第288:復讐の女神
「ここがリンブルク兵駐屯地です」
そう言って案内役の皇国軍士官は足を止めた。
「ここが?」
狭い。柵で囲まれ、多くの天幕がありるが、フィデリアの目から見ても、1万人の駐屯地にしては天幕の数が少ない。この天幕の数では、1つの天幕で何十人もの兵が寝起きせねばならないのではないか。
やはり、これもリンブルク兵が降兵だからなのか。戦場の慣例なのか。そう思うと士官に問うのも躊躇われた。それに、この士官を責めたとて、彼に改善する権限がある訳でもない。後で、将軍に直訴すべきだろう。
しかし、それでもフィデリアの視線に士官は後ろめたさを覚えたのか目を逸らした。
「それでは、後ほど、また、お迎えに上がります。リンブルクのラングハイン将軍は、中央の大きな天幕にいらっしゃいます。将旗を上げているのですぐに分かるでしょう」
そう早口に述べると、士官はフィデリアに随行する騎士達に視線を向けた。彼等の代表である青年騎士が頷くと、それでは、と背を向けて足早に去っていく。
青年騎士が先行してラングハイン将軍の天幕に向かった。フィデリアらが到着すると、ラングハイン将軍を筆頭にリンブルクの将軍達が彼女を出迎えていた。やはり、将軍の中にも怪我をしている者が多い。
「まさか。こんなところに貴女が来てくださるとは、夢にも思いませんでした」
ラングハインらリンブルクの将軍達には笑みが浮かんでいるが、その笑みすら深く刻まれた疲労の影を消し去れないでいた。顔の筋肉すら力尽きているのか、過酷な戦場で過ごしているにもかかわらず、彼女の記憶にあるよりも覇気なく弛んでいる。
「いえ。貴方がたのご苦労を思えば……。先ほども皇国軍の士官に聞きましたが、他の軍に比べ、大変な任務を任されているとか。私が要らぬ事をした所為です。申し訳ありません」
フィデリアが頭を下げた。馬車で揺られている間に少し解れたのか、綺麗に結われているはずの髪が一房頬に垂れた。その姿に随行の騎士達が驚いたように顔を見合わせている。正妻ではないとはいえ、彼女の夫は皇帝に準じる権力を持つ副帝。それが、降兵の将に頭を下げたのだ。
フィデリアの謝罪に、ラングハインらリンブルクの将軍達が一瞬目を閉じた。フィデリアがその意味を問おうかと口を開ける寸前、ラングハインは瞼を開き、こちらへ、と天幕の中へとフィデリア達を招きいれ、彼女は問う機会を逸した。
流石に軍議にも使用する本陣の天幕だけあって、10名以上が入っても広々としていた。調度品も整えられていて不自由はなさそうだ。1万人という人数に比べて少ない数の天幕。そのように酷い扱いを受けていると考えていたフィデリアには少し意外だった。
従者にお茶を運ばせて席に着いた。普段は戦場の地図が広げられている大きな机に紅茶の香が広がる。戦場の事。用意されたお茶も高級品とは言い難かったが、フィデリアは気にした様子もなく口に付けた。茶の品質が悪いと自覚している将軍達は、フィデリアから、こんな物は飲めませんと拒絶されないかと内心、びくびくしていたが、彼女が口を付けたのに安心して、自分達もお茶を啜った。
一息ついた頃、フィデリアがカップを置いた。皆の意識を向ける為、あえてカチリと音を鳴らした。
「ここには1万人のリンブルク兵が居るはずですが、私などから見ても、それにしては天幕の数が少な過ぎるのではと思います。もし、私の思い違いでないならば、待遇を改善するように、私から申し出たいと思うのですが。勿論、ご迷惑でなければですが……」
下手に自分が口を出せば、リンブルク兵の立場が余計に悪くなるのでは、という気遣いまでした彼女らしい丁寧な言葉だ。
しかし、ラングハインは沈黙した。他の将軍達も俯いているばかりだ。言葉を捜しているのか目を瞑り口を閉ざしている。それは長く続き、フィデリアに随行する青年騎士の1人が、溜まりかね椅子を飛ばして席を立った。
「貴様等! フィデリア様が、折角、ああ仰って下さっておるのだ。礼も言えぬか!」
怒声を発し、腰の剣に手をかけた。他の騎士達も、やはり苛立っていたのか椅子から腰を浮かして剣に手が伸びる。彼等とて、フィデリアが可愛がっているだけあって、性根の悪い者達ではない。だが、それもあくまで皇国の貴族としてだ。
階級は上の皇国軍士官に対しての口ぶりなど、皇国の名門貴族の子弟としての特権意識は、血肉のようなものだ。ましてや一方への盲信的な尊敬と憧憬は、それを解さぬ者達への敵意となる。降兵の将如きが、女神の言葉を無視するとは言語道断だ。
「お黙りなさい!」
フィデリアが青年騎士に一喝し、
「ラングハイン将軍。失礼しました」
と深く頭を下げた後、再び青年騎士に向き直った。
「貴方は、部屋から出て聞きなさい。他の者達もです」
「し、しかし、フィデリア様――」
青年騎士が、剣に手をかけたまま抗議の声を上げる。
「黙りなさいと言っているのです!」
再度、フィデリアに叱り付けられ、騎士達は不満げながらも剣から手を放し、椅子に座ろうとしたが、
「出て行きなさいと言っているのです」
と、強い口調で言われ、しぶしぶ部屋を後にしたが、その時、鋭い視線で将軍達を睨みつけていった。
彼らが居なくなると、改めてフィデリアが頭を下げた。
「申し訳ありません。ご無礼な事を。やはり、戦場を知らない私が口を出しても、貴方がたにはご迷惑なのですね?」
騎士達の前では、自分の申し出を断りにくいので黙っていた。そう推測し、騎士達を追い出したフィデリアだったが、それでも、やはり、ラングハイン達は黙ったままだ。
「私は、何を言われても気にはしません。どうか、ご本心を仰って下さい」
ラングハイン達は沈黙している。フィデリアは待った。長い沈黙の後、意を決したようにラングハインが口を開いた。
「天幕は十分、足りております。フィデリア様のお心を悩ませる事ではありませぬ」
ラングハインは淡々と言い、長く待った挙句のその言葉にフィデリアは拍子抜けした。そして、長く待っただけに無意識に食い下がった。
「そうなのですか。私にはよく分からないのですが、あの天幕の数では1つに何十人も寝起きしなくてはならないと感じたのですが、意外と大勢の方で使えるのですね」
「いえ。そうではないのです。今、ここにリンブルク兵は、2千ほどしか居ないのです」
「そうなのですか? しかし、例え2千人だとしても、もう少し……」
そこまで言って将軍達の顔に浮かぶ深い悲しみに気付いた。何か、おかしいのだろうか。
「そういえば、その残りの8千人の方々は、どちらにおいでなのですか? 別のところにいらっしゃるならば、そちらにも行かせて頂きたいと思うのですか」
「いえ。そうではありません。ここに居る兵ですべてなのです」
ラングハインが拳を握り締め呻くように言った。フィデリアの背筋が凍り付き、身体の中に何か’気持ちの悪いもの’が蠢いた。だが、それでも確認しなくてはならない。
「それは……どういう、意味なのでしょうか」
ラングハインは更に強く拳を握り締めた。その力に身体が耐え切れないのか、みしみしと骨が鳴った。
「1万。1万人いたのだ。それが……それが2千に。2千になってしまった。2……」
それ以上は言えなかった。強く噛み締められ、今度は歯が鳴る。それはラングハインの口からだけ漏れているのではなかった。他の将軍達の口からも歯軋りと、嗚咽が漏れた。
降兵は先鋒を任される。それは当然だとラングハインも分かっている。先鋒は死ぬ確率が高い。それも分かっている。だが、最善を尽くし結果的に多くの者が死ぬのと、死ぬと分かっている作戦を強いられるのとは大きな隔たりがあった。
「敵の意表を突くべきだ」
防備の弱いところを攻めるのが常道だが、堅牢な箇所ならば、逆に手薄かも知れない。皇国軍の将軍の、思いつきのような作戦が実行された。リンブルク兵は、堅牢なセルミア王都城壁の前に屍の山を作った。作戦失敗の後、駄目だったか。皇国の将軍は、遊戯に失敗したかのように言った。
フィデリアの頭に熱い何かが駆け巡った。爆発しそうになるのを押さえつけるように頭を抱えた。
「2千……だけ。は、はち……」
両手の間で、女神とも称された美しい顔が奇妙に歪んだ。細く長い頭を掻き毟る。
2千が8千に。違う。8千居ない。どこに? どこにも。どこにもいない。死んだ。死んだのだ。8千が。2千に。いや、1万。死んだ。2千人だ。そうじゃない。8千人だ。8千人がどうしたのだ? 死んだ。死んだのだ。何人が。8千。どうして? どうしてなの? ここに来たから? どうしてここに来たの。どうしてこんなところに。私が。私が彼等を。私は何をした? 何をしたのか。降伏させた。8千。1万。それを私が降伏――
不意にフィデリアの頭がすとんと机に落ちた。頭を、机に強く打ち付けてもよさそうなものなのに、不思議と音はしなかった。音も無く倒れたフィデリアに将軍達は駆け寄ったが、脈などを調べても気絶しているだけのようだ。
あまりにもの精神の負荷に脳が活動を停止したのだ。もし、気絶せず、その負荷を受け止め続けていれば、彼女の精神は崩壊し発狂していたであろう。
フィデリアを囲んだ将軍達が、どうしたものかと顔を見合わせた。言えば、彼女に衝撃を与えるとは分かっていた。しかし、彼女は返答を求め続け、こらえきれずに現状の悲惨さを訴えたが、まさか失神するとは予想外だ。
とりあえず、机の上に横たえた彼女を将軍達が囲んでいる。
「どうする? 表の騎士達を呼ぶか?」
「しかし、下手に呼ぶと、我等が何かしたのかと、面倒な事になりかねんぞ」
「気絶しているだけだしな……」
「とはいえ、いつまでもこうはしておれまい」
「もう暫く待って、目を覚まさなければ表の奴等を呼ぶ事にしよう」
「しかし、いつまでも待っては居られんぞ」
「それは、そうなのだが……」
しかし、彼等の心配は杞憂に終わり、フィデリアは思いの外、すぐに目を覚ました。しかし、起き上がるなり、また、頭を抱え呟き始める。
「私……が、私が、貴方達を。8千もの人が……」
ぶつぶつと呟く彼女に、ラングハイン将軍が慌てて駆け寄った。両肩を掴んで自分の方を向かせて落ち着かせようとする。しかし、彼女の瞳は焦点が合っていないのか、顔はこちらに向いているにもかかわらず、視線は交わらなかった。
「フィデリア様。申し訳ありませぬ。フィデリア様のお心を傷付けるとは知りながらも、つい……」
だが、それでもフィデリアは、8千。死んだ。私が。と繰り返し呟くばかりだ。ラングハインが堪り兼ねて強く揺さぶると、不意に、ラングハインの首に抱きついた。
「申し訳ありません。私には、このような事しか出来ません」
ラングハインの耳元で囁く。以前にも聞いた言葉だ。その後、彼女を抱いた。しかし、その時は部屋に2人きりだった。彼女が、他の将軍達とも身体を重ねたのは知っていた。多くの者が死んだ。将軍の中にも死んだ者が居る。
多くの者が死んだ戦場の日々で、今までで、何が一番の思い出だったか。と、誰かが言い出した。そして、実は、フィデリア様を抱いた時だ。と、1人の将軍が打ち明けると、実は、俺もだという者が居た。結局、全ての将軍がフィデリアと身体を重ねていると分かった。嫌悪感は抱かなかった。そうなのか。と、納得すらした。あの方らしいとも思った。
その時の言葉をフィデリアがまた囁いた。夢にまで見た。夢の中で彼女を抱き、朝、下着が濡れている事もあった。この過酷な戦場をこれまで生き抜いてこれたのは彼女との思い出があったからだ。
そのフィデリアの身体が腕の中にある。しかし、今は他の者達がいる。そして、フィデリアの囁きは、他の者にも聞こえた。彼らも同じ思いだ。夢にまで見たフィデリアの身体だ。
今、ここでするのか? 自分達は部屋から出た方が良いのか? 順番か? 自分の番は回って来るのか? 将軍達が、反射的にそんな事を考えていると、ラングハインに抱きついたフィデリアが、将軍達に顔を向けた。
「お願いします。貴方達も……」
貴方達も? どういう意味だ? やはり、順番で全員なのか? 自分の番は回って来るのか?
「このままでは、私は狂ってしまう。お願いします。皆で……」
あまりの衝撃に彼女の精神は逃避を求めている。それを理解した。そして理解と共に将軍達の理性が吹き飛んだ。一斉に女神に群がり、一瞬後には、女神は全ての衣服と剥ぎ取られ、美しい裸体を晒した。
男達が女神に群がる。
私は何をしているのだろう?
なぜ、こうなった?。
あいつだ。あいつの所為だ。男達に囲まれながら、フィデリアの脳裏に一人の男の姿が浮かぶ。
いつしか、男達は、精も根も尽き果てたように地面に座り込んでいるフィデリアも机の上に横たわっていたが、ゆらりと上半身を起こした。片膝を立て、それを抱えるように座った。美しかった黄金の髪はあるもで濡れていた。
「貴方達の力を私に貸して下さい」
長い睫まで濡れていたが、その奥の瞳が青く燃えている。言葉を発した口元も濡れ光る。その異様な姿は鬼気迫り歴戦の将軍達は魔物に魅入られたかのように跪いた。
「あの男は、アルベルド・エルナデスは、私が必ず殺します」




