第286:夫婦2
現在、グラノダロス皇国の実権は、副帝アルベルド・エルナデスが握っている。その地位には現皇帝のカルリトス帝が成人するまで。だが、その後もアルベルドが実権を握り続けるのではないか。そのような話も出てきている。その種はユーリの存在だ。
つい最近までアルベルドに跡継ぎとなる王子どころか王女すらいないと思われていたが、突如としてフィデリアの息子ユーリがアルベルドとの子である。と公表されたのだ。
「確かにアルベルド陛下は、カルリトス陛下が成人なされれば副帝の地位から退くとは仰った。それを違えては自らを討て、とまで仰った。しかし、副帝の地位を廃止するとは仰ってはおらぬ」
「自分は退位し、ユーリ様を後任に据えられ裏で権力を握る。あり得ぬ話ではありませぬな」
公式な意見ではない。噂である。皇国は皇祖エドゥアルドにより、国家としての体制、制度が他の国々より整えられている。国家の近代的法整備という面で見れば、ランリエルなど皇国に比べれば遥かに遅れているのだ。
この大陸全土をその支配下に収める事も可能だったエドゥアルドは、あえて現在の支配地域までで勢力の拡大を抑えた。歴史上の戦争の天才達が爆発的に領地を拡大した反面、自身の死後、極短期間に支配地域が分裂した事を思えば、彼がただの戦争の天才なのではなく治世の天才でもあった事が分かる。
エドゥアルドは、自身の死後も皇国が存続する体制を作り上げた。皇族の権力を代替の利くものとせぬ為、建国の功臣を国王に取り立てても、自身の息子は誰一人として国王とはしなかったのである。皇太子といえど、皇位を継ぐまでは自身の領地はない。
権力は皇帝1人に集約する。故に分裂は起こらない。たとえ、後継者争いが起こったとしても勝者1人が全てを得る。敗者は全てを失うのである。政争に敗れた者が、己の領地で軍勢を整え内乱を起こす。などという事はないのだ。
だが、唐突に擬似皇帝とも言うべき副帝という想定外の存在が出現した。エドゥアルドも想定しえぬ法の抜け道。皇祖は副帝などというものを定めなかった。無いものへの対策など存在しない。副帝という地位を作ってはならない。そのような法を作らなかったと責めるのは酷だ。それに、そのような法があったとしたら、アルベルドは別の手段で皇国の権力を握っていたに違いない。
そして、実はアルベルドが副帝の地位をユーリに譲るであろうという噂自体が、アルベルドが流させたものだった。噂さえ流せば、アルベルドの信奉者達が勝手に広めてくれる。それが彼等の願望に叶うからである。
しかも、息子に地位を譲って後ろで操ろうなど姑息な。ならば、カルリトス帝が成人しても理由を就けて己が地位に留まるほうがまだ潔い。という風説まで流した。これにはアルベルドに反発する者達が引っかかり、全くその通りだ! と陰口を叩くが、それこそがアルベルドの望むところ。
副帝の地位を息子に譲るくらいならば。を経て、最終的には、副帝などといって皇国の実権を握るならば、いっそ皇帝を名乗ればよい。それを敵対する者達にすら自然と思わせる。それがアルベルドの狙い。噂。というものは誰も責任を取らぬ。噂を根拠に責められる事も稀にはあるが、馬鹿な。と一笑にふせば済む話だ。
勿論、噂だけでは、確かに何の責任もないが、実行の根拠にもならない。噂はあくまで下地。その下地の上に実績という華麗な楼閣を築いてこそ事実が付いて来るのだ。ランリエルを打倒する。それがアルベルドの実績となるのだ。
その日、フレンシスは前線から帰国した夫をグラノダロス皇国皇都バルスセルスで出迎えた。デル・レイ王国王妃であった彼女だが、既にデル・レイの王位はユーリに移っている。ならば、現国王の国母として影響力があるかと言えば微妙な立場だ。
ユーリを養子としている為、公式には国母ではあるのだが、ユーリの実母フィデリアの存在も無視できない。ユーリは聡い子であり、フレンシスを母として尊重するように振舞っているが、それで実母への愛情が消滅する訳ではないのだ。
「ユーリ様が賢明なお方とはいえ、実母を蔑ろにはすまい」
「聡いお方だかこそ、我が母を蔑ろにしないともいえますな」
「いかにも。公的にはともかく、実際にはフレンシス様よりもフィデリア様のお立場がお強くなるでしょうな」
取り入るならばフレンシスにではなくフィデリア。皇都の社交界では、そのような会話が平然と交わされていた。
だが、現実として副帝アルベルドの正妻はフレンシス。その日、副帝アルベルドはランリエルとの戦線視察から帰国した。それを出迎えるのは彼女の役目である。
「ご無事で何よりで御座いました」
フレンシスが城門までアルベルドを出迎え膝を折った。その背後のは文武の高官が控えている。白い愛馬から降りてその言葉を受けたアルベルドが、手綱を従者に渡しながら応じた。
「なに、ランリエルなど我が皇国の前には手も足も出ぬからな。縮こまっている奴等を眺めてきただけだ。王妃には何の心配も要らぬ」
荘厳な権威付けをなされた皇帝とは違い、気さくなアルベルドの態度に高官達からも笑い声が起こった。副帝はあくまで皇帝の代理。その代理が皇帝と同じような態度を取れば反発も出てくる。少なくとも今暫くは自重すべきだ。そして、この手の気さくさは自身の不利にはならぬ事もアルベルドの計算にはある。
「ユーリからも、お父様へと手紙が届いております。後で部屋までお持ち致しますわ」
「ほう。ユーリからか。後で読ませて貰おう」
2人は並んで私室へと向かい。それを高官達が見送った。戦争は継続している為、凱旋帰国ではないが、この後には有力貴族を招いた小宴が計画されている。勿論、皇室の行う小宴は、他国の大宴に勝る。正式な帰国の挨拶はその場で行う予定であり、それまで私室で疲れを落とす。という段取りだ。疲労を考えれば、宴は翌日に回しても良いのだが、精力的に働く副帝。という評判もアルベルドの資産である。
「お疲れ様で御座いました」
ドゥムヤータ胡桃の扉を潜ると、改めてフレンシスが挨拶を行った。余人のいる場所でのやり取りなど、この夫婦に取っては全て演技である。真に向き合ったなら、改めて挨拶が必要だ。演技ではなく心から睦まじい夫婦でありたい。そう願うフレンシスすら、このやり取りにはもう慣れた。
アルベルドは、返事すらせず長椅子に足を投げ出し横たわった。目を瞑り宴の前の休息を取る。それ自体は当然な行為だが、傍に誰も居ないかのように無機質だ。その冷たく閉じられた瞼の裏の瞳を透かして見ようとするかのようにフレンシスが見詰めている。
夫は、この大陸で最大の権力を手に入れた。現在、ランリエルという国と戦っているが、皇国が負ける筈はなく、間違いなく勝つ。その実績を背景に一時的であるはずの己の権力を永遠のものとする。
皇国に住む者でランリエルに負けると考える者は誰1人として居ない。それは傲慢ではなかった。ただの常識だ。まだ立ち上がれもせぬ幼児と戦って勝てる。と確信するのを傲慢とは言うまい。
確かに前回の戦いでは勝てなかった。被害の建て直しに取り組んでいるのも確かだ。しかし、あくまで勝てなかったのであって負けたのではない。あのまま戦い続けていれば皇国が勝っていた公算が高いのだ。事実そうであり、皇国内ではそれが大きく宣伝されていた。故に、フレンシスも夫はランリエルに勝つ。それを確信している。
夫は皇位に就く。そう考えている。皇国内でも、もしかしたら、と考える者は多いが、フレンシスは、それらの者より多くのものを知り、故に確信も深い。夫は、聖者の顔の裏に邪なものを宿している。それを知っている。裏のある善意が、無償のものであるはずがない。
夫は破滅するかも知れない。知性を働かせた結果の結論ではない。言うなれば、皇国は不滅なり。という産まれてからこれまで植えつけられてきた価値観による漠然とした予感だ。その不滅の皇国を簒奪しようとして上手く行くはずがない。という思い込み。とも言える。だが、彼女に取っては予測可能な未来。
私は夫の盾となる。夫がそれを望まなくてもだ。それを行って夫が感謝してくれるとも思わない。ただ夫を守る。そう決めたのだ。
夫は、私をどう思っているのか。私を愛してくれている。そのはずだ。そう信じる。夫は私にだけ冷たい。下々の者達にすら慈悲の心で接する夫がだ。自分にだけは本性を表す。自分に心を許してくれているからだ。
馬鹿だ。馬鹿な考えだ。分かっている。本当に愛してくれているならば、大切にしてくれるはず。他の者達と違い冷たくされているから愛されている。あまりにも馬鹿げた話だ。分かっている。分かっているのだ。
夫の顔を見詰め続ける妻も視線を知ってか知らずか。アルベルドは目を瞑り、身体の疲れを癒しながらも、その頭脳は活発に活動していた。前線への視察の結果を分析し、導き出された結論はサルヴァ王子が考える戦況とほぼ同じだった。つまり、このままの状況が続けば勝利する。
だが、相手はサルヴァ・アルディナ。油断は出来ぬ。幾度も奇策を駆使して常識を覆して勝利した。このままの状況。というものを座して待つ男ではない。
尤も、そのサルヴァ・アルディナの奇策も戦術、戦略、政略に及ぶが、実は戦略レベルでの奇策が一番不得手。そもそもが戦略的な奇策というのは実行しにくいものだ。戦術では、準備も短期間で済む場合が多い。一瞬の行動で決する場合も多い。政略も秘密裏の交渉や電撃的な会談で決する。つまり、それだけ露見しにくい。だが、戦略は違う。
サルヴァ・アルディナはタランラグラを南北に縦断する運河を建設するという非常識な工事を行った。運河を作るといえば、本来は最も対岸の海との距離が短い地点で行うのが常識。それを、最も長い距離の箇所に運河を建設した。皇国は、その地点での運河の建設など夢にも考えなかった故にサルヴァ王子の奇策は成功した。タランラグラ全土がランリエルの勢力圏にあった事も利した。そのような条件は稀だ。本来、戦略レベルでの奇策は、軍を移動させるのにも日数を要し露見しやすい。
アルベルドには、各地に信奉者が潜伏している。彼等はアルベルドの業績、名声を尊敬し、崇拝者を経て盲信するに至った者達だ。アルベルドが副帝の地位に就いた時に、やはり、アルベルド・エルナデスとて権力を欲するのかと、多くの者が脱落した。しかし、残った者達は、だからこそ不純物が取り除かれた強固な支持者だ。
アルベルド自身、意図せぬ場所に自然発生的に産み出される為、その把握には手間取ったが、現在では組織化が進んだ。ランリエル勢の軍勢の動きは、ほぼ丸見えなのだ。
潰す。サルヴァ・アルディナが如何な奇策を弄そうとも、その動きは丸見えだ。軍勢の数では皇国勢が多く、相手の動きさえ見えれば、その手当てをする余裕は十分にある。後は、戦術での奇策を警戒するだけだ。
後、もうすぐだ。ランリエルを倒せば、皇国内にも自分に逆らう者は居なくなる。皇国は一度ランリエルに敗れた。至高の名声に傷が付いた。そのランリエルを打倒し、グラノダロス皇国は至高なりと改めて証明する。
比類なき功績を立てた副帝に報いる為に、皇位を禅譲した聡明な皇帝としてカルリトスの名誉も保ってやる。その筋書きに誰が異を唱えるのか。皇国は中興の祖アルベルド・エルナデスによってその威光を取り戻し、現皇帝の名誉も守れる。誰もが幸せではないか。
母上……。もうすぐだ。もうすぐ全てを手に入れる。母上を死に追いやった奴らが至上のものとしていた皇国。それを母上の命を奪った奴等から奪うのだ。
前皇帝の長兄パトリシオは殺した。次兄ナサリオは、皇帝殺害の汚名を得て惨めな最後を遂げた。母上を殺したイサベルはナサリオの死を知り、発狂した。イサベルは、まだ殺さぬ。楽に死なせてなるものか。
そして、ナサリオからは、妻フィデリアと息子ユーリを奪った。奴の妻は、今では俺の情婦。息子は俺の子という事になっている。どうせなら、ナサリオに、お前の妻と息子は俺に物になると告げてやれば良かったか。その方が、もっと奴の醜態を見れたかも知れぬ。いや、贅沢は禁物だ。あの時にそれを告げていれば、奴は処刑の時に面倒な事を口走っただろう。あれが最善だった。勿体ないがやむを得ない。
もうすぐだ。もうすぐ復讐が終わる。復讐が終われば、その後は……。母上。母上は、何をして欲しい?
「貴方と幸せに暮らせれば、それだけで私は十分なのですよ」
思わず目を開けた。自分は今、思案していたのか。いつの間にか寝入っていたのか。それすらおぼろげだ。あの声も母のものだったような気もするし、別人の声だった気もする。そもそも、聞こえたのか。頭に浮かんだのか。
目を開けた視線の先に、世間的には妻と呼ばれる女の顔があった。その女が自分の顔を見ている。笑みを浮かべる訳も無く、何かを憂いているようでもなく、ただ見ている。
「何をしている?」
「貴方の顔を見ています」
妻が夫の顔をまっすぐ見ながら言った。
「何故見る?」
「この部屋には貴方と2人きりです。その貴方が寝てしまっては、貴方を見ているしかする事がありません」
淡々と答えた。意味のない受け答え。止めても構わぬ会話だ。だが、アルベルドは次の言葉を捜した。それは、いつもの彼ならば、絶対に吐かぬ問いだった。先ほどの、誰とも分からぬ声が、そうさせた。
「お前は今、幸せなのか?」
その言葉に、珍しくフレンシスが苦笑を浮かべた。今まで、夫の前では浮かべた事のない表情だ。
「幸せな訳が、あるはずはないではないですか」
今まで夫が自分にして来た行為。それを思えば、幸せですよ。と答えるのは間違いなく偽りだ。幸せと答えても、どうせ夫は、嘘を付くなと怒気を発して信じまい。ならば、本当の事を言えばいい。
そして、アルベルドに取っても、問うた瞬間に予測した答えだった。
そうだ。妻が自分と居て、幸せと感じるはずが無いのだ。問うまでもない愚問だった。
「でも、今が幸せでなくとも、いつかは貴方と幸せになれればと思っています。夫婦とは、そういうものではないでしょうか」




