第267:女神
「貴女……個人にですと?」
取り敢えず返事をしているという感じだったラングハインが、予想外の言葉に彼女の顔を見直した。他の将軍達の視線も集まる。
「はい。リンブルク兵を、リンブルク兵のまま私の私兵となって頂きたいのです」
「し、しかし、もし、仮に我々が貴女に忠誠を誓ったとしても、それで私兵と認めろとは他の者達は納得しますまい。そのような戯言と、山を降りた瞬間、虜になるのは目に見えている」
フィデリアは笑みを浮かべた。それだけで、ラングハインは勿論、他の者達も今までの会話を忘れたように、その美貌に釘付けとなった。美しい指がゆっくりと持ち上がり自分の顔を指さした。
「この美貌の虜になり忠誠を誓った。というのはどうでしょうか?」
ラングハイン達は絶句した。確かにこの世のものとは思えぬ美貌だ。だが、自分でそれを言うか。
「私、これでもデル・レイでは女神などという大それた名前で呼ばれておりますの。貴方がたからすれば、馬鹿な話とお思いになられるでしょうけど、デル・レイの方々なら、そういう事もあるかも知れないと信じて下さると思うのです」
リンブルク首脳部達は顔を見合わせた。この美貌の女性が言うと、確かにそういうものかとも思えてくるのだが……。
将軍達に視線の会話が飛び交うが、その全てが、どうする? というもので明確な答えを返せる者は居ない。常識的に考えれば彼女の提案は一笑にふすべきものだ。だが、長期間包囲下に置かれている彼等の神経も限界に来ている。藁にもすがる気持ちもあった。そして、視線の会話には限界がある。将軍達の視線が、時間を稼げ、というものに変わった。
「お気持ちはありがたいが、即答できる話ではありませぬな。考える時間を頂きたい」
「分かりました。尤もな話ですわ。それでは、この陣中で待たせて頂きますわね」
それにはラングハイン達も慌てた。
「いや、相談は何日かかるか分かりませぬ。一度、お戻りになられた方が良いのでは」
「実は、皆には相談せずに来てしまったのです。一度、戻ると、きっと二度とこちらには来れないと思いますし、そうなれば、この話もなかった事になってしまいます」
「相談せずにですと? 本当ですか?」
「はい。だって、女一人で敵陣に行くだなんて、許してくれるはずありませんわ」
確かにそうだ。フィデリアが、あまりにも当たり前のような顔でいるので気づかなかった。すっかり目の前の女性に主導権を握られていた。既に、この女性の虜になっているのではと、ラングハインはうっすらと思った。
「分かりました。人をやってフィデリア殿は、我が陣中にお泊りになると伝えさせましょう」
「よろしくお願い致します」
フィデリアが一人でリンブルク軍に向かって歩きリンブルク騎士に包囲され、更に、陣中に連れられて行ったとデル・レイ陣地は大騒ぎになっていた。もしフィデリアの身に何かあれば、全軍突撃すべし! と、戦闘態勢を取るべきだという者や、今はリンブルクを刺激せぬ方が良いという者で口論すらなされている。そこに、フィデリアの言葉を託されたリンブルク騎士がやって来た。
「フィデリア殿のお言葉を伝える。見ていた通り、リンブルク陣中に向かったはフィデリア殿、ご自身の意思である。そして、それは両軍の戦闘を回避する為であり、それが解決するまではリンブルク陣中に留まるとのお言葉である。また、フィデリア殿の身の安全は、我らが責任をもって保証する」
「フィデリア様の安全を保障するというのは本当であろうな! あのお方に指一本触れれば、デル・レイ兵。全兵が死兵となって山頂に駆け上がるのを覚悟せよ!」
クリストバルの剣幕に、体格では遥かに大きいリンブルク騎士が気圧された。
「あ、あい分かった!」
それだけ言うのが精いっぱいで馬首を返した。そして、その様子を聞いたラングハインらは、デル・レイでの彼女の影響力の強さを思い知った。
「フィデリア殿の仰る事も、どうやら、大げさではなさそうだな」
「女神……か」
「ああ。デル・レイばかりではなく、皇国の勢力圏内では、元々そう呼ばれていたようだが噂以上だ」
フィデリアは国王が使っていた部屋を急いで掃除させ、そこで休む事となった。リンブルクの将軍達は更に協議に入り、膝を突き合わせ議論を重ねた。
「もし、フィデリア殿の提案を断ったらどうするのだ? 無事に返すのか?」
通常でも、交渉が決裂したところでその使者が殺されるという事はない。それをしては、交渉する余地のない相手と思われてしまい、自分達が交渉したいと思った時の障害となるからだ。だが、命のやり取りをする戦場の事。頭に血が上り後先を考えずに使者を殺してしまう事もなくはない。
「当たり前だ。それに、フィデリア殿に指一本でも触れればと奴らも言っていただろう。本当に百万の軍勢がこちらに向きかねんぞ」
「そうか……そうだよな」
言った者が、むしろ安心したようにつぶやいた。
状況として、現在、彼らが戦うのは自分達の生命と安全の確保の為でしかなく、騎士の誇りの為ではなかった。それは決して彼らが騎士としての矜持がないのではなく、軍勢を率いる国王がランリエルの士官だった。という、忠誠心をかきたてられない状況の所為だ。
その国王は自分達を救う為に努力してくれているが、それもこの状況の責任を取れ。というもので、だからと感謝したり、ましてやそれで忠誠を誓おうという気持ちはない。
「ところで、我らがフィデリア殿の私兵になったとすれば、どういう事になるのだ?」
「デル・レイ兵としてランリエルと戦う……んじゃないか?」
「リンブルクには帰れるのか?」
「えーと。どうなるんだ?」
「俺達はランリエルに付いたと思われて、ゴルシュタット軍に狙われてるんだよな? で、そのゴルシュタットは皇国に付くって言ってるんだから……」
「俺達も皇国軍って事になるなら、帰れるんじゃないか?」
将軍達は顔を見合わせた。ルキノやハイトマンらが頑張ってくれているが、その頑張りに心中するかと問われればそこまでは出来ない。
「俺達が、フィデリア殿に降れば、ランリエルに助けを求めに行った国王達はどうなるんだ?」
「国王は元々ランリエルの士官だ。まあ、無事だろう。ハイトマン達も……俺達に裏切られたって事になるんだろうから、無事……じゃないか?」
確かにハイトマンらの面目は潰れるかも知れないが、命にかかわるほどではない。ともいえる。こっちは命が掛かっているのだ。ならば、後は、フィデリアのいう事がどれほど信用出来るかだ。
「フィデリア殿は本気で言っていそうだったが、実際、そう上手く行くものなのか?」
「敵の総司令もえらい剣幕だったが、それも、フィデリア殿への忠誠の表れであろう。フィデリア殿が言えば、従うのではなかろうか?」
「いや。それとこれとは別だ。敵の総司令……確かクリストバルと言ったか。彼個人はフィデリア殿に忠誠を誓っていても、総司令としては軍の方針というものがあろう」
「確かに……な」
事が事だけに容易に結論が出ない。やはり、フィデリアの個人的な行動というのが決断を鈍らせている。話し合いは深夜にまで及んだ。
「い、いやーー!! 誰か!!」
女性の悲鳴がカリチェ山に木霊した。もう少しデル・レイ軍の包囲が狭ければデル・レイ陣地にまで到達したであろうほど大きな悲鳴。リンブルクの将軍達は一斉に駆けた。この陣中に女性はただ一人。一直線に向かう。
「フィデリア殿! 如何なされた!」
「不埒者はどこだ!」
誰かがフィデリアの部屋に忍び込んだのかと考え突入した将軍達だったが、彼らが目にしたのは、うなされ苦悶の表情を浮かべる女神の姿だった。国王が使う家具が用意されている部屋だが、それでも、陣中の事。地面は土の間のままだ。ベッドの下だけ赤い布が敷かれている。
「フィデリア殿! フィデリア殿!」
傍に跪いたラングハインが肩を掴み揺り動かすとフィデリアは目を覚ました。無意識にラングハインの手を握る。フィデリアの手が汗ばんでいた。
「ラングハイン……様。あ……。私、またうなされたのですね……。暫く、大丈夫だったので安心していたのですけど」
自己防衛の為なのか。フィデリア自身は、なぜ最近はうなされないのか理解するのを無意識に拒絶していた。自分が大臣達や衛兵と夜を共にするのは彼らを利用する為であって、自らの精神安定の為ではないのだ。
「よく、うなされるのですか?」
「ええ。夫が亡くなって……からですが」
目を反らし言った。本当はアルベルドに屈服し抱かれてからだが、それを正直に言える訳がない。
「そうですか……。おいたわしい」
ラングハインが痛々し気に彼女を見つめた。昼間見た、女神を訪仏させる美しさと敵陣に乗り込んでも毅然とした態度。その女性が汗に濡れた髪がほほに張り付き乱れ、弱々しく目を伏せている。
だが、彼も武骨な武人だ。他の将軍達も後ろに控えているし、上手い慰めの言葉も思いつかない。不埒者が押し入ったのでなければ、自分に出来る事はない。
「それでは、失礼いたす」
ラングハインがフィデリアの肩に置いた手を放し立ち上がろうとすると、フィデリアが掴むラングハインの腕が、意外に強い力で押し留められた。戸惑い彼女に視線を向けた。
「申し訳ありません……。傍に……居ていただけないでしょうか。そうすれば、うなされなくて済むと思うのです」
「分かりました」
女神に哀願され、断るという選択肢など思いもよらず反射的に答えた。右手で、自分の左手を掴んでいる彼女の手を上から包むように握った。女神が安心したように微笑んだ。
「では、私も」
ラングハインの背後でどかっと音が聞こえた。女神とラングハインを2人きりにはさせぬと将軍の1人が地面に座り込んだのだ。続いてどかどかと音が鳴る。将軍達全員がフィデリアのベッドを囲むように座った。
「お優しい……方々」
女神が呟きゆっくりと目を閉じた。すぐに安らかな寝息を立て始めた。ラングハインの手を握ったままだ。
奇妙な光景だ。敵側の重要人物が敵の将軍達に囲まれ安らかに眠っている。眠る方も眠る方だが、敵の重要人物を安心して眠らせる為に傍に座り込んでいる将軍達も将軍達だ。
女神の眠りを妨げない為に誰一人声を発しなかった。音がしないようにゆっくりと上半身を伸ばし女神の寝顔を見ようとする者もいる。俯いて目を閉じ、女神の寝息に聞き入っている者もいる。そして、全員が同じ事を考えていた。
あまりの美貌。そして毅然とした態度。それからは計り知れなかったが、改めて考えれば、女性の身で1人敵陣に向かう。それがどれ程の事か。しかも、味方を救う為ではなく敵である我等を救う為。勿論、彼女自身が言ったとおり、戦わずに済めば味方も被害を出さずに済む。それを考えたとしても、我が身、我が国を省みて、兵士達を守る為、敵陣に1人立ち向かう王族が居るのか。
そして、どうしてそこまでするのか。それは考えても仕方がない。この人はそういう人なのだ。
女神。確かにこの人は女神だ。そしてそれは、その美しさが故ではない。
将軍達はフィデリアが目を覚ますのを待って、改めて彼女に跪いた。そして、国王や首脳部の一部がランリエルに救援を頼みに行って不在な事を告げ、ただし、我らはフィデリアに忠誠を誓うと宣言したのである。
彼らは陣中から白馬を探し、彼女を横座りに乗せラングハインが轡を持った。他の将軍達が周囲を固める。その一団はカリチェ山を降りデル・レイ陣地に向かったのである。
「フィデリア様が、お戻りになられたか!」
クリストバルは、初め歓喜したが、リンブルク軍が降った。いや、降ったのは良いがフィデリア個人に忠誠を誓った。という事態には困惑した。本当にそれが信用出来るのかという問題もあるが、他の問題もある。戦乱の堪えぬ世界だ。各国は、最大限の軍勢を保有している。そこに1万を私兵として加えると簡単に言って貰っては困るのだ。組織上の問題もある。指揮系統はどうなるのか。
クリストバルがフィデリアの元に駆け付けると、その見た光景は、毅然と立つ女神とその周囲に跪く甲冑に身を固めた騎士達。
「私は、彼らを決して傷つけぬと彼らに誓い、彼らに山を降って頂いたのです。その誓いを破ろうとする者を、私は決して許しません」
クリストバルが口を開く前に女神が気勢を制し宣言した。跪く騎士達が一斉に首を垂れた。この光景にデル・レイ兵士達が感嘆の声を漏らした。僅か一日で敵を降すどころか、忠誠を誓わせるとは、まさに女神。クリストバルも同じような感想を持ったが、それでも、デル・レイ軍総司令としての職務がある。それを考えれば、やはり、認める訳にはいかぬ。
だが、今それを言えば確実に自分は死ぬ。
女神が彼らを傷つけぬと宣言したのだ。彼らを傷つける者を許さぬと宣言したのだ。たかが軍総司令より女神の方が偉いに決まっている。兵士達は、女神のいう事を聞くだろう。
「分かりました。彼らをフィデリア様の私兵。いえ、親衛隊として遇する事を誓いましょう」
その言葉にフィデリアが膝を折って敬意を表した。大歓声がカリチェ山を包んだのである。
にこやかにクリストバルに向け軽く頭を下げるフィデリアが心の中で呟いた。
ざまあみろ。アルベルド。




