第276:決意
イサベルが、理性から逃れた怪力で羽交い絞めする侍女を振り払った。4発目の張り手がフィデリアの頬をで大きく鳴った。彼女の侍女が背後から腰に抱き着きイサベルから離そうと引っ張ったが、咄嗟の事で腰が浮き効果がない。
5発目が鳴り響く。屋敷の侍女が更に数人集まってやっとイサベルを抑え込んだ。フィデリアにも侍女が群がり引き離す。
「逃げるな! 逃げるな売女!!」
抑え込まれたイサベルが腕を振り回して抵抗し、その爪で顔を引っかかれた侍女が頬から血を流した。高価な絨毯を赤い点々が彩る。
「手を放してあげて。私は良いのです。イサベル様の好きなようにさせてあげて」
そう言われても、侍女達も、はい。そうですか。と手を放す訳には行かない。侍女達は更に2人を引き離す。この時になってイサベルも、ようやく侍女達の存在に気付いたようだ。
「お放し!! 放せ!!」
イサベルの狂乱はなかなか収まらなかったが、所詮、根本的な体力は変わらない。老いた身体では狂乱により一時は怪力が出せても長続きはしない。身体中に侍女を張り付かせたまま肩で息をし膝をついた。ギョロリとした目だけはフィデリアを睨み続けている。
「可哀想なナサリオ……。こんな売女にたぶらかされて。こんな売女に……」
体力を使い果たし責め手を罵倒に切り替えたが、それも先ほどと比べて力強さはない。フィデリアも義母の目線に合わせるように跪いた。自分を押さえつける侍女の手に自分の手を重ね、もう大丈夫と視線を送ると、侍女はおずおずと手を放す。
「皆、今、ここで見た事は黙っていてね」
侍女達に言い、フィデリアは床に両手を着いた。
「申し訳ありません。お義母様」
額が床に着くほどに深く頭を下げたフィデリアに、侍女達が息を飲む。彼女達は皇国の公式見解を信じている。信じ込もうとしている。それは、フィデリアは実はナサリオとではなくアルベルドと愛し合っており、ユーリもアルベルドの息子。というものだ。それ故、ナサリオとの結婚はなかったものとされた。しかし、イサベルを義母と呼べば、それが根底から覆る。
動揺する侍女達の隙を付いたかのようにイサベルが侍女の手を振り払った。イサベルは膝をついてフィデリアににじり寄ったが、先ほどまでの勢いがないのが侍女達を戸惑わせて制止するのも躊躇われた。それに、黙っていてと言うフィデリアの言葉は、手を出すな。という意味も含んでいるのを侍女達も察している。
「この売女!」
フィデリアの背中を叩いたが、体力が尽きた一撃は頭を下げたフィデリアを少しぐらつかせる程度だ。侍女達は動かない。イサベルが更にぶつ。フィデリアは耐えている。もし、フィデリアが倒れるような事があれば止めに入る。暗黙の了解のような雰囲気を侍女達は共有した。
フィデリアを罵倒し背中を叩き続ける。
「お前が、お前とアルベールが、あの子を裏切ったのよ!」
更にぶった。義母はアルベルドというゴルシュタット風の名前を嫌い、皇国風のアルベールと呼ぶ。
フィデリアがピクリと微かに頭を上げた。その変化に、気付いた者は居ない。
「アルベールさえ裏切らなければ、あの子は、あの子は死ななかったのに!」
叩かれる痛みを感じるより別な事にフィデリアの思考は囚われていた。
アルベルドに騙された。聞き覚えのある言葉。忘れようがない。夫が、ナサリオが処刑台の上で叫んだ言葉だ。一度、思い切ってアルベルドにも問うた事があった。その時は、まだアルベルドが、その邪悪な本性を隠し、自分にも節度ある態度だった。
「私も、それは心苦しく思っておりました。なんとしてでもナサリオ兄上をお救いする。そう約束していたのです。ですが……兄上をお救いする事は出来なかった。兄上には、私が裏切ったと感じたのでしょう。確かに私はナサリオ兄上をお救い出来なかったのですから、そう言われても仕方がありません」
その返答に一応は納得していた。でも、今はアルベルドの本性を知っている。今なら同じ言葉を聞いても疑いの目で見たかもしれない。そして、義母の言葉。アルベルドに裏切られた。
アルベルドは、義母にも夫と同じように兄上をお救いすると言っていた。その可能性はある。あの時、義母を宥めるには、そう言うしかなかったのかも知れない。そして義母はアルベルドを逆恨みしているだけ。そう飛躍した推論ではない。
しかし、……。アルベルドは夫がまだ生きていた時にも自分に迫った事があった。
あの時は、今とは力関係が違った。アルベルドに屈しなかった。軽くいなした。それが出来た。そして、もう済んだ事だと考えていた。少年時代からの憧れの延長とその時は思っていたのだ。そして今、自分はアルベルドの玩具だ。以前から望んでいた相手を手に入れられる状況が出来た。その状況をアルベルドは利用した。そう考えていた。
一つ一つを別々のものと思っていた。しかし、本当に別々のものだったのだろうか。全て繋がっているのではないのか。アルベルドは状況を利用したのではなく、状況を作ったのではないのか。フィデリアが叩かれながら顔を上げおずおずと問うた。
「お、お義母様。アルベルド様が、どうお義母様を裏切ったというのでしょう」
「あの子を助けると言ったのよ! 必ず助けるって! なのに! なのに!!」
やはりそうか。助けると言っておきながら助けられなかった。やはり、ただの逆恨みか――
「偽物とすり替えるって。だから大丈夫だと……」
すり替える? 夫を? 誰と? そういえば、夫が処刑される時、義母は平然としていた。あの時は、長男パトリシオを殺したというナサリオを許せず愛情が枯渇していたのかとも思ったが、ならば、今の義母の狂乱は不自然だ。自分自身、夫を亡くした悲しみに義母の事を思い起こす事が少なかったので気づかなかったが、冷静に考えればおかしな話だ。
義母は私の知らない何かを知っているのだろうか。アルベルドは義母に何を言ったのだろう。それを問わなければならない。だが、それには侍女達が邪魔だ。
「貴女達。少し、席を外してちょうだい」
侍女達は困惑し顔を見合わせた。イサベルは、今もフィデリアを叩き続けてはいるものの既にその体力は尽き、叩くと言うより腕が当たっている程度とも言える。彼女達の目から見てもさほど痛そうではなく、怪我をするという事はなさそうではある。とはいえ、流石に2人きりにするのは職務放棄だ。
「今から私はお義母様の愚痴を聞きます。おそらく、お義母様はアルベルド陛下への不満を口になさるわ。それを聞いて居たいの?」
今、この皇国でアルベルドは絶対的な権力者。皇帝にも等しい存在だ。庶民など不満を口にするだけで処罰される。名声を権力基盤とするアルベルドは自ら命令しないだろうが、気を回した役人はその者を捕らえるだろう。
そして、アルベルドへの不満を聞きながら通報しないのも同罪。とはいえ、告発する相手は前皇帝の実母であり、アルベルドの養母。そのイサベルを告発すれば、何たる不忠者と処罰されかねない。イサベルからのアルベルドの不満を聞いてしまえば、通報しなくても罪。通報しても罪。今までもイサベルはアルベルドへの不満を口にしていたが、それは屋敷内での事。今は、部外者であるフィデリアが居るのだ。そのフィデリアが席を外せと言うなら責任は全て被ってくれると言う事だ。
察した侍女長が進み出た。
「かしこまりました。何かありましたらお呼び下さい」
と、頭を下げ、侍女達と共に部屋を出た。
ベチベチと義母にはたき続けられながら彼女達を見送ったフィデリアは、義母を抱きしめた。思わぬ彼女の行動にイサベルは暴れて抗ったがフィデリアは更に強く抱きしめた。
「お義母様。大事な事なのです。落ち着いて下さい。落ち着いて」
「放しなさい! 放せ!」
「ナサリオ様の無念を晴らしたいとは思わないのですか!」
イサベルの動きが止まった。暫く呆けたような表情をしていたが、不意にぽろぽろと涙を流し始めた。
「ナサリオ……。ナサリオ…………」
フィデリアは義母が落ち着くまで抱きしめ続けた。
「お義母様。教えて下さい。アルベルドは、ナサリオ様をどのようにして助けると言ったのです?」
「あの子を。ナサリオを罪人と。ナサリオとよく似た罪人とすり替えるって……。そう言ったのに。アルベールはそう言ったのに……。なのにあの子は……」
罪人とすり替える。確かに、この世は広い。どこかには自分によく似た者もいるだろう。しかし、罪人と限定して、似た者を探すのは難しく、計画として成り立つのだろうか? 尤も、偶然、奇跡的に夫に似た罪人を見つけ、それで計画を思いついた。というのはあり得るかも知れない。
「アルベル……アルベールは、ナサリオ様に似た罪人を既に見つけていると言っていたのですか?」
義母の精神は病んでいる。込み入った質問に答えられるのか? フィデリア自身、不安に思いながら問うたが、意外にもイサベルは、はっきりと答えた。尤も、それは望んだ回答を得られた事を意味しない。
「いえ、そうは言っていませんでした」
きっぱりと否定した。フィデリアは肩を落としたが、義母の次の言葉に引っかかった。
「でも、ナサリオが牢に入れられて直ぐに助けると言ったのです。似た者くらい見つけられるはずです」
夫は、処刑される時、顔に酷い傷を負っていた。それは、罪を否定し牢屋で暴れたからだと聞いて居たが、牢に入れられて直ぐに助けて貰えると知ったなら、どうして暴れたりしたのだろうか? 夫は、顔に酷い傷を負っていたのだ。そう、一目見て、夫と分からないほどに。
もしかしたら、もしかしたら! それならあり得るかも知れない。
罪人の中から、瓜二つの人間を探すのは難しい。だが、体格が似ている程度の者なら難しい話ではない。後は、顔に本人か分からないほどの傷を負えばすり替わるのも可能だ。
もっと義母に問いただしたいところだが、性急に問い詰めてはまた義母は狂乱するだろう。フィデリアは義母を優しく抱きしめ、義母が落ち着くのを待った。イサベルも、不満を吐き出しすっきりしたのか、すぐに大人しくなった。
「お義母様。また来ます」
ゆっくりと義母を包み込んでいた腕を放し、立ち上がった。侍女達を呼び、義母の世話をするように改めて言い付けた。本来なら、客であるフィデリアが命じる事ではないが、侍女長は不満の色を見せず礼儀正しく一礼した。もしかすると、何が起ころうと全てフィデリアに責任を押し付ける気かも知れない。それならそれで良い。今後、やりやすくなる。
フィデリアは、帰りの馬車の中で、義母との会話を繰り返し反芻した。そして、その回数分、確信が深くなる。
アルベルドは、夫を助けると言っていた。気休めなどではなく、あの帝国宰相である夫が信じるほどの具体的な方法を示してだ。それは、実行すれば成功する可能性の高い方法だったはず。
背格好の似ている死刑囚を見つけて協力させる。夫の身代わりとなれば死は免れないが、その者に家族がいるものなら話は別。残される家族を手厚く保護すると約束し協力させる。どうせ死ぬならば、その方がマシだ。その罪人と夫の両方に顔に怪我をさせ、処刑間際で入れ替える。アルベルドの権力があれば、それくらい簡単だ。
特別、フィデリアの知能が優れている訳ではない。少し頭の回る子供でも、これだけ条件が目の前に並べば気づくだろう。
それが、義母の口から洩れるとはお粗末な失態ともいえる。狂人と化した義母のいう事など誰も信じないと高をくくったのかも知れないが、それでも稚拙といえば稚拙。だが、狂人と化した義母の口は脅迫では封じられない。殺してしまえば漏れる危険はなくなるが、あの女は生きて苦しみ続けろ。それがアルベルドの復讐。憎しみは理性をも超える。理性で憎しみを抑えられるならば、多くの無関係の人々を巻き込んでの復讐など初めからしていない。
そしてフィデリアは気付いた。アルベルドは、夫を救える立場でありながら、夫を見殺しにした。
夫は、皇帝を殺した。死罪となるのは当然だ。だが、ならばなぜ助けるなどと言ったのか。夫の死を、あのような惨めなものとしたのか。助けるなどと言わなければ、夫も覚悟を決めて取り乱したりしなかったのではないか。そこまで、夫を貶める必要があったのか。
自分を手に入れるのに夫が邪魔だったとしても、黙って処刑されるのを待てばいい話だ。悪意を、いや、悪意以上の憎悪。人は、如何に死ぬかでその人生の価値が決まると言ってもいい。その最後を汚された。それは、ナサリオという男の人生の否定。
帝国宰相として数々の功績をあげた男という名声は失われ、皇帝を殺し、その最後は処刑台で見苦しく取り乱した男として記憶に、歴史に残った。
あなた……。
フィデリアの頬から涙が溢れた。夫は、どれほど無念だったか。最後の夫のあの醜態こそが、その無念を表していた。そして、にも拘わらず、残される自分とユーリの姿を見た瞬間、その無念を押し殺し、残される私達に見苦しい姿を見せまいとしたあの毅然とした姿。
誰にも分かるまい。あの時の夫の姿が何を意味していたのか。誰にも分かるまい。でも、自分には分かる。分かった。
あなた。必ずあなたの無念は晴らして見せます。そう、どんな事をしてでも……。




