第284:険路行リターン
皇都を脱出しサルヴァ王子に会いに行くと決めたアリシアとナターニヤだったが、実行段階に移るとさしたる困難はなかった。前回の賢婦人の険路行は己の侍女にすら極秘であったが、今回はナターニヤの侍女や侍従の協力が得られたのが大きい。
豪華な馬車を用意し、少し遠乗りを、と堂々と城門を潜った。そして城から離れたところで外見を粗末に偽装した馬車に乗り換えて戦場に向かったのだ。一行は城からの追手をまく為に遠回りして進んだ。
少し離れて前後に護衛の馬車が付いていた。万一追手に追いつかれたり先回りされた時の備えである。前後、どちらから来ても護衛の馬車が時間稼ぎをして、その間に逃げる算段だ。
「随分と簡単にいったわね」
「貴女とセレーナ様との逃避行が皆に称賛されていたからよ。あの時に何か処罰されていたら、私の侍女達だって二の足を踏んだわ。下手したら私達を裏切って密告してたかも」
確かにナターニヤの侍女は彼女の祖国コスティラから連れて来た者達ばかり。ランリエルよりナターニヤに忠実なのは当然だが、それでも命を賭けてまでというと心許ない。処罰されるとすれば裏切り者も出ていただろう。
馬車の車内は快適なものだ。一見、普通のサイズの馬車だが、内部は極限にまで無駄が省かれ広々としている。では、食事などはどうしているかと言えば、それは前後の護衛の馬車に積んでいた。
「でも、懐かしいわ。。。」
アリシアが窓に目を向け呟いた。
前回とは比べものにならないほど快適な行程だが、それでも、かつてセレーナと共に城を抜け出した記憶が思い起こされた。あれから何年たったか。その間、あるものは変わらず、あるものは変わった。
そういえば、あの人の事は大嫌いだったな。。。それが、今では焦がれて自分から会いに行く。
その大嫌いだったサルヴァ王子への嫌悪感が薄れたのは、セレーナとの逃避行が原因であったろう。初めはセレーナの事も嫌いだった。アリシアがサルヴァ王子に気に入られていると誤解したセレーナが、アリシアに嫉妬し対抗意識を燃やしていた。アリシアにしてみれば完全に言いがかりの八つ当たり。好きになる理由が無い。
だが、それはただただセレーナのサルヴァ王子への愛ゆえだった。その素直さを可愛いと思った。そして、そのセレーナから愛されているサルヴァ王子への見方も変わったのだ。
窓に向けられているアリシアの瞳が、外の風景ではなく過去の情景を映しているのを察したナターニヤは、黙って用意されたお茶に口を付けた。カップは底が広く倒れにくい。それに少しだけお茶を入れて零れないようにしている。勿論、馬車自体にも揺れが少ないように細工されていた。
女の友情。自分とアリシアの間には確かにそれがある。かつて、彼女を散々利用し、その子を殺す事すら考えたのを思い起こせば、我ながら呆れる思いだが、人の心とは変わるものだ。今では、命に代えてまでも、とまでは流石に思わないが、失っても我慢できそうな損害と引き換え程度になら、アリシアを助けようという心はある。そう。テッサーラ一国ぐらいとなら。
とはいえ、やはり、ナターニヤにも計算はある。
「それはそうと、いくら陛下とお会いしても、舞い上がって夜の事をせがんだりしては駄目よ」
「なっ。何よ急に」
思い出に浸っていたアリシアが、これ以上ない生臭い言葉に我に返った。顔が急激に赤くなる。しかし、ナターニヤは平然としたもので、その陶器のような白い肌には僅かの朱もさしていない。
「落ち着いて。これは重要な事なの。貴女が陛下へ遥々会いに来たって、そりゃ以前のセレーナ様の事もあるし、みんな美談のように言ってくれるとは思うけど、だからって陛下といちゃいちゃしたら、陛下の御名に傷が付くわ。皆、妻子を残してきているのに、陛下だけって」
「で、でも。。。」
「なに。そんなに陛下としたいの?」
「え。あ。いや、その。。。」
したいかと言えば、したいのだが、面と向かって言われると、そうだとは言いづらいし、陛下の名に傷が付くと言われると躊躇する。
「とにかく、陛下に会えても大人しくしているのよ」
「わっ分かったわよ」
そう釘を刺したナターニヤだが、当然、自分は夫ウィルケスと励む積りだ。目的の為ならば労を厭わぬ彼女だ。東方の大陸では、男女を産み分ける技術があると聞き、それを実戦している。それによると男女のどちらを産むかは男の精で決まるが、女性の方もどちらを産みやすいかの体質があるという事だ。彼女は食生活を改め、己の身体を男子を産みやすい体質に作り変えていた。
そしてアリシアには是非ともこれ以上産んで欲しくない。産んだとしても女児が望ましい。尤も、アリシアがもし男子を産んだとしても諦めはしない。次善の策として、ならば自分が女児を産んで、2代皇帝の妃にするのだ。
その間も馬車は進み、ついにサルヴァ王子が居るランリエル本陣まで5ケイト(約43キロ)というところで、ナターニヤが別行動すると言い出した。
「いったい、どうしたのよ?」
「貴女はこの先に陛下が居るから良いけど、私の夫はここには居ないんですからね。私はここから北に向かわせて貰うわ」
アリシアは勿論、ナターニヤとてテッサーラ王妃。まったくの行方不明ともなれば大問題だ。その為、サルヴァ王子の元に行くと置手紙はしてある。それ故、遠回りして追手はまいたものの、ランリエル本陣では彼女らを待ち構えているはずだ。そして、再度の脱出は不可能。今、別行動を取らなければナターニヤはウィルケスの元には辿り着けない。
それを考慮しなかったのはアリシアの落ち度のようだが、彼女にも言い分はある。
「でも、貴女、私に陛下のところに行けというだけで、自分がウィルケス様のところに行くだなんて一言も言ってなかったじゃないの」
「言わなくても、それくらい分かるでしょ」
勿論、ナターニヤはそんな手違いをおかす女性ではない。わざと言わなかったのだ。実は、ウィルケスと子作りしたいが、自分だけ皇都を抜け出すのは問題があるので、アリシアを道連れにしたに過ぎない。そして、万一それをアリシアに察せられては話が面倒になるので、引き返せない状況になってから打ち明けたのだ。
アリシアは不満げに口を噤んだが、それで決別するほど浅い関係ではない。
「はいはい。分かりました。じゃあ、ウィルケス様によろしくね」
「貴女こそ、陛下に取り成しておいてよ。貴女と私とじゃ立場が違うんだから、私がけしかけたからだって、私だけ罰を受けたりしかねないんだから」
ナターニヤはそう言い残して、後列の馬車に乗り換えてウィルケスが居るケルディラ戦線へと向かった。ランリエル本隊よりは危険な地域だが、ウィルケス率いるテッサーラ王国軍は比較的安全な場所に布陣している。コスティラ、ベルヴァース両軍の後方を固め予備兵力という扱いだ。
それでも、ランリエル本隊に向かうアリシアよりは遥かに危険。ナターニヤがケルディラ方面に向かうのは予想外のはず。追手に追いつかれる危険はないが、そこかしこにそれぞれの軍勢の敗残兵が潜んでいる。祖国に辿り着けずに潜伏しているゴルシュタット兵も居れば、敗戦時に逃げ出し、気まずさから軍勢に戻らないコスティラ、ケルディラ兵もいる。そのような者達も食わねば死ぬ以上、どうにかして食糧を得ねばならず、死人は口無しと旅人を襲う事もあり油断は出来ない。
今、ナターニヤが乗っている馬車は、元々護衛用であり兵士も乗せているが、1台では心許ない。ナターニヤの馬車にこそ護衛を付ければ良いのだが、皇帝の愛妾であるアリシアを単独で行かせて、その臣下の妻が護衛を付けるなど言語道断だ。
でも、まあ、何とかなるでしょ。
ランリエルに来てからは、お淑やかに振舞ってはいるが、祖国ではじゃじゃ馬で知られた娘だ。いざともなれば馬車から馬を外して跨り、単騎で逃げる用意も十分にしてある。アリシアと別れてからは裾の長い衣装は脱ぎ捨て動きやすいように男装をしている。
結局、ナターニヤの馬車は襲撃を受ける事なくテッサーラ王国軍に辿り着いた。彼女の馬車を迎えたテッサーラ陣地では将兵が大騒ぎである。彼らも王妃がサルヴァ王子の愛妾アリシアと共に皇都から消えたのは連絡を受けていたが、他の者達と同じく、アリシアと一緒にランリエル本隊に向かうと考えていたのだ。
「こっこれは王妃。ご無事で何よりで御座います」
「道中、何事もなく幸いで御座いました。ですが、今後は、ご自重なされるようお願い致しまする」
テッサーラ王国軍の高官達がナターニヤの馬車を囲み、降りてきた彼女に苦言を漏らしたが、彼等にとって国王であるウィルケスに次ぐ存在だ。如何に非常識でも、この程度の苦言が精一杯である。ナターニヤ自身も、二度とやる積りは無い。
「あら、ごめんなさい。今度から気を付けるわ」
と、軽く受け流した。
兵士達も野次馬根性で集まって来たが、士官達が慌てて彼等を部署に戻るように言いつけ、その騒ぎを横目にナターニヤが通り過ぎた。目指すは愛する(という事になっている)夫がいるテッサーラ王国軍本営の天幕だ。
「どういう積りだ?」
「どういう積り? 貴方だったら、だいたい推測出来ているんでしょ?」
お前達は場を外してくれ。そう言ってウィルケスが人払いをした後の、久しぶりに顔を合わせた新婚の夫婦とは思えぬ第一声だ。ウィルケスは新妻に探るような視線を向けている。
「どうしてここに来ようと考えたかは分かる。だが、考える事と実行する事には大きな隔たりがあるだろう」
「貴方が恋しかったからよ」
新妻が憂いを含んだ瞳を夫に向けた。その瞳を受ける夫の視線は冷ややかだ。
「嘘なんだろ?」
「まあね」
初めから騙せるとは思っていなかったのか、あっさりと白状した。口元にも笑みが浮かんでいる。
「まあいい。では、お前がやりに来た事をするとしよう」
冷たかったウィルケスの表情が不意に柔らかいものに変わった。ナターニヤが子作りに来たのは彼にも分かっている。妻が抱かれたいと数百ケイトの道程をやって来たのだ。夫として、その想いに応えなくてはならないだろう。
「でも、昼間っからする事もないんじゃない? 夜まで待てないの?」
したいのは貴方の方でしょ。からかうようにナターニヤの目が笑っている。
戦場でも、比較的安全な地域に布陣する軍隊では、案外、女には不自由しない。商魂逞しい商人や娼婦達が稼ぎ時と向こうからやってくるのだ。兵士達の食事は保障されている為、給金を貰えば真っ先に女を買いに行くのだ。そして、娼婦の中にはそのような兵士を相手にするのではなく士官や将軍達を相手にする格の高い女もいる。
だが、自分を国王に任じてくれたサルヴァ王子の顔を潰さないようにと、国王となってからは柄にも無く品性高潔を貫いているウィルケスだ。女を買ってはいなかった。
そして、彼の領国であるテッサーラには、ナターニヤの父であるバルィシニコフ公爵が顧問のような形で招かれている。その為、ウィルケスの部下には父の家臣だった者も多く、ウィルケスの近況を得るのは彼女に取って造作も無い。
「勿論、夜もするさ」
「夜まで、じゃなくて?」
多彩な女遍歴で有名な彼だが、それは女を口説くのが面白いのであり、女を抱くのはその過程と結果という思想が彼にはあった。ナターニヤもウィルケスも主導権を握ろうと腹を探り合っている。結婚したにもかかわらず油断なら無い相手だ。この妻は、結婚してもなお、口説き続けなければならないらしい。
「どうやら、お前が思っているより、俺達は上手く行きそうだ」
「あらそうかしら? 私は、貴方が思っているより、私達は上手く行くと思っていたのだけど」
テッサーラ国王夫妻は、どうやら上手く行っているようだが、ナターニヤよりも夫への距離が近かったはずのアリシアは、まだランリエル本陣に到着してはいなかった。アリシアの到着を待ち構えていたのは予想通りだったが、予想外にもそこで足止めされたのだ。本陣まで2ケイトの距離で関所を作っていた彼等は、サルヴァ皇帝の命として、本国への退去を伝えたのである。
「私の妻だからと妻が戦場に来るのを許せば、示しがつかなくなる」
折角ここまで来て帰れと言われるのは予想外だったが、その言葉は、あの人らしい。ともアリシアは思った。
どうしよう。しょうがないから帰ろうかな。
ここまで来て会えない。普通ならば残念でしょうがない状況だが、人づてとはいえ王子らしい言葉を聞いて、なんとなく気が済んだアリシアだった。しかし、その言葉を持ってきた使者は、ご内密に、と打ち明けた。
「現在、側近の方々が、サルヴァ陛下を宥めておりますれば、その内にお怒りも静まるかと。暫くここでお待ち頂ければ、陛下からも通過の許可がおりるものかと思われます」
つまり、一旦、怒って帰れという事で皆への示しが付くだろうという事だ。勿論、王子は本気で帰れと言っているのだが、周囲が気を使って、そのような筋書きを描き説得している。
結局、10日近く足止めされた後、アリシアを乗せた馬車はランリエル本陣へと向かいサルヴァ王子と再会したのだった。




