第283:皇帝の悩み
「北方戦線ではコスティラ、ベルヴァース両軍がゴルシュタットを追い詰め、北ロタはバルバール軍により滅亡寸前だ。更にその南方ではドゥムヤータが皇国の背後を突く。グラノダロス本隊も、そろそろ浮き足立つ頃だろう」
サルヴァ王子が笑みを浮かべ言った。その日、サルヴァ王子はやけに口数が多かった。
各国の総司令やその幕僚達を集めた定例の軍事会議。数十名の男達が顔を並べているが、これでもかなり減った。バルバール、コスティラ、ベルヴァースの軍勢は他方面に出陣し、ランリエル本隊との連携の為に少数の者達が残っているのみだ。
その人数が減った分、以前よりはゆったりと座った男達もサルヴァ王子の言葉に笑みを浮かべている。その軽い雰囲気に男達の口も軽くなった。
「左様で御座いますな。我らはここで守りを固めてさえ居れば、敵は勝手に崩れてくれるはず」
「敵が後退に転ずれば、その時こそ我らが動く時」
「追撃戦となれば戦いは一方的なものになりましょう」
将軍級の者どころか、普段なら発言を控えるその幕僚達ですら挙手もせずに各々が口を開いた。一瞬、その無礼に眉を潜めた者も居たが、この場を仕切るサルヴァ王子が笑みを浮かべて応じると、ならばとその者達も次々と追従する。
流石に、すでに勝ったかのように浮かれる。というほどではないが、勝って当然という雰囲気ではあった。ランリエルの宿将ムウリですら、笑みを浮かべて頷いている。だが、よくよく見ると、その笑みが僅かに硬い。その事に気付いた者は極僅かだったが、その僅かにカルデイ王国軍総司令ギリスが居た。
そして、そのギリスも笑みを浮かべていたが、やはり、その笑みは何処か硬かった。笑みを浮かべつつ、幕僚達の浮かれた言葉に応じ、内心ではこう呟いた。
やれやれ、ムウリ殿も苦労なされる事だ。
現在、ランリエル皇国とグラノダロス皇国との戦いは長期戦の様相を見せている。
サルヴァ王子は全戦線で勝利しているかのように言ったが、実際は全て膠着状態に過ぎない。バルバール王国軍と北ロタ王国軍との戦いも決着が着きそうで着かないという状況だ。ドゥムヤータのバンブーナへの進軍も、牽制のみを役割として動きは無い。
この情勢に軍議で見せる顔とは裏腹にサルヴァ王子は焦燥にかられていた。
このままでは負ける。
無論、その心を表にはしない。幕僚や将軍達。副官代理のベルトーニにすら心を隠し余裕ある笑みを向ける。だが、その実、常に吐き気を催すような重圧に耐えていた。
夜、寝所で1人になるとどうすべきか、どうすればこの状況を打破できるか。考えを巡らせても結論が出ず、朝方になってやっと疲れ果てた頭が眠りに着くが、その逃避すべき睡眠時間ですら悪夢にうなされた。
その理由の原因は単純明快。
金が無い。
たとえ絶対的な権力を持とうと金が無くば人は動かせない。絶対的な権力で人々を無償で働かせ軍勢の物資武具、食糧に至るまで整えるなど世迷言。戦いには金が要る。それが現実だ。
民に増税を課してまで皇国との決戦に打って出た。だが、増税頼みの戦いなど長期戦は不可能とは初めから分かっていた。国力で劣る側が攻勢に出る以上、それは当たり前。短期決戦に血路を見出すしかない。それ故、サルヴァ王子は初めから短期決戦を想定していた。
戦場での作戦を戦術といい、その戦場をどう設定するのかの作戦を戦略という。そして、政治まで含めてその設定に持っていく作戦を大戦略という。この時代に、まだ大戦略という概念は存在しないが、サルヴァ王子の天才はその存在しない大戦略を立てた。
皇国軍を釣り出し、ゴルシュタット、ドゥムヤータと連携を取って包囲殲滅する。短期間に勝敗は決するはずだった。だが、その大戦略は脆くも崩れた。ゴルシュタットが皇国に寝返り、その為、ドゥムヤータも参戦に躊躇したのだ。いや、ゴルシュタットは寝返ったのではなく、初めから皇国と連絡を取っていた。そう見るのが自然な情勢だ。
他の戦線が膠着状態ならば、皇国軍主力と対峙するランリエル軍が、この状況を打破できるかと言えば、この方面に唯一残ったカルデイ王国軍の戦力を合わせても敵の3分の2ほどでしかないのだ。皇国もこちらの守りが堅いと手を出しかね、こちらから攻めるには兵力寡少。
完全に手詰まり。そして、この場合の手詰まりとは、衰弱死と同義語だ。
しかし、それを馬鹿正直に表にはしない。それを幕僚達に公表して事態が好転するならば幾らでもする。だが、金が無い。などという状況を幕僚達の誰が解決できるというのか。この事態を知るのは、サルヴァ王子が打ち明けるまでも無く、自身でそれに気付いたムウリなど極僅かの者達だ。そしてその者達ですら、気付いてたところで解決策など持ち合わせず、あえて明るく振舞う王子に合わせて演技をして見せるのが精々なのだ。
内容皆無の軍議が終わるとサルヴァ王子は自室に引き揚げた。その歩みの間も笑みを浮かべていたが、扉をくぐり、パタンとその扉を閉じた瞬間に笑みが消える。
膝から崩れ落ちそうになり、他に人は居ないにもかかわらず、膝を付くのは恥と堪えた。ベッドまで辿り着き、そこで倒れ込む。悪夢にうなされるまでの僅かな時間だけが、サルヴァ王子の安らぎだ。
サルヴァ王子が戦況に苦悩している頃、ランリエル本国の人々は庶民はもとより貴族に至るまで暢気にしていた。王都改め皇都フォルキアの宮殿でも貴族達が交わす言葉に深刻な響きは無い。
「今回の戦いは随分と長引いておりますな」
「しかし、いかな皇国とはいえ、偉大なるサルヴァ陛下の御手に掛かれば、打ち破ることなど造作もないとは先の戦いで証明されておりまする」
「確かに。戦が長引いたとはいえ、我がランリエルの勝利が先に延びるだけのこと」
国軍は王家の直属兵と貴族の私兵の混成で成り立つ。ならば主だった貴族の当主達や成人したその子息などは戦場に出ており、本国に残った貴族は年老いて引退した者か、戦場に連れて行けぬ幼い者達。或いは、万一当主や跡継ぎが戦死した場合に血脈を絶やさぬ為の予備である弟達だ。それらの者達も、前線の親族から戦況を知らされているのだが、彼らとてこの程度の認識なのだ。
サルヴァ王子が聞けば、戦場の苦労も知らず! と、激怒したであろうが、それは言いがかりというものだ。王子自身が、味方の幕僚達にすら戦況を、いや、その裏の情勢を偽っているのだ。王都に残る者達を惚けさせている者が居るとすれば、それは王子自身である。
人間とはそれほど理性的に出来ているものではなく、それはサルヴァ王子とて例外ではない。理不尽な怒りに捕らわれる事もある。理不尽な怒りが湧き出るほどサルヴァ王子が追い詰められているとも言える。
そもそも、自国の民に戦況が有利と伝えるのは当然とも言えた。戦況が不利と伝えるのに何の利益もない。戦況不利と知った民が、どうせ負けるならと納税を拒否し、物資運搬などの徴用から逃げ出す。ともなれば、逆転出来るものも出来なくなる。勿論、有利、有利と言いながら、ある日突然、町が敵の攻撃にさらされる。ともなれば別次元の問題だ。
兵は詭道なり。という言葉がある。兵法とは所詮、人を騙す事であり、兵法に取って正直者とは敗者と等しい。
そして、ここに、その嘘に騙されている女性が居た。
「陛下は、いつ帰って来るのかしら? 貴女、ウィルケス様から何か聞いていないの?」
「いいえ。貴女の方こそ、陛下から何か聞いていないの?」
それぞれお茶を手にアリシアの問いにナターニヤが答えた。お互い、口を閉じた後、カップに唇を付けた。アリシアは軽く目を閉じ、お茶の香りを堪能しているが、ナターニヤは探るような視線を目の前の親友に向けた。
本当の事を言った方が良いのかしら?
生真面目なサルヴァ王子は、戦況が漏れぬように幕僚達を騙しておきながら愛する妻には事実を打ち明ける。という事は出来なかったが、ナターニヤの夫であるウィルケスにはその意味での生真面目さはない。彼の真面目さは一重に「サルヴァ王子に利するか」という一点にのみ集約されている。
普段の飄々とした態度から忠誠心などというものからはほど遠いと見られる彼だが、実際、彼ほどサルヴァ王子に忠誠を尽くす男は居ないのだ。彼に言わせれば忠誠心の塊に「見える」男のどれ程が、その見た目ほどの忠誠を発揮するのか。忠誠を尽くすならば、忠誠を尽くせば良いのであって「見える」事には何の意味もない。
現在、ウィルケスはサルヴァ王子の元を離れてケルディラ方面へと軍勢を展開しているが、離れているからこそ見える事もある。また、サルヴァ王子の副官であった、という事が他の経験豊かな幕僚達らよりもウィルケスに利した。この戦いが始まる前から、サルヴァ王子が如何に戦費というものを念頭に戦略を練っていたかを知っていた。その彼から見れば、戦況の膠着が自軍の敗北に直結する事は自明の理だった。
彼はサルヴァ王子への忠誠心を発揮し妻へと手紙を送った。
「現在、戦況は思わしくない。眼前の勝敗は不利ではないが計画通りでないのは確かだ。長期戦に耐え切れず軍勢を引く事になれば、皇国軍の追撃により我が軍は壊滅的な打撃を受けるだろう。その時にはアリシア夫人を我が領土テッサーラに落ち延びさせるように手筈を整えておいてくれ」
ランリエル皇国にはバルバール、コスティラ、ベルヴァース、カルデイなどの4ヶ国がその支配下にあるが、戦いが劣勢になればそれらの国々が離反するのは予測できる。彼等はあくまで武力によってランリエルの支配下に甘んじているのであって、熱い友情で結ばれているのではないのだ。
とはいえ、自分の妻であるナターニヤすらウィルケスは信用していない。確かに口説きはしたが、惚れさせたのではなく、納得させた、というのが実際だ。妻とアリシアの間に友情らしきものがあるのはウィルケスにも分かってはいるが、それに頼るほど彼は善良ではなかった。
その為、先の手紙とは別に添え書きを付けた。
「今、グラノダロス皇国の実権を握るアルベルド陛下は名君の誉れ高いお方だ。夫の主君の愛妾であり、お前とも友人であるアリシア夫人を命がけで匿えば、事が露見しても、お前を罰するどころか美談として称賛してくれよう。無論、現在の戦況が悪いとは言えランリエルが負ける事はない。これは万一の備えだ。それと、あの手紙も残して置くように。残しておけば、戦いが終わった後に実はこのように考え備えておきましたと公表すれば、サルヴァ王子からの覚えも良くなるはずだ。勿論、この添え書きは読んだ後は燃やして置くように」
サルヴァ王子の妃に上り詰めるという野望が断たれたナターニヤだが、次期、皇帝の皇母という地位はまだ望みがあると目論んでいる。自身が王子の子を産まなくともアリシアの娘と自分の息子を結婚させれば良いのだ。
その意味でも、この提案は悪くない。命の危険を共有すれば親密さも増すというものだ。お互い子供を胸に抱きながら危険を避けて潜伏する。1つ家族のように身を寄せあって暮らす。そうすれば子供同士を結婚させる。という話に自然と向かせるのも容易い。だが、問題もある。根本的な問題だ。
自分には、まだ息子が居ない。
彼女は割り切れば行動は早い。ウィルケスと結婚してから積極的に身体を重ねた。しかし、懐妊はまだだ。子供が居ないならば、計画は霧散する。しかし、戦いが長引けばランリエルが負けるという話ならば、まだ猶予があると言える。
今のうちに懐妊すれば。。。
上手くいけば産まれたばかりの赤子を抱きながら、最低でも大きなお腹を抱えながらアリシアと逃避行。それが可能かもしれない。そして「もし生き延びられたら、子供達を結婚させましょう」とうまく話を持ってくのだ。
当然、本当に逃避行をしているような状況ではランリエルは滅亡寸前であり、アリシアの娘と我が子を結婚させるのに利益は無い。夫には悪いが、危険で無くても、アリシアをだまくらかして逃避行ごっこをし、取り越し苦労だったのね。おほほほほ。とやるしかない。
とはいえ、これにも根本的な問題がある。その子作りをする相手である夫が、遠く戦場にいる事だ。
夫は今、ケルディラ戦線に布陣している。その夫が帰国するのは戦いに勝つか、それとも負けた時だ。勝てば良いが、負けて戻って来てから子作りをしても間に合わない。ここはやはり。。。
「アリシア。夫達が返って来ないなら、こちらから出向いて見たらどうかしら?」
戦況が思わしくないとは聞いているが、それは膠着状態だから不利という事だ。膠着しているなら危険は無い。
「まさか。そんな事は出来ないわよ」
アリシアが即座に否定した。常識的に考えて当然の返答だ。女性の身。しかも、一国の主の実質的な妻とも言われる者が、その夫に会う為とはいえ戦場に出向くなど、あまり聞かない話だ。だが、その彼女を見るナターニヤの視線は冷ややかだ。
女の身で戦場に出向く。全く聞かない話ではなく、あまり聞かない話。そういわれる要因を作った張本人が何を言うかという事だ。
「貴女。一回やってるじゃない」
うっ。とアリシアが呻いた。かつてのサルヴァ王子の愛妾であるセレーナは王都を脱出し、生死不明となっていた王子の元へと走った。その時に彼女の手助けをしたのが当のアリシアである。
ナターニヤが更にけしかける。
「セレーナ様の時はサルヴァ陛下がどこに居るのかも分からなかったんでしょ? 陛下がどこに居るのかは分かっているんだから、それに比べたら全然安全よ」
セレーナのその行動は、賢婦人の険路行と称されランリエルでは有名な逸話である。庶民の出であるアリシアがサルヴァ王子の実質的な妻となっても反発が少ないのは、絶対的な権力者であるサルヴァ王子に逆らい難いのもあるが、険路行の同行者であった。というのも大きいのだ。亡くなったセレーナがサルヴァ王子の事をアリシアに託した。そう認識されていた。
ならば、続賢婦人の険路行を行い、自分がその協力者となれば周囲からも自分は一目置かれる。自分の子とアリシアの子が結婚するとなっても反対する者は少ないだろう。ナターニヤは瞬時にそこまで計算している。
アリシアは暫く考え込むように俯いていたが、顔を上げた彼女の瞳は決断した者、特有の鋭さがあった。
「分かった。私、行くわ」




