第259:囚われの女王
自分の夫が名前も経歴も偽っていたのだ。職務を行える状態ではないと考えるのが普通。ハイトマンが呆れるのも無理はない。だが、その指摘にルーペルトとラスコンが毅然と反論した。
「こちらでもそれは危惧していた。しかし、ルキノ殿。いや、リンブルク王の正体が露見した後も、クリスティーネ女王は貴族の謁見を行っているという情報があったのだ」
「そうです。女王陛下は、この問題が起こった後も何ら動揺なされず職務をこなしておりました。それどころか、夫の名前、身分など些細な事と、リンブルク王の退位を迫る大臣や貴族の要求をはね付けていたとか」
「妻がか!」
妻は、自分を信用してくれる。そう信じてはいたが、やはり、それが明確になるとルキノの心は感動で打ち震えた。素晴らしい妻だと、無意識に同意を得ようとハイトマンに笑みを向けた。
「いや。今はそれどころじゃない。感動するのは後にしろ。それで、どうしてそれが変わった」
ルキノ夫妻の愛情物語に興味がない彼にとって、今はリンブルク女王に会えるかどうかが重要だ。言葉の後半は、ラスコンに顔を向けていた。
「はい。それなのですが、クリスティーネ女王が貴族の謁見を行わなくなったのは、ゴルシュタットから来たベルトラム殿と会ってからで御座います。クリスティーネ女王が国王陛下の退位を承諾しないのを説得しに来たという事らしいのですが……。それから、クリスティーネ女王は誰にもお会いになりませぬ」
「父親の説得でか……。あんたの奥方と父親との関係はどうなんだ?」
ハイトマンは呟き、ルキノに顔を向けた。先ほどは無視しておきながらの言い草にルキノは機嫌を損ね口を噤んだが、それは重要だとルーペルトも説得し、渋々口を開いた。
「妻はベルトラム殿を尊敬し、ベルトラム殿に忠実だった。そのベルトラム殿に私の退位を迫られ……。妻が私の退位に同意したという話は聞いていないのだが?」
「はい。そのような話は聞いてはおりませぬ」
「やはり。私の為にベルトラム殿の言葉に抗い、その心労で伏せっているのだろう」
妻の事は心配だが、あれほど義父を信頼し尊敬する妻が、それに反抗してまで味方をしてくれたという話にルキノ自身にも抑えきれぬ喜びが沸き上がる。
「大臣達には抵抗してたって事は、気の弱いお嬢様って訳じゃなさそうだが、それが父親に逆らい心労で倒れる……。余程、父親が怖いのか、それとも、心労で倒れた事にされているか、か」
他人の家庭事情に興味がないハイトマンにとって、事実のみが重要だ。
「倒れた事にとは、どういう意味だ?」
「病になったと公表して、何処かに監禁している。というのは良くある話です」
「まあ、そういう事だ」
ルーペルトが補足しハイトマンが頷いた。そしてその指摘にルーペルトは緊張の色を浮かばせる。
「結局、王宮に忍び込むしかなさそうですな」
それはベルトラムの部下に負け続ける彼等にとって、一番避けたい状況だった。
「あぁ……」
クリスティーネが甘い官能の声を漏らした。
彼女は愛する夫の愛撫を受けていた。乳房。下腹部。太腿、その内側と、目を瞑り身体中を這う夫の手の感触をうっとりと堪能する。指が首筋をかすめ、くすぐったさに瞼が綻ぶ。
腕。
腕だけだった。肘の手前から切り落とされ、血が滴る腕。気付けば、その血で身体中が真っ赤に染まっている。いつの間にと疑問に思う間もなく腕は無数に増えていた。無数の腕が身体中を這い回る。
「いやーーーーーー!!」
悲鳴と共に目覚めた。侍女がすぐさま、だが、慌てる様子もなく駆けつけた。女王に気休めの言葉をかけ水を飲ませる。
ハイトマンの予想は2つながらにして正解だった。確かに、彼女は心労で臥せっていたが、更に、そのまま監禁されても居た。
目の前で男の腕が切り落とされ、それを目の前に突き付けられた。その光景が脳裏に焼き付き悪夢にうなされる。いつも同じ、ではない。時には、切り落とされた腕に追いかけられ、時には食事を取ろうと千切ったパンから血が溢れ、気付けば手にしていたのは男の腕。ありふれた日常の光景。これは夢ではないと油断した。その瞬間に悪夢に変わる。
クリスティーネ自身、もはや、夢なのか現実なのかも曖昧だ。
食事中も千切ったパンから血が流れ出ないかと恐れ、今では、侍女に命じてあらかじめ細かく千切ったパンを用意させている。監禁されている部屋も内部は更に扉で区切られ複数の部屋になっているが、別の部屋に移動する時は、必ず侍女に先に行かせて腕が落ちていないか確認させた。侍女は、その度に、腕は御座いません。と答えるのだ。侍女も、ダーミッシュの一族であり、元々感情を制限するのはお手のものだが、それでも、うんざりした表情を隠すのを苦労するほどだ。
だが、クリスティーネは真剣、いや、それ以上。精神が追い詰められギリギリの状態だ。もし、誰かが冗談ででも作り物の腕を彼女のベッドに忍び込ませれば、彼女の精神は崩壊するだろう。その為、侍女達は女王への接し方にも細心の注意を払っている。
いかに彼女が心休まるか。心が回復するか。彼女の信頼を得られるか。その為、時に彼女に甘えるような態度すら見せた。元々、世間知らずなクリスティーネだ。侍女達とも親しくなり、仲の良い侍女達に囲まれ何とか心の平静を保っていた。
それだけベルトラムも娘に細心の注意を払っているのだ。彼女が錯乱した事に、冷静になったベルトラムも流石に危機感を覚えたのだ。本来、ベルトラムはこの大陸で最も冷静な男と評しても過言ではない。その冷静さが彼の賢の根源であり、時にサルヴァ王子やアルベルドすら凌駕する。それが、クリスティーネの事となると狂う。
泣き叫び、怖い物から逃れようとする幼児のように耳を塞ぎ縮こまる娘に切り落とされた腕を突きつけていたベルトラムだったが、我に返ると、己の失態に怒りすら覚えた。侍女を呼びつけ部屋を片付けさせると同時に娘を介抱させた。
怯えた目で父を見る娘に、今は距離を置くしかないと判断するだけの分別を取り戻したベルトラムは、王宮の一角に娘を閉じ込めたのである。
だが、娘は一向に良くなる気配がない。如何な賢人ベルトラムといえど、心の病には専門の医師に頼らざるを得ず、娘の元に医者を派遣した。
「どうやら、この王宮でかなり怖い目にあったようです。まずは、王宮から遠ざけるのが必要かと」
「それで、娘は元に戻るのであろうな」
「い、いえ、それは……。通常のご病気でも、まずはその原因を取り除くのが肝要です。それで治る場合もあれば、更に治療が必要な場合もあります。ただ、心の病というのは何が切欠で治るとも言い切れませぬし……。とにかく、環境を変える事がまずは必要かと」
大権力者を前に、医師の言葉は保身を裏打ちした原則的なものではあったが、とはいえ、医者ではないベルトラムは反論の言葉はない。うむ。と頷いた。
ベルトラムは、すぐさま馬車と静養先を手配し、クリスティーネを移送した。娘の事となると、その賢が鈍るベルトラムだ。現在の状況ではダーミッシュの一族も多忙である。騎士を集め護衛させたが、万全とは言い難かった。
ルキノ達はカーサス伯爵の部下を含めても20人にも満たないが、それでもルキノやハイトマンは勿論、他のリンブルク騎士も選び抜いた者達だし、カーサス伯爵の部下も選りすぐりだ。入念に計画を立てれば移動中の女王の身柄を抑えるのも可能だったかも知れないが、運命の女神も彼等を贔屓する理由はない。さて、と彼等が王宮に忍び込む計画を立てる為に情報を集めた挙句に得たのは、女王が既に王宮に居ないというものだった。
千載一遇の機会を逃した彼等は地団駄を踏んだが後の祭りだ。だが、終わった祭りをいつまでも懐かしんでもいられない。王宮に忍び込むよりはマシになった。と、前向きに考える事にした。
「王宮というものは、身を隠す物が多いので意外と建物の手前までは簡単に忍び込めるのですが、問題は、入ってからです。そして、それは建てた方も分かっているので、その分、内部は厳重です。兵士を詰める隠し部屋なども多い。しかも、それをベルトラムの部下が固めている。忍び込むと決めたものの、どうしたものかと、内心、冷や汗をかいておりました」
「しかし、女王が向かった先でも、そのベルトラムの部下が警護してるんじゃないのか?」
ルーペルトの率直な言葉にハイトマンが問うた。
「勿論、そうですが、調べたところ、向かったのは王宮とは比べものにならない小さな屋敷。どうやら、女王が心労だというのは本当なのでしょう。風景の良い気が収まる場所を優先させたのだと思われます。それに……」
「それに?」
「そのような場所に女王を移した事自体、我らの存在に気付いていない事を示します」
「なぜ、それが分かる?」
ルーペルトはそれに答えず、ルキノへ顔を向けた。
「リンブルク王にお伺いします。ベルトラムは、己の策略に娘を餌にするお方ですか?」
「いや……。せぬだろうな」
「はい。私も、貴方から聞いた話や集めた情報から判断し、クリスティーネ女王に危害が及びかねない策略はすまいと考えています。つまり、王宮からそのようなところに移動させたのは、囮にする為ではなく本心から静養させる為。女王を連れ去ろうとする者がいるとは考えていない。という事です。ならば、その分、我等が有利」
勿論、女王を守るに不足ない人員は配備されているはず。だが、来る! と、覚悟しての警護と、ただの任務としての警護。手を抜いている訳ではなくとも、どうしても差が出る。
さっそく再度、情報収集を行った。夫以外の男性には指一本触れさせないというクリスティーネ女王の静養先としては当然というべきか、屋敷の内部には女性ばかりで、警護の者達は全て屋敷の外だ。女王の目にも触れさせない為か、寝起きするのも食事をするのも、屋敷から少し離れた森の中に簡素な小屋を建て、そこで行われている。
「あんたの奥さんは、そこまで潔癖症なのか?」
「潔癖症ではない。ベルトラム殿から、夫以外の男には指一本触れさせるなと育てられたのだ」
「それにしても、目にも触れさせぬとは、度が過ぎているぞ」
「いや。以前は、そこまでではなかったはずなのだが……」
ルキノと出会った時も、触れるのは拒絶したが、目にするのも嫌、というほどではなかった。結婚した後もルキノ以外の男性には指一本触れさせないが、女王としての職務で大臣や貴族とも会っているはずだ。
「とにかく、屋敷の警護が手薄なのは不幸中の幸いです」
その屋敷内の女達もベルトラムの部下なのは予測できる。だが、剣の重みで叩き切る西洋剣の戦いでは、ある程度の腕力はどうしても必要。脆弱な筋力では甲冑を纏った騎士の相手にならない。物語のように手練の女騎士などという者は稀だ。軍隊の士気を挙げる為の象徴的な存在としてはありえても、一個の戦力として計算した場合、どうしても差が出る。侍女達の技量が優れていても、完全武装の騎士は相手に出来ない。
「問題は、屋敷の外か」
「ええ。屋敷からは目に止まらぬ程度。という事で屋敷付近にはそれほど多くありません。ですが、それでも我等よりは多い」
屋敷から離れたところに数百。屋敷の付近に数十。そして屋敷の中に侍女に扮したダーミッシュの部下。という体制だ。
「大外の警護の目を掻い潜るのは難しくはありません。問題は屋敷付近にまで近づけば、その者の目に触れ大外の者達が呼ばれる。屋敷付近の者達の目を逃れても、侍女に出くわせばそこで助けを呼ばれ、屋敷付近の者、大外の者と連絡が行く」
「簡単にはいかなそうだな」
ルーペルトは深刻そうに頷いた。




