第269:いい女
北ロタ王国軍の方針は籠城と決まったが、城下町の住民全員を城に収容する余裕はない。だが、兵士達の家族を置き捨てれば籠城の士気が下がる。城下に家族を住まわせている将兵達は、家族を入城させても良いという布告が出ていた。アレットもブランの内縁の妻としてその資格はあったが、彼女は入城していない。
アレットに会いに行ったブランの周りを多くの人々が荷物を抱え駆けていく。城に向かうのは少数で、ほとんどが遠方の親類を頼ったり、それが居ない者も、とにかく王都から離れようと右往左往していた。
侵略軍に対しては焦土戦略。とはよく聞く話だが、実際、それを行うには広大な領地が必要だ。焦土戦略だ。と全国民の食料を焼けば全国民が死に絶える。食料を持って遠方の村々に退避させても、敵が略奪部隊を遠征させれば辿り着くなら意味はないのだ。元のロタ王国北部の更に3分の2程度の領地しかない北ロタ王国に焦土戦術を選択する余地はなかった。
近隣では、既にバルバール軍への貢物を用意している村まであった。食料などを供出するので、奪略をしないで欲しいという弱者の知恵だ。人々は、それらの情報を得ながら、どこに向かえば安全かを考えている。
ブランの屋敷に住むアレットだが、相変わらず酒場の女将でもあった。ブランはその酒場に馬首を向けていた。酒場に到着し、馬を降りて扉を開けると客は誰も居らず、果たしてアレットが一人居た。小柄だが豊かな胸を持つ女だ。その胸を卓の上に乗せるようにして腰掛けている。卓には、空になった酒瓶と杯が乱立していた。
「あ。ブラン。あんたも飲む?」
手にした杯を軽く振りながら言った。ブランが頷き卓に座ると、遠慮のない関係だ。これで、良いでしょ? と、空になっていた杯に酒を注ぎブランの目の前に置いた。
「せっかく、店が軌道に乗ったかと思ったら、また、戦って、いい加減にして欲しいわよね」
憤慨し、ブランが口を付けるのを待たず、自分の杯の酒を飲み干した。
「すまんな」
ブランが自分の杯に口を付ける。大きく傾けたようには見えなかったが、その一口で杯の半分が胃に吸い込まれた。
「別にブランに言ってるんじゃないわよ。神様かなにか、とにかく、なにかよ。愚痴よ。愚痴。気にしないで」
言いながら、自分の杯に酒を注ぐ。
戦争とは攻められた方が被害者。という単純なものではない。攻められるその前の戦争では、こちらが攻めた側であったり、時には相手を挑発し、わざと先に手を出させる事もある。こちらがその気がなくとも、相手にとっては、それが戦争するしかないほどの侮辱という場合すらあるのだ。
「まあ、生きてれば、思い通りにならない事ばかりよ。今までだってそうだし、これからだってそうよ」
だが、思い通りに行かなくとも人は生きて行かなくてはならない。そして、思い通りだから幸せだという訳でもなく、思い通りでなくとも幸せであったりもする。どうなるか分からなくても前に進むしかない。思い通りにならなければ愚痴を吐き、吐き終われば前に進む。そうして彼女は生きて来たのだ。
アレットの愚痴を聞きつつ杯を重ねた。見る見るうちに空の酒瓶と杯が増えていく。アレットの愚痴をブランは黙って聞いていた。彼女も吐き出したいだけで、返答は求めていないのだ。
「今度の戦いで、決着を付ける」
「あのグレイスっていう人と?」
頷き、その動作のまま杯に口を付けた。
前回の戦いの時にアレットもグレイスとは面識がある。彼女は、グレイスに俺に着いて来ないかと誘われてすら居たのだ。だが、ブランを選んだ。
「勝てるの?」
「やってみぬと分からぬ」
初めて手を合わせた時は及ばなかった。前回はほとんど僅差だった。そして今回も恐らく僅差であろう。前回は僅差でグレイスが上。今回は僅差で自分が上。そう読んでいた。だが、それも、駆け引き一つで覆るほどの差でしかない。そして、駆け引きではグレイスに一日の長がある。だが、偶然でも僅差は覆り、その偶然を引き寄せる’勘’は自分が上だ。やってみぬと分からぬ。というのは正直なところだ。
人間とは古代の恐竜のように年齢を経ればそれだけ成長し続けるというものではない。年齢を経れば成長の限界に達し、それを超えれば衰えていく。年齢的にグレイスは今が最盛期だろう。そして自分はまだ、成長の余地はある。5年後ならばグレイスは衰え、自分は成長している。確実に勝てる。だが、ブランはそれを望んではいなかった。
ディアス辺りは、青臭い。そう言うだろう。軍略とは、如何に楽に勝つかだからだ。だが、宿敵の最盛期に戦い、倒す。それがブランの矜持。
自己満足。確かにそうだ。将である自分が負ければ率いる兵達にも被害が出る。故に、確実に勝てる方法で戦う。それが将の役目。しかし、ブランは孤高の虎だ。虎は虎である事を辞める事は出来ず、兵達は、ブランが虎であるからこそついて来る。そのブランの元でこそブラン騎兵隊は力を発揮するのだ。
「お前は城に入れ。だが、俺が帰ってくると期待するな」
「そんなに危険なの?」
「ああ」
「そう……」
アレットが呟き、空になった杯に酒を注いだ。まだ、半分ほど残っていたブランの杯にも注ぐ。
「いやーー! 行っちゃやだ! そんな危険なところに行かないで!!」
「アレット……」
仕方ないわね。と、呟き送り出しそうな雰囲気を持つアレットが予想外にも取り乱した。酒を注いだばかりの杯を振り回した手で弾き飛ばす。板張りの床が杯の淵の形にへこみ酒が染みを作った。
「ねえ。逃げよ? 逃げればいいじゃん」
「それは出来ぬ」
アレットを見詰め言った。その場限りの嘘は言わぬ男だ。嘘は言う。もっと大きな嘘は言う。だが、逃げる。という嘘は言わぬ。
「なんで? なんでよ!?」
目の前の酒瓶を弾き飛ばし、ブランの杯すら餌食にした。床は酒瓶と杯が散乱し、酒の水たまりが出来た。割れた酒瓶も散らばっている。
「行くっていうなら、別れるからね! お城にだって入らないからね!」
わめき、暴れ続けるアレットを、しばらく無言で見つめていたブランが不意に立ち上がった。このような時でも虎は虎である事を辞めず、その動きはしなやかさを感じさせた。目を瞑り扉へと向かう。床に転がる酒瓶を踏み潰した。
「いいの!? 本当に、本当に別れるからね!?」
その声を背に受けながら扉を潜ったのだった。
リュシアンがアレットの店に着いたのは、ブランが帰って1刻ほど後の事だった。アレットを連れて戻ってくると思っていたら、一人で戻って来たブランを問いただすと、ブランは、別れた。と一言答えた。それで馬を駆けさせてきたのだ。
「ああ。リュシアン。どうしたの?」
「どうしたもあるか。ブランと別れるとはどういう事だ?」
馬を乗り付け店に入ると、酒瓶が散乱した店内で、アレットはまだ酒を飲んでいた。卓の上には新しい酒瓶が並んでいる。
「仕方ないじゃない。反対しても、行くって言うんだからさ」
「何が仕方ない。ブランだって、お前に気持ち良く送り出して貰いたかったんだぞ」
アレットが手にした杯を置いて、リュシアンに苦笑交じりに笑みを向けた。この坊やは。と、視線が言っている。
「やっぱり、あんた。ブランほど優しくないね」
「優しくって何がだ?」
「だって、ブランが反対して欲しそうだったからさ」
「反対……って、そんな訳ないだろ」
リュシアンは円食らった表情だ。アレットが笑み、杯に口を付けた。
「気持ちよく送り出して、どうなるっていうのさ」
「どうって、ブランが気持ちよく戦えるだろう」
くねっという感じでリュシアンに顔を向けた。言葉ははっきりしているが、やはり、かなりの量を飲んでいるのか動きがどこか妙だ。
「ブランは、そんな事で気持ちよく戦う人じゃないよ。私の気持ちはどうなるのよ」
死をも覚悟しなければならない戦場を前に愛する女に笑顔で見送られ、心置きなく戦う。男にとってはそれで良いのだろう。だが、残される女はどうなのか。帰ってくれば良い。大団円だ。しかし、男が帰って来なかったらどうなのか。
「送り出すのではなかった。泣いて縋ってでも、引き留めるんだった」
そう悔やみ、男が死んだのは自分の所為だと己を責め続ける。そうなるくらいならば、散々引き留めたのにそれでも戦場に向かった男が死んだ。そう思われた方が、女の傷は浅い。
それでも、アレットが城にまで入らないと言ったのはブランにも誤算だったが、ここまできっぱりと別れると言ったのなら、すぐに戦場となる城下町からも退去するだろうと考えたのだ。
「しかし、別れるとまで言わなくても良かったんじゃないのか?」
「別れるっていう方が、ブランも安心して戦えるじゃない」
自分さえ気分良く戦えればそれでいい。ブランはそのような男ではない。自分が死ぬのを考えない。そのような甘い男でもない。後顧の憂いを無くし心行くまで戦う。ブランがそれを望んでいる。アレットはそれを察した。
「だが、別れるって言って、ブランが戻ってきたらどうするんだ?」
「そんなの、何事もなかった顔して元の鞘に収まるに決まってるじゃないの?」
アレットは、あっけらかんと答えた。その様子にリュシアンも苦笑を浮かべた。
「そんなに簡単なものか? 生きて帰って来たから元の鞘に戻るなど、都合が良過ぎるとブランが怒るかも知れんぞ?」
「だから、今、あんたに説明して証人にしてるんじゃないの。もしブランがごねたら、私が初めからこういう積りだったって、助け舟出してよ」
リュシアンが頭を抱えた。この大陸でも名の通った猛将の1人であるブランと、一国を切り盛りする自分。その2人が、酒場の女将に手玉に取られているのだ。
リュシアンが、降参するかのよう天を仰いだ。女を見詰め微笑む。
「お前は、いい女だな」
「何、今気づいたみたいに言ってるの。前から知ってるくせに」




