付いた者も多い。儀礼として、これが相応しいのか判断できずに困惑している。
そして、女王クリスティーネは困惑する余裕すらない。鼓動が早くなり心臓の打つ音が耳に聞こえるほどだ。玉座の肘掛を握り締める手の平からは汗が流れるほどだ。
「どうした我が娘よ。久しぶりに会った父に挨拶もしてくれないのかね」
優しげな父の声。真の強者は威嚇をしない。威嚇は力なきものが力があると見せる為のものだ。本当に戦えば弱いことを悟られる、相手に逃げて欲しいから威嚇する。戦えば勝てる者は威嚇はしない。クリスティーネは父の優しげな声にこそ恐怖を覚えた。彼女ばかりではなかった。ハイトマン、ルーベルト、そしてルキノすらそれを感じた。
突如、後ろから脅かされるような恐怖ではない。血に濡れた斧を振りかざす狂人を前にした恐怖でもない。本能に刻まれた、生物としての根源的な恐怖。絶対的な強者に対しての恐怖だ。
「お、お父様。お久しぶりで御座います」
連れ去られていた娘と父との再会にしては暢気な台詞。だが、その声は震えていた。娘が父の何を怯えるのか。しかし、それを笑う者は居ない。
大臣達もこの異常な空気を読み取っている。連れ去られた娘が戻ってきた。それを知った父が取るものも取らずに駆けつけたにもかかわらず何日も会わずにいた。それだけで普通ではない。そして、やっと対面したかと思えば、ベルトラムとクリスティーネ。それぞれが護衛にしては多い騎士を引き連れている。
大臣達はすべて貴族。貴族とは傲慢不遜のように思われ、確かに庶民に対してはそのようでもある。しかし、宮中にあっては権力闘争に明け暮れる彼らだ。力関係の空気を敏感に読み生きている彼らも、ただ事でない雰囲気を感じ取っていた。
しかし、それだけに彼らは傍観者と化している。どちらかから明確に助成を求められていないこの状況は、うかつに手は出せない。
「父も心配しておったのだぞ。だが、お主も心労があろうと、お主の方から会いたいというまで待とうと思っておったが、なかなかその知らせが来んので辛抱たまらず父から面会を申し込んでしまった。だが、元気そうで何よりだ」
確かに、不自然な話の筋ではない。男に触れられれば命を絶つクリスティーネだ。彼女が生きて帰ってきたのだから、乱暴はされてはおるまいが、それでも女性を辱める方法は身体に触れるだけではない。何か心に傷を負っているのかと父が配慮するのは当然だ。
そもそも根が善良過ぎるほど善良なクリスティーネである。ルキノ達が父には何か思惑があって面会を申し込んで来ないのではないか? と、相談しているのを耳にし、自分もそうかも知れないと考えていたが、考えすぎによる父への冒涜ではないかかと、後ろめたさも感じていた。
「そ、それは……申し訳ございません」
と、いうその声も引け目からか力がない。
些細な会話。しかし、その些細がルキノ達の計画を破綻させるのだ。ウィルケス率いるテッサーラ王国軍も1人の使者で無力化された。練りに練った作戦が、ベルトラムのささやかな一手ですべて破られる。武術の戦いでも、格下の者ほど動き回り、達人の一撃で敗北するものだ。
やはり、格が違うか。
妻の後ろでルキノが歯軋りを漏らすのを耐えた。妻は父と対決しなければならない。強い決意と精神力が必要だ。それが、いきなり父に後ろめたさを感じてしまっては……。戦いでいえば士気を挫かれたに等しい。士気なき軍勢は戦いにならない。
ベルトラム相手に予想通りに事が運ぶはずもない。それはルキノとて理解している。故に、今回の会議でもどう動くかは出たとこ勝負。そう考えていた。しかし、予想は出来なくても、ある程度の心積もり、心構えというものはある。まず妻がランリエルとの同盟を宣言し、その後の義父とのやり取りの中から自らが出張る機会を得る。その機会を探る段階までにも到達しなかったのだ。
「まあ良い。お主にも考えはあろう。だが、父が何よりお主の事を心配しておった事だけは信じてくれるな?」
「もちろんで御座います。お父様……」
クリスティーネがうな垂れるように頷き、彼女の斜め後ろにいるルキノからもルーベルトが小さく首を振るのが見えた。交渉術にも長けたルーベルトだ。ベルトラムが崩しにかかり、クリスティーネがまんまと引っかかっているのが手に取るように分かる。それだけに焦燥にかられている。
人は承諾が困難な問題には首を縦に振らないが、簡単な問題ならば首を縦に振りやすいは当然だ。そして、頷き癖というものもある。今、ベルトラムは親娘の情に訴えクリスティーネの首を縦に振らせている。それは城門が開き始めたに等しい。
ランリエルとの同盟を宣言し攻勢に出たクリスティーネをルキノ達が支える。その計画が、攻勢に出る前に出鼻を挫かれ支えるどころではないのだ。
どうする? 俺が出るか?
クリスティーネは、ランリエルとの同盟。という、その一言すら言えずにいる。ルキノは急いたが決断出来ずにいる間にもクリスティーネの心の城門は開き続けている。
ベルトラムは、親娘の情としては頷かざるを得ないような言葉を次々と発し、クリスティーネがその数だけ頷く。頷き癖が流れの中で出来ていく。勿論、クリスティーネとてランリエルとの同盟はならん。とはっきり言われれば引かないだろう。しかし、政治には玉虫色の決着というものがある。
「ランリエルとの同盟を否定する訳ではないが、一国の命運がかかること。性急に結論を出せるものではあるまい」
そう言われれば、クリスティーネは頷くだろう。だが、無理を承知で押し通すのがそもそもの作戦だ。クリスティーネにも、そこは十分に言い聞かせてはいたが、その防御壁がベルトラムにより崩されている。今のクリスティーネには、ランリエルとの同盟を拒絶されるのには反対しなければならない。という核心部分を死守するのが精一杯だ。
このまま進めばベルトラムの思惑通りに進み面会は終了する。
クリスティーネには荷が重すぎたか。妻を信頼しているが、それは、妻も自分を信頼してくれている、という信頼であって、能力の評価は別問題。あえて酷な表現をすれば、いくら自分の子供を信頼していても、子供が虎を倒せるとは思えまい。
ルキノが対応の決断をしかねている間にもベルトラムとクリスティーネとの会話は進んでいる。ルキノ達の思惑は崩れる。だが、思いもよらない事態が発生した。
それは、ベルトラムらしからぬミス。いや、あるいはベルトラムらしいミスであったかも知れない。ベルトラムの一言が事態を一変させた。
「あのランリエルの士官であった男も、お主の事などもう忘れていよう」
一瞬、クリスティーネの綺麗に結われ整えられた赤毛が逆立ち膨れ上がったように見えた。ベルトラムの情に訴える言葉に心が崩され弱弱しかった瞳に炎のような光が宿った。
「あの方が、私を忘れるはずはありません」
ベルトラムを見据え挑むかのような強い視線を放った。防戦一方だった女王の豹変に大臣達ばかりか、ベルトラムの精鋭達すらざわつく。
だが、まだベルトラムにも余裕はあった。自身の失言に気づき、娘を宥めようと口を開きかけた瞬間、クリスティーネが決定的な一言を放ったのだ。
「私は、あの方を愛しております」
今度は、ベルトラムの身体が一回り大きくなったように見えた。余裕のあった表情が強張る。
やっぱり父娘だな。と、妙なところに関心したのはハイトマンだ。ベルトラムが異常に娘に執着しているように娘も異常にルキノに傾倒している。父娘に共通する極端な情愛は確かに似ていた。
「戯言を申すな。お主もランリエルとの同盟などと言っておるようだが、あの男は、その為にお主に近づいたに決まっておるではないか」
ベルトラムが冷静さを欠いた。ここでランリエルとの同盟を否定すれば、ますますクリスティーネの懐柔は難しくなるはず。器量人は、特にベルトラムのような男は、どんなに激していようと、その激した自分を冷静に見つめる第三者の目を持つものだ。その第三者の目すら失うほど冷静さを欠いている。ルーベルト自身も交渉に長けているだけにそれを見抜いた。
行動を起こすならば、ここではないか。微かにルーベルトがルキノに振り返った。この騒動では、護衛の騎士達が動揺しても不自然ではない。合図と気付いた者は居なかった。
やはり、サルヴァ陛下が仰っていた通りだったか。
知力はあくまで道具。如何に道具が優れようとも適切に使わなければ無用の長物どころか時には害にすらなる。賢者とは、その道具たる知能の制御に優れた者をいう。
知力の制御とは、道具を使うのを迷わず、誤らずという事だ。ベルトラムは、それによって知力では己に勝るサルヴァ王子やアルベルドに対し主導権を握ってきた。あえて無駄を行い知者達に知力を無駄遣いさせてきた。だが、サルヴァ王子は見抜いた。ベルトラムの法則をだ。
知者サルヴァ・アルディナが賢者ベルトラム・シュレンドルフに見出した唯一の法則。ベルトラムは娘クリスティーネを何よりも優先する。異常なまでにだ。
どうして賢者ベルトラムが娘の事になると見誤るのか。勿論、父娘ならば娘を大事に思うのは当然。しかし、ベルトラムは明らかに過剰だ。そして、どうしてそこまで執着するかまではサルヴァ王子にも分からない。だが、結果は分かった。原因も、よほどの事情があるのだろう。そう推測するしかないが、今は、それで十分だ。科学者は科学的に解明されたものしか信じない。そのような俗論があるが現実は違う。
科学者の使命の一つは確かに解明だ。しかし、その解明も現象が起こると認めた次の段階。解明されているものしか信じないのなら、そもそも解明という段階に進まない。現象を認めた上での解明。そして、現象が起こるのが確実ならば、原因を解明しないままでも使用するのもまた科学。
サルヴァ王子は科学者ではない。暇があれば知的遊戯としてベルトラムの脳内を解明するのも良いが、今は、その余裕はない。王子は、その知能によってベルトラムの法則を見出した。今は、それで十分だ。
「もし、ベルトラムが動揺し、判断を誤るとすれば、この一点だろう」
それをルキノはサルヴァ王子から聞いていた。故に、この事態にベルトラムよりも冷静に対応できた。
「確かに、私はランリエルの士官だ」
ルキノが顔を上げてクリスティーネの前に進み出た。国王の存在に初めて気付いた者達が驚愕の声を上げた。だが、ルキノはそれを無視して妻の横に立つ。
「だが、妻を愛している。その心に嘘、偽りはない」
優しげにクリスティーネを見つめ、その肩に手を置いた。クリスティーネも微笑み返す。ベルトラムが怒りのあまり額に血管を浮かばせた。鬼が居た。




