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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
356/443

第261:穢れ

 その日の朝。フィデリアはユーリと朝食を共にしていた。ほんの2、3年前は美少女に間違われる事もあったユーリだがエミリアナ王女との結婚を控え随分と大人びてきた。もはや彼を美少女と見間違う者は居ない。美しい青年に育っている。ほっそりとしていた首筋も逞しくなり、男を感じさせる。


「母上。昨日も遅かったようですね」


 食事が終えようとするころ、ユーリが少し思いつめたように言った。最後の一口を口に運ぼうとしていたフィデリアの手が止まる。


「ええ。軍総司令のクリストバル様との話が少し長引いて……」


 フィデリアの声には僅かに疲れが見えた。それを受けユーリの表情が曇った。


「お疲れのようですし、少し控えた方が良いのでは」

「大丈夫よ。ちゃんと休んでいるので心配しないで」


「ですが、皆も噂しています」


 噂! フィデリアの心臓が跳ね上がった。何の噂だろうか。ナイフを持つ手に汗が滲んだ。もしかしたら、ユーリは何を知っているのだろうか。


「噂なんて、簡単に信じるものではありません」


 声が震えるのを抑えつつ、口に運びかけた料理を皿に戻し、不必要に小さく切り分けていくが、汗でナイフを取り落としそうになる。


「クリストバルだけではありません。大臣のグラシアやウルタードとも。いえ、他にも大勢です」


 手が震え、ナイフが皿にカチカチと触れる。俯き愛する息子から表情を隠した。


 どうする? どうする?

 ユーリとの間には花を活けた花瓶がある。隠れた手元で、料理を細かく粉砕しながら言葉を捜した。どうすれば誤魔化せるのか。適切な返答が思いつかない。


「母上。どうして私に言ってくれなかったのです」


 母をあんずる息子の声は暗くし沈んでいる。


 言えない! 言える訳がない!


「わ、私は貴方に隠している事などありませんよ」


 平静を保つ。全力で平静を装う。機械的に料理を口に運んだ。何の味も感じない。そもそも、何を口に入れたのか。


「母上。私は知っているのです!」


 終わりだ。全てが終わりだ。ユーリにだけは知られたくなかった。でも……。


「母上は、毎日のように深夜まで、その者達と話し込んでいるとか。どうしてそんな無理をなさるのです。私が知っていれば、止めたものを」


 どっと身体中の力が抜けた。床に倒れ込みそうになるのを堪えた。思わず、クスクスと笑いが漏れる。後ろめたさが過剰に反応させたのだ。


「母上! 笑い事ではありません! そんなに私が信用出来ないのですか」

「ごめんなさい。ユーリ。ですが、国を背負うとは、それだけ大変な事なのです。大変だからと、疎かには出来ないのです」


 動揺が収まれば、やはり、ユーリとは経験が違う。落ち着いたその声は、それだけで劣勢を覆した。


「そ、それくらい私も分かっています。ですから、母上の代わりに私が大臣達と会います。母上は休んで下さい」

「ありがとう。でも、貴方には貴方のする事があるはずよ。それも疎かにしてはなりません」


 現在、ユーリは国王となる為の勉強中だ。皇国宰相の息子として教育水準は高い彼だが、それとは別。所謂、帝王学。というものだ。


「それも疎かには致しません。昼にはそれを行い。夜は大臣達と会います」

「それでは駄目よ。ユーリ。それでは、結局、両方が疎かになってしまうわ」


「そのような事にはなりません! 必ず、両方こなして見せます!」

「違うのよ。そうじゃないの。頑張ってどうにかなるものではないのです」


 小さく首を振り、諭すように言った。


「それは、どういう事なのですか?」

「国王としての勉強を終えずに、国務を問題なくこなせるとお思いですか? その逆も同じです」


 基本がしっかりとしてこそ応用が出来る。基本はこう。だが、時にはこうすべき時がある。それが現実の実務だ。ユーリは今、その基本を学んでいる。それを終える前に、実務という応用の塊に手を出せば、基本という軸がぶれる。


「ですが、このままでは母上が倒れてしまいます。私には見過せません」

「ありがとう。その気持ちは嬉しいわ。なら、早く立派な国王になって。そうすれば、私は安心して貴方に任せられるわ」


 正論だ。だが、愛する母が疲れているのも事実。聡く心優しい息子として、それも目を背けられない。だが、聡いからこそ、考え抜いた結論は正論に傾いた。


「わ……分かりました。母上が安心出来るように、必ず、早く立派な国王になります」


 美しい母と息子のお互いを思いやる姿。傍らで給仕をしていた侍女と執事が涙を浮かべる感動的な光景だ。彼等は、この感動を誰かと共有したくでうずうずしている。この仕事が終われば、急いで同僚を捕まえなくては。


 昼過ぎ、フィデリアは、大臣のフーゴを呼ぶように執事に言いつけた。大臣達は仕事を屋敷に持ち帰る者が多い。昼過ぎまではそれぞれの執務室で部下に指示を与えたり報告を聞いたりし、その後、帰宅し自らの屋敷で仕事を行うのだ。フィデリアも、フーゴが帰宅する前に王宮で捕まえられるだろう時間に執事に言いつけたが、予想に反しフーゴは既に帰宅していた。執事は屋敷にまでフーゴを追いかけた。


「奥方が階段から落ち、その連絡があって早めに屋敷に戻ったとの事でした。フーゴ様は、お呼びならば参上致します。との事で御座いますが、如何致しましょう」


 本当は、すぐにでも王宮に参上すると言ったのだが、執事が気を回し、今日は奥方のお傍にいた方が良いのでは、私はフィデリア様にお伺いしてまいりましょう。と、彼なりに気を利かせたのだ。フーゴも、そう言われれば、よろしく頼むと言わざるを得なかった。


「奥様が……」


 胸がチクリと痛んだ。何故かは分からない。分からないが胸が痛い。ただ、以前の自分だったら、その痛みの意味が分かったのではないか。頭の片隅でそう考えた。


「それでは仕方がありません。どうか、奥様のお傍にいてあげて欲しいと、私が言っていたと伝言をお願いします」

「は。かしこまりました」


 執事は、やはり、お優しいフィデリア様だ。と、恭しく一礼した。言付けを聞いたフーゴが、本当か? 本当にいいのか? としつこく問いただしたという。


 フーゴとの面会はなくなったが、既に他のめぼしい大臣達も帰宅している。今から呼びつけるには、既に遅い時間だ。計らずにも、この日フィデリアはユーリの望み通り、大臣達とは会わず寝所に身を横たえたのだった。


 やはり、疲れが溜まっていたのかベッドに身を横たえると直に規則正しい寝息を立て始めた。彼女自身は気付いていなかったが、今は亡き夫ナサリオは、彼女の寝息を聞くのが好きだった。寝たふりをして彼女が先に寝るのを待ち、聞き耳を立てていたのだ。彼は、妻の寝息は世界一美しいと信じていた。尤も、彼は、妻の妻の指先から髪の毛の一本に至るまで、世界で一番美しいと信じていたが。


 不意に、その美しい寝息が乱れた。加虐趣味の者が聞けば情欲を掻き立てられるような苦し気なうめき声が漏れる。何かに抗うように両手が宙をかきむしる。


「い、嫌……」


 足がバタつき、腕がさらに激しく虚空を掻き毟った。顔が苦悶に歪んでいる。


「いやーーーーーー!!」


 自らの悲鳴で跳ね起きた。身体中が汗でびっしょりと濡れている。息遣いが荒く怯えた視線が部屋中を這いまわった。


「フィデリア様!」


 悲鳴を聞きつけた若い騎士が部屋に飛び込んで来た。フィデリアの警護を任せられるだけあって優れた騎士なのだろう。フィデリアに視線を向けつつも腰の剣に手をかけ、周囲の気配を探っている。


「大丈夫です。少し、怖い夢を見ただけよ」

「そ、そうでしたか。失礼いたしました」


 ベッドから上半身を起こした寝姿の女神を前に若い騎士はどぎまぎしている。薄い生地で身体の線をはっきり浮かび上がらせている。しかも、汗で少し透けてさえいた。もう少し見ていたいという誘惑はあったが、彼女のあまりのまぶしさに、逆に、逃げ出したいという思いすら沸いてくる。


「な、何かあればお声をおかけ下さい」

 そういうと、焦ったふうに部屋から出て行った。


 騎士が姿を消すと、フィデリアは今見た悪夢を思い出し、ベッドから起き上がった。少し前には頻繁に見ていた悪夢だ。だが、最近は見なかった。大臣達と深夜まで’相談’するようになってからは見なくなっていた。


 ベッドを降り、大きな鏡台の前に座った。目の前に自分がいる。


「私は、穢れてなどいない」


 己に言い聞かせるように。目の前の自分を諭すように言った。


 だって、沢山の男に抱かれても、全然平気だし。男に抱かれるなんて、そんなに大騒ぎするほどのものではない。


「だから、私は穢れていない」


 デル・レイの全閣僚。それと寝た。彼らはアルベルドと距離を置き始めている。ほら、アルベルドに屈していない。彼らは私を抱いている。ほら、アルベルドのものになっていない。


 アルベルドが任命した閣僚達を奪う。自分に、ひいてはユーリに従わせる。その為に彼らに抱かれる。屈して抱かれたのではない。自分の意思だ。彼らを利用する為に抱かれているのだ。彼等を抱いているのだ。アルベルドもその一人に過ぎない。ユーリの為、その方が都合がいいから抱かれた。アルベルドなどその中の1人。特別ではない。有象無象。その他大勢。


 傍から見れば、彼女の行為は更に自身を汚しているように見えるだろう。だが、それは違う。彼女自身は違うと思っている。身体に染みついた穢れを薄めているのだ。


 アルベルドによって身体を汚された。それは、彼女にとって耐えがたいほどの心の傷。その傷を癒す為の逃避。男に抱かれるなど大した事ではないのだ。多くの男に抱かれるほど穢れが薄まる。他の誰がどう思おうが、それが彼女の精神を安定させる為には必要だった。


 そうだ。とフィデリアはある事を思いついた。鏡台を離れ扉の前に進んだ。内側から軽く叩くと外から、先ほどの若い騎士が、

「はっ、如何しましたか」

 と返事をした。やはり、何かあった時の為にと扉の前に控えていた。フィデリアは扉を開け騎士に微笑んだ。


「いつも、ご苦労様です。貴方には感謝しています」

「いえ。私の役目ですから」


 思わぬ雲の上の人物から声をかけられ若い騎士に緊張が見える。しかも、相手はあの女神フィデリア。見回りの時も偶然部屋から出てくるのに鉢合わせないかと神に祈りもした相手だ。


「その役目を疎かにする者も多いです。貴方な立派な方なのだと思いますよ」

「フィデリア様からそのようなお言葉を頂けるとは、光栄で御座います」


 若い騎士は、既に夢心地で、現実とは思えぬ幸福感に包まれている。


「私が、お茶を用意しましょう。少し、休んで行きなさい」

「フィデリア様、お手で、ですか! そ、そんな勿体ない。それにフィデリア様にそのような事をして頂いたと知られれば、上官からお叱りを受けてしまいます」」


「しっ。静かに、他の人が来ますよ。それとも、私がいれるものは飲めないと仰るの?」

「け、決してそのような事は!」


 声を上げた若い騎士にフィデリアが近づき、その口元に美しい人差し指を近付けた。くらい部屋から廊下に少し出た為、薄い衣装から身体の線が浮いているのがはっきりと見えた。微かに触れ、若い騎士の心臓が破裂しそうなほど鼓動した。


「静かに。ね?」


 微笑み、若い騎士から背を向けた。部屋の奥に進み、歩くたびに縊れた腰が誘うようにうねる。扉は開け放ったままだ。暫くして、若い騎士が意を決したように部屋に入って扉を閉じた。


 衛兵を味方につけておけば、いざという時に役に立つに違いない。

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