第287:女神、前線へ
その日、グラノダロス皇国副帝アルベルドの実質的な妻と目されるデル・レイ王国国王ユーリの実母フィデリアは、デル・レイ王国王都バリュースから馬車を走らせていた。女神と称される美貌を持つ彼女も、既に40を超えるが、その美貌はいささかも陰りない。確かに実年齢よりは若く見えるが、20代に見えるというほどではない。だが、美しい。美しく成熟した女性。
その彼女がデル・レイ王都を出発し、どこを目指しているかと言えば、奇しくもアリシアと同じように前線であった。だが、違いもある。アリシアが夫に会いに行ったのとは違い。彼女が目指したのは夫(という事になっている)アルベルドの元ではない。アルベルドの帰国と入れ違うように前線に向かったのだ。
彼女が前線に向かうのを快く思わなかった者は多い。女性の身で前線に向かうのは危険だ。という尤もな理由は、アリシアが黙って皇都を抜け出さざるを得なかったのと同じものだ。
しかし、フィデリアは出国を強行した。彼女には、リンブルク兵と対峙するカリチェ山に向かった前科がある為、密かに出国するのは監視が厳しく困難だった。それで許可を得て出国しようとしたが官僚は大反対した。
ところが国政を預かる大臣の多くがフィデリアを支持したのだ。
「フィデリア様は、前線で疲労、負傷している兵士を慰問なさるのだ。その御心を知るに至れば、反対する事は出来ぬ」
勿論、このような綺麗ごとが通じるならばアリシアとて密かに出国する必要はなかった。フィデリアに大臣達が味方をしたのは、全員がフィデリアと深い仲だったからに他ならない。勿論、全員が自分だけと思い、他の者まで賛成したのは意外だと感じた。
傍から見れば、他の者も彼女と関係を持っているのだと気付きそうなものだが、彼等の心には女神フィデリアという眩い姿が刻まれている。その女神が自分以外の男と浮気するはずがないのだ。
そうして出国の許可は強引に得たが、問題はその日程だった。
「お聞きしているアルベルド陛下の前線視察の御日程だと、今から前線にお向かいになるとアルベルド陛下とは入れ違いになってしまいます。フィデリア様が前線にお向かいになるとアルベルド陛下にお伝えし、陛下のご帰国を伸ばして頂いた方がよろしいのでは」
実務の段階になって、官僚達からこのような意見が出た。フィデリアとアルベルドは愛し合っている。そう信じている者達からすれば当然の配慮だ。
「それでは、私からアルベルド陛下に手紙を出して置きましょう」
フィデリア自身が手紙を出すという言葉に官僚達はほっと安著の溜息を漏らした。皇国で最大の権力を持つ副帝アルベルドに、その妃が来るのを伝えないとなればこちらの手落ちになるが、その一方、帰国を遅らせるように進言する。というのも副帝に対し非礼になるのではと危惧もしていたのだ。
絶対的権力を持つ者の気分を少しでも害すれば命にかかわるのが専制君主制の世だ。聖王と名高いアルベルドとて、もしかしたらという恐れがある。アルベルドが何も言わなくても、勝手に気を回す官僚も居る。官僚如きがフィデリアを罰せるはずも無く、危険をフィデリアが引き受けてくれるならばと胸を撫で下ろした。
だが、フィデリアはユーリにアルベルド陛下にお手紙を書いて差し上げなさい。と言いつけ、その手紙を皇都に送ったのみで、自分は手紙を書かなかった。ユーリの手紙のみを持ったフィデリアの命でデル・レイ王都から皇都を目指して出発したのを、前線に向かうのだと閣僚達は考えたのだ。後に、フィデリアが帰国した後になって、この問題が発覚したが、手違いでした。とのフィデリアの一言で不問となった。
こうしてアルベルドと入れ違う形で前線に向かったフィデリアだったが、ここでも閣僚達が予想していたものとは違う行動を取った。一言に前線と言ってもランリエル勢と対峙する範囲は広域にわたる。だが、官僚達は、フィデリアの言う前線を皇国軍本陣を指すのだと信じて疑っていなかった。
デル・レイから南東に進んでいたフィデリアを乗せた馬車は、ランリエル軍本隊と対峙する皇国軍本隊の手前で更に南に進路を変えたのだ。その先にはセルミア王国王都があり、皇国側の軍勢が包囲していた。
何十年と水を防いでいた堤防が一夜の大雨で決壊するように、守りの堅い要害への攻撃も、毎日続けるよりも力を溜めて一気に攻めるのが効果的だ。フィデリアがセルミア王都を囲む皇国軍陣地に向かったこの時期、その力を留めている時だった。
「フィデリア様。初めからリンブルク兵を慰問なされるお積りだったのですか?」
馬車の警護には多くの騎士が動員されて車内にも同乗している。その内の1人の青年騎士がフィデリアに問うた。以前にリンブルク兵がカリチェ山に立て篭もり、フィデリアが彼等を説得した時にも同行した者だ。その後、フィデリアの独断に加担したとして処罰されそうになったが、自分の言い付けに従っただけと彼女が庇ったおかげで処罰は免れた。それどころか役目も罷免されなかった。
「ええ。私の軽率な行いの所為で、彼等をこのような場所に連れてくる事になってしまいました。現状を見て、彼らが不当な扱いを受けているならば、それを正さなくてはなりません」
初めからそれを公表しては、皇国の方針に異を唱えるのかと流石に大臣達も青くなってフィデリアを止めただろう。それ故、直前まで行き先すら秘密にしたのだ。
「なるほど。流石フィデリア様です。あのような者達にもお心を配られるとは」
フィデリアは僅かに表情を曇らせたが青年はそれに気付かない。この青年には、まったく悪気はない。皇国、しかも、皇族警護を任じられる青年騎士ならば、名門、有力貴族の子弟と相場が決まっている。その者達からすれば、他国の者など全て’あのような’者だ。
「あの方達の為だけではありません。強いて言えば、自分の為です」
「フィデリア様、ご自身の為、と仰るのですか?」
「はい」
青年騎士の問いに短く答えた。説明するのが煩わしかったのではない。説明しても分かって貰えない。そう考えた。青年騎士は会話が中途半端になったように感じたのか、続く言葉を求める視線をフィデリアに送った。しかし彼女は、それには答えず話題を変え、そうしている間に、馬車は目的地に到着したのだった。
セルミア王都を包囲する皇国軍と一言に言っても、正確には皇国連邦軍というべきもので、皇国衛星国家の軍勢も参加し、彼女が目指すリンブルク兵駐屯地は、その一角を占めるに過ぎない。
数の上では衛星国家の軍勢より皇国軍の方が少ないが、統括権限は当然のように皇国軍将官が握っている。フィデリアは、その将官からの挨拶を受けた後、士官の案内でリンブルク兵駐屯地を目指した。士官は背が低いが、その分ずんぐりとし筋肉の量は多い。手足も短いが、それを補うように腰に下げた剣は通常の物より10ミール(約8センチ)ほど長い。戦場では、その10ミールが生死を分ける。手の短さを考慮しても、他の者より間合いは広そうだ。
当然、長ければ使いこなすのは難しいが、それを使いこなす技量と力を持つこの者は、軍の中核を担う勇者なのだろう。フィデリアは気付かなかったが、見る目のある者から見れば、甲冑を付けてなお軽いその足の運びに目を見張っただろう。
女神フィデリアが来た。将兵がそれを知れば大騒ぎになるのは前回の経験から分かっている。しかし、今回はそれほど大事にはしたくなかった。そのため彼女は、一部の者を除いて、自分が来た事は隠していた。
鍔の大きな帽子で顔を隠し、大仰に見えないように随行の騎士もあえて少人数にした。将兵には、ある将軍の奥方が夫に会いに来るらしいが、妻を戦場に呼ぶのは皇国軍上層部には秘密なので見て見ぬ振りをするように、との通達を出している。それ故、兵士達も彼等が通過しているのは分かっていても跪いたりはしない。普段通りに振舞っている。
傭兵を雇わず自国民のみで編成するのが皇国軍の特徴だ。そして、輸送などに使う人夫はともかく、兵士には農民を招集せず職業軍人で編成するのは、バルバールなどを除き、この大陸のほとんどの国が採用している軍制である。
とはいえ、雑兵の多くは、やはり相続する田畑のない農家の次男や三男坊。訓練を受けて戦場では毅然としていても、このような日常になれば地が出る。甲冑も身に纏わず下着姿で木陰で寝そべる者や、戦友と談笑していても、時折、上げる笑い声に品が無い。護衛の青年騎士が堪り兼ねてフィデリアに近づいた。
「フィデリア様。あちらを見てはなりません。お目を汚します」
と、あちらを見てはいけません。こちらを見てはいけません、と一々囁く。
フィデリアにしてみれば、私を生娘か何かと勘違いしているのかとも思うが、特に見たい光景でもないので言う通りにしている。
「戦地というので、もう少し殺伐としているのかと想像していたのだが、将兵も随分とのんびりとしたものだな」
各国の軍の駐屯地は、それぞれ若干離れている。その切れ目に来たのか、兵士達の姿がまばらになると青年騎士は案内する士官に率直な感想を漏らした。士官の方が幾分年上であり、階級も上なのだが、そこは封建社会の身分の差というものがある。有力貴族の子弟である彼の方が’立場’は上なのだ。
士官の方も、それが当然のように丁寧な物腰だ。この者もフィデリアの案内を命じられるのだから、身分卑しからぬ者であるはずだ。しかし、だからこそ貴族社会の現実が身に染みている。
「はい。現在、攻勢に向けての休息期間ですので、兵達も身体を休めています。勿論、見張りは厳重にし敵襲には十分に備えております」
各国の軍勢の大半は後方に下がって集結し、最低限の包囲兵のみを持ち回りで担当している。という状況だ。そして、日を決めて大攻勢をかけるのだ。
「なるほど。それで、次の攻勢日はいつなのか?」
「え、と、そうですね……」
その問いに士官は口篭った。答えを知らないのではなく、問われた事、事態に戸惑っている。
「これは失礼した。機密事項だったか。いや、フィデリア様がご慰問なさるに、どの程、日数に余裕があるのか知りたかったのだ」
「なるほど。確かに、それならばお知りになりたいのも当然。分かりました。後で将軍に、お伝えして良いのかお伺いしておきます」
「よろしくお願いします」
その会話を耳の隅に引っ掛けながら、フィデリアは兵士達の様子に安心した。青年騎士が言ったように、もう少し殺伐とし、多くの怪我人が出ていると予測していたのだ。
実際の戦場では一般的に考えられているほど人は死なない。1万の軍勢が全滅した。と聞けば1万人が死んだと考えてしまうものだが、実際には2、3千人が死傷したというものであり、死者と限定すれば数百人程度だ。そして、それを考慮しても皇国軍の被害は少なそうである。
次の駐屯地の近くに差し掛かったのか、また同じような兵士達に遭遇した。同じように青年騎士が一々フィデリアに囁く。それにはフィデリアも少しうんざりした。そもそも、この青年は、何度も自分と’色々な事’をしているのだ。どうして、その自分を生娘のような純真な女と思い続けているのだろうか。男とはそれほど愚かなものなのだろうか?
フィデリアはそのような事を考えながら、’元気な兵士達’の間を進んでいたが、次第に違和感を覚え始めた。何気に他の者達に視線を向けると、彼らも何か気にかかるのか落ち着き無く視線を泳がせている。しかし、フィデリア自身、その違和感の答えを出せない。漠然と何か空気が重い。そう感じるのだ。
だが、歩を進ませている内に、その違和感の理由が段々とはっきりとしてきた。リンブルク兵駐屯地に近づくにつれ、目に見えて怪我人が多くなっている。まだ駐屯地域には入っていないが、木陰で休む兵士達に、血の滲む包帯を巻いた者が多い。中には手足を欠損している者も居る。
「あの……あの方々は、リンブルク兵なのですね? 他の方々より、その……怪我人が多いようなのですが」
フィデリアが控えめに問うと、彼女の言葉に非難の色が含まれているのを感じた皇国軍士官が歯切れ悪く答えた。
「確かにリンブルクと皇国は和解致しましたが、それでもリンブルク兵は降兵という扱いですので……。降兵は、先鋒を務めるのが戦場の慣例。先鋒の被害が大きくなるのは致し方ありませぬ」
「そう……ですか」
士官も後ろめたさがあったのか、慣例での決まりなのだ。との逃げをうち、そして、そういわれれば、確かにフィデリアも次の言葉が無かった。




