第290:非情の選択
南部戦線でバルバール王国軍と北ロタ王国軍との停戦交渉が進む中、両軍将兵の間である噂が囁かれていた。
北ロタの虎将ブランの情婦アレットが、バルバールの猛将グレイスに匿われている。グレイス将軍の屋敷では、グレイス夫人として遇されている。その噂に両軍の兵士達は興味津々だ。
「本当にそうなら、面白い事になって来たぞ」
そう言って煽るものも居れば、
「何たる不祥事。大陸に名を轟かすお方ともあろう者が、敵将の女に手を出すとは!」
と、批判する者も居た。
そして、次のような話が出てくるのも当然だ。
「これはブランも黙っては居ないぜ。女が獲られたんだからな」
「ああ。これはどうしても獲り返さなくちゃ、虎将の名が廃るぞ」
「やるか?」
「やるに決まっている!」
酒の席では、このような会話が繰り返し行われている。
この事態に、バルバール王国軍総司令フィン・ディアスは頭を抱えた。話を聞くべくグレイスを呼び寄せた。
「噂を根拠に責める積りはない。だが、それが噂で済まず事実であるなら、ちょっと面倒になるね」
ディアスの後ろには影の薄さで有名な副官トルスティ。従者のケネスが控えている。グレイスは副官を連れずに1人だが、公式な査問ではなく、とりあえず私的に話を聞く。という態だ。
「そうですな。話半分ってところです。確かにアレット嬢は私のところに居ますよ。ですが、それだけです」
「つまり。男女の仲ではないと?」
「まあ。そういう事です」
「そうは言っても、それには、あまり意味はないかな」
グレイスが、その言葉を肯定するように笑みを浮かべて顎を撫でた。彼女と1つ屋根の下で暮らしているというのが事実ならば、男女の仲ではないと証明は不可能。真実ではなくとも事実として受け止められる。
「で、話は戻るが、どうして、そのアレット嬢を屋敷に置いてるんだい?」
「そりゃ、まあ、惚れた弱みってやつですんで」
ぬけぬけとしたグレイスの言葉に、流石のディアスも呆気に取られた。二の句が継げず、次の言葉を探すのにはかなりの時間を要した。どうやら、彼の知略はこの手の方面には、その能力を発揮しないようだ。選択された言葉は、極平凡なものだった。
「わざわざ敵将の女に惚れる必要はないんじゃないかな。女に困っている訳じゃないんだろ?」
大陸にその名轟く猛将グレイスの元には婚姻の話が山と積まれている。バルバール国内は勿論、何と、サルヴァ王子の口利きで、ランリエルの名門貴族のご令嬢を、という話まであるのだ。無論、バルバールの有力武将を取り込み、去就怪しいバルバールに足枷を付けるのが狙いである。
その他にもカルデイ、ベルヴァース。そして仇敵コスティラからすらも引く手数多だ。その意味では、かつてのディアスよりも選り取り見取りである。無論、ディアスが現在でも独身であったなら、サルヴァ王子は己の妹とディアスの婚姻を思案しているであろう。
「こればっかりは、数が居れば良いって訳じゃありませんからな。馬が合うってのは、自分でもどうにもならんもんです」
「探せば、もっと良い馬が見つかるかも知れないよ」
こういう場合、自分だったら妻と別れて他の女性と結婚してはどうか? と、問われたら。などは考えない。そんな事を考えていては総司令など、やっては居られない。そもそも、自分がされたから嫌だからしない。人にやるなら自分がやって見せろ。などという綺麗ごとが通じるならば、全ての軍人は、戦う前に自決しなければならない。
「確かに、そうかも知れない、かも知れませんな」
仮定の話には意味が無い。そう返されディアスも苦笑を浮かべる。そうなれば話の核心に触れざるを得ない。今までの話は、その核心を覆う着ぐるみのようなものだ。
「どうして、そこまでしてブランと戦うんだい?」
既に兵士達の間では、アレットを巡りブランと決闘する。その話で持ちきりだ。女を取り合っての決闘など高尚な話ではないが、大衆受けする事は請け合いだ。実際に決闘が行われれば、数年後には登場人物の名前を微妙に変えて戯曲として公演される事だろう。
そもそも、正式に申し込んでの決闘は、法的にも認められていた。その理由も、騎士の誇りを守らんが為。がまかり通る。アレット嬢を巡っての戦いも形式としては騎士の誇りの為の決闘と発表される。
そして、女を巡っての決闘ならば、万一グレイスが負けても、それで北ロタ軍を罰する事は無い。女を巡っての決闘など醜聞に近く、それ故に、北ロタを罰しては、戦勝国としての立場を利用しての報復とバルバール軍の名誉に傷がつく。以前より、ブランから決闘を申し込みやすくなったのは事実だ。
「5日。5日だ。それまでにアレット嬢をブランの元に送り届けるんだ。それが譲歩できる限界だ」
猛将は、名将を暫く見詰めた後、口を開いた。
「分かりました」
グレイスが部屋を出ると、ディアスはトルスティにある男を呼ぶように言った。やって来たのは極平凡な中年男だったが、引き締まった口元が意思の強さを感じさせる。
「ミルカ・オーケソン。お召しにより参上致しました」
北ロタとの停戦交渉を任されている男だ。駆け引きなどには長けてはいないが、この線だけは絶対に譲るなと命じられれば、他にどのような好条件を提示されても惑わされずに守り抜く。ぶれない芯の強さに定評がある。
他国との交渉は、例外的なものを除けば、トップ同士が膝を付き合わせて話し合うのは稀だ。通常は、事務方がトップの指示を受けつつ細部を詰め、トップ同士が会うのは内容がほぼ決まり誓約書に署名するだけの状態になってからだ。今回もリュシアンがディアスと直談判して停戦する事は決まったが、細部の交渉は事務方の役目である。
「以前、言った事は覚えているかい?」
「以前、で御座いますか? 停戦条件の事でしたら、北ロタ王ランベールを、こちらにお移し願う事と北ロタ将兵の武装解除を行った後の城の明け渡し。と認識しておりますが」
ディアスが小さく頷いた。バルバールからすれば、降伏したのならランベールを人質として出して当然と考えるが、北ロタとしては、主君を敵の手に委ねるのは騎士の名誉にかけて承服しかねる。また、北ロタも城の明け渡しは当然と認識しているが、武装解除は拒否だ。武装解除した後に攻められては弄り殺しになると懸念しているのだが、バルバールとしては、降伏したのなら武装解除は当然だ。
ディアスからしてみれば戦勝側の当然の主張を、北ロタは誇りや恐れと言った感情面で拒絶している訳で、折れる必要はないという指示だった。これまでは。
「ランベール王の身柄については条件から外す事にした。その代わりに武装解除は譲らなくていい。それでも、彼等がうだうだ言うなら、国王の身柄より、自身の安全の方が大事なのかと言ってやれ」
「ランベール王の身柄を得なければ、降伏すると言いながら抵抗するやも知れませぬが……」
確かに武装解除をしても、武器を手に入れる手段がない訳ではない。北ロタ王都を失っても、他の城に拠って再起を計るのも可能だ。
「なに。既に北ロタの主要な城や砦は、我が軍が掌握している。屋敷に毛の生えた程度の砦に拠って挙兵はしないさ」
「なるほど。かしこまりました。しかし、そうなのでしたら、なぜ……。閣下にはご深慮がお有りとは思いますが、方針が変更になった経緯をお聞かせ頂けますまいか。それによっては、交渉の道筋も変わって参りますので」
確かにディアスの言う通りなら、今までもランベール王の身柄に拘る必要は無かった。
「なに。そろそろ、こちらを片付けて皇国に目を向けなくてはならない時期と思ってね。時間に余裕があったから欲を出した。時間が無くなったから急ぐ。それだけの話さ」
「なるほど。かしこまりました。そういう事でしたら、それを念頭に交渉致しまする」
一礼して、退室しようとするオーケソンの背中にディアスが声をかけた。
「そうそう。実は、これは私の失態なのだが、余裕を持ち過ぎてね。思っていたより急いで皇国領に向かわないと行けないんだ。なので、交渉は急いでくれ」
「ははは。ディアス閣下ともあろうお方がですか。いや、これは失礼致しました。して、いつまでに交渉を終えればよろしいのでしょうか」
笑みを浮かべるオーケソンに、ディアスは、うむ、と顎を摘んだ。
「そうだな。交渉は3日で終えてくれ」
オーケソンの笑顔が凍り付いた。
リュシアンが執務室で決裁書に署名していると、その扉が叩かれた。現在、バルバール王国軍と停戦交渉を進めており、条件の詰めを行っているが、進められる部分は進めておかなければならない。その中には、城の明け渡しに備え、城内に蓄えられている物資を密かに城外に移す作業も含まれる。軍隊とは生産せず消費のみを行う組織だ。食う物を持って出ないと飢え死にする。
交渉が上手く行けば、物資は全て持ったまま城を退去出来るが、半分は残すと決まる可能性もある。ならば、10の内の2を城外に移しておけば、残りを半々にしても6が残る。この程度の小細工は当然だ。
入れ。とリュシアンが答えると、停戦交渉を担当する士官が現れた。バルバール側が、停戦条件の変更を申し入れて来たと報告に来たのだ。ちなみにバルバール側の交渉担当は文官だが、この者は武官である。軍事力で打ち立て日も浅い北ロタは、軍事政権の色が濃い。
「バルバールは、ランベール陛下の身柄には拘らない。と申しております。その代わりに武装解除には応じるように、と」
こちらが1つ妥協するから、そちらも1つ妥協しろ。交渉条件としては妥当だ。この士官も、バルバールの提案には不満はなさそうだ。リュシアンも了解するだろうという前提で確認に来た。という様子だ。
だが、意外にもリュシアンは考え込んだ。条件としては問題ない。問題なのはオーケソンが疑問に感じたように、どうして急に。という事だ。そして結論としては、急ぐ理由が出来たのだろう。というものにしか辿り付かない。
「いや。武装解除には応じぬ。ランベール陛下の御身は渡さぬ。武装解除もせぬ。それで交渉を進めてくれ」
「しかし、よろしいのですか? 向こうには、バルバールには譲歩させて、こちらは譲歩せぬのは、交渉としていささか……」
「バルバールは、明らかに交渉を急いでいる。武装解除と交渉の進展を交換。と考えれば、一方的な要求ではあるまい」
「それは確かにそうかも知れませぬが……」
この時点で、リュシアンもアレットがグレイスの元に居るとの噂は耳にし懸念はしていたが、それが交渉に影響しているとは夢にも思っていなかった。いくら有力武将の情婦といえど、身分としては一領民。それが国家間の交渉を左右するなど考える方がおかしいのだ。
結局、士官はリュシアンの返答を持って、再度、バルバールと交渉を行った。そして、その再返答の報告を受け、今度はリュシアンが絶句した。報告する士官も困惑顔だ。
「つまり、武装解除をしないのなら、ランベール陛下の代わりの人質を、という事なのだと思われますが……」
何と、バルバールはブランを将軍格待遇としてバルバール王国軍に所属せよと言って来たのだ。停戦交渉の条件として有力武将の移籍など前代未聞である。本人の意思を無視して移籍させても忠誠心など期待できるはずもない。
異常だ。リュシアンはそう感じた。常識外だから異常なのではない。リュシアンが知るディアスの策として異常なのだ。彼が知るディアスの策は常識的だ。彼の策が奇策に見えるのは、常軌を逸するほど常識的だからだ。
バルバールとその民を守る為にあるのがバルバール王国軍とその総司令。あまりにも常識的な考えだ。その常識を遂行する為には、他国がどうなろうと知った事ではない。他国の民に配慮した挙句、自国の民を失うなど、そんな馬鹿な話は無いというのがディアスの常識だ。凍える他人の子の為に、我が子の衣服を剥いで着せてやれば、無関係な第三者はその父を称賛するかも知れないが、子供に取っては酷い父親だ。
リュシアンは、ディアスの策を読める訳ではないが、ディアスの策を後から分析すれば、そのような傾向がある。
勿論、今回のディアスが出して来た交渉条件も、後から分析すればいつもの傾向の範疇なのかも知れない。それは否定出来ない。だが、それでも違和感が拭い切れない。これがディアスの策ならばブランを狙い撃ちにしたものだが、個人を狙い撃ちにする。というのもディアスの策らしくない。
これでは、まるで俺の策みたいじゃないか。
それから2日後、バルバールの将軍達が集められた。居並ぶ将軍達の前にディアスと、そしてその横には、彼より優に20サイト(約17センチ)以上は背の高い男が立っている。全身から獣気を発し、歴戦の将軍達の中にも気圧される者が居る。
「皆、知っているだろうが、北ロタ王国軍の将軍シャルル・ブラン殿だ。北ロタ王国と停戦する事となり、友好の証として、我が軍に将軍格として所属する事となった。仲良くしてやってくれ」
ディアスが紹介すると、ブランが小さく頭を下げた。彼等には不機嫌そうに見えたが、アレットが彼の顔を見ていれば、なに呆れているの? と、問うただろう。
どういう状況だ? と、将軍達の間にも微妙な空気が流れた。その中にはグレイスの姿もある。グレイスの顔には、はっきりと判別可能な呆れ顔が浮かんでいた。そして、その胸中でもブランとグレイスは同じ結論に達していた。
決闘してどちらが死のうが、ディアスは、残った方をバルバールの猛将として使えばいい。




