第238:望み
それは、サルヴァ王子が皇国との決戦を決断した夜の事だった。
晩餐も終わり娘を胸に抱いて椅子に座るアリシアの前に王子も腰掛けていた。娘は眠っておりすやすやと寝息を立てている。娘、ジュリアも以前は重たい頭が不安定で抱いていても気が気でなかったが、今は首も据わってすっかり母の顔となったアリシアにも余裕が見える。
優しげな視線を愛娘に向ける妻に王子は出兵を打ち明けた。無論、それだけの重大な情報。すでにアリシアの耳にも入っていたが、彼女もあえて王子が言い出すまで話を向けなかった。
「皇国との戦いが避けられなくなった。数年先と考えていたが情勢がそれを許さぬ」
簡潔にそれだけを言った。言いたい事は山ほどある。だが、王子はそれをしなかった。言い訳をするほど落ちぶれてはいない。これだけでもいい訳めいていると後ろめたさすら感じていた。
本当は自分も戦いを望んではいない。カルデイをバルバールを攻めた当初までは確かにそうだった。だが、今は違う。ランリエルを、配下の国々を守る為に戦って来た。それも戦うだけが目的ではなく勝たねばならない。勝つ為には有利な状況を作り出す必要があり、有利な状況を作り出すには……。
愚かな行いが、更なる愚かを生む。一度、戦いの渦を生じさせれば行き着くところまで行き着くしかないのか。サルヴァ王子はランリエルを守る為に戦って来たが、ランリエル以外の国の民にしてみれば、とんだとばっちり。その者達にしてみればランリエルこそが侵略者。皇国とて、ランリエルが中央に進出して来なければ問題にはしなかった。
そもそもバルバールを攻めたサルヴァ王子の罪。確かにそうかも知れない。だが、時を遡る事は出来ない。サルヴァ王子の罪なのだから、その民であるランリエル人は座して皇国に滅ぼされるべき。それは出来ない。だが、ランリエル人が滅ぼされない為に攻められる他国の民に何の罪があるのか。ならばランリエルの民に滅びろというのか。
「私が悪いのだが、ランリエルの民を救う為には、大変申し訳ないがお前達に死んで貰わねば困るのだ」
そう、涙ながらに謝罪すれば他国の民達は、
「なるほど。良く分かりました。それは仕方がないですね。喜んで死にましょう」
と快諾してくれるとでもいうのか。
ランリエルの民に、
「私の所為で他国の民を害するのは忍びないので、お前達が死んでくれ」
と泣けば、ランリエルの民が納得してくれるのか。
どうせ相手に認められない謝罪など自己満足でしかない。苦渋の選択など本人以外には全く知った事ではない。
他国の民かランリエルの民か、どちらかを選ばなくてはならない。そして現実、サルヴァ王子はランリエルの統治者。後者を選ぶ。自国の民を自分の所有物と見なし、自分の所有物より他国の民を大事にする心優しい人で無ければだ。
「そうですか」
アリシアが静かに言った。なぜ? とは問わない。彼女も自分の夫が戦いを望んでいないのは知っている。なぜ? と問えば夫はそれに答えなくてはならない。そしてその答えを自分は理解も納得もできない。
アリシアが知性にあふれているかと言えば、そうではない。精々普通。貴族令嬢達より理性的と見える場面も多々あるが、住んでいる世界の風習が違うからアリシア視点では貴族令嬢達が愚かに見えるだけで、貴族令嬢視点で見ればアリシアこそが愚かな女。
他の寵姫達がサルヴァ王子の心を射止めんと躍起になるのを馬鹿げた騒ぎとアリシアは見ていたが、貴族令嬢達にしてみれば後宮に居ながらサルヴァ王子の心を射止める努力を怠るのは、戦場に立ちながら武器を捨てて仰向けに寝転がるほどの愚行。
たまたま王子が変わり者で拾ってくれたから良かったものの、それはただの奇跡に過ぎず万例の模範解答ではない。貴族令嬢達の主張が正しいのだ。しかし、男女が愛し合うのは、優れているかどうかではない。
アリシアはサルヴァ王子と合った。何故かといえば偶然合った。浪漫好きな侍女は運命と主張し、ある意味それも間違いではないが偶然は偶然である。
サルヴァ王子の気に障る事でも平気で言う彼女だ。それでも本当に言って欲しくない事は言わない。というわけでもなく、特に以前のサルヴァ王子の愛妾セレーナが生きていた頃にはその所為で散々ぶつかりもした。ただ、サルヴァ王子が痛いところを突かれて激怒するのは平気だったが、痛いところを突かれて悲しむのは無意識に避けていた。
「ジュリアを頼む」
「さて。どうしましょうか」
娘に顔を向けたままアリシアが微笑み言った。王子が顔を向ける。
「可愛い娘ですもの。頼まれなくても大事にしますよ」
「そうだな」
「貴方との娘ですもの」
「そうだな」
サルヴァ王子が微笑んだ。
「なら。ただ待っていてくれ。それだけでいい」
「貴方もただ帰ってさえくれればいいです。それだけでいいです」
何故、戦うのか。その理由は人それぞれ。それ故に本人以外には意味を成さない理由でもある。だが、愛する者を待つ者の心に違いはない。愛する者を待たせる者の心に違いはない。
サルヴァ王子は微笑み愛する妻を抱き寄せた。
ついにランリエルとの決戦。それを前にアルベルドは精力的に動いていた。国力の回復を待つならば、決戦は先延ばしにした方がいい。先の大戦と内乱の傷はまだ癒えておらず、皇国は本来の力を取り戻してはいない。だが、アルベルドには急ぐ理由があった。それは戦略ではなく政略の問題だ。
副帝となって皇国の権力を握ったが、その期限はカルリトス帝が成人するまで。それも既に1年を消費した。しかし、アルベルドの真の狙いは皇帝。それには2つの方法がある。
皇帝を殺す。カルリトスが成人する前に殺す。跡継ぎを作らぬ前に殺す。ならば順当に考えれば次の皇帝はアルベルドだ。カルリトスが早熟で跡継ぎを作っていてもタイムリミットの延長にはなる。
だが、これはあまりにもあからさま過ぎる。多くの者の非難を受けるだろう。名声を権力基盤とするアルベルドの、その名声にも深い傷を穿つ。その非難を押さえつけて皇帝になるならば、余程の権力を握っていなければならない。そして、それが出来るくらいなら、それこそ次の案を取るべき。
つまり、カルリトスが成人するまでに強大な権力を握り、カルリトスから正式に皇位を譲られたとの体裁を整えるのだ。それが最も望ましい。その為にもランリエルを倒す。
ランリエルを倒し名と実を得る。ランリエルを倒したという名声。ランリエルから奪った広大な領地。ランリエル本国は副帝の領地として納める。配下の国々も滅ぼすとまでは行かなくても、それぞれに執政官を派遣し王家は飾り物とする。その勢力は、衛星国家を除いた皇国本国のみと比べた場合、それを超える。
しかし、それには時間が必要。戦争はその後が重要だ。戦いは日単位。時には時間単位で決着するが、統治は年単位だ。
皇帝から皇位を奪う。その時までにランリエルから奪った領地の反乱を鎮めておかなくてはならない。カルリトスが成人する前に奪った領地を安定させねばならず、突発的な事象で安定化が遅延する可能性も考慮すればランリエルを倒すのは早ければ早いほどいい。
今回の出兵にアルベルドは出陣していない。今はまだ。だ。ランリエルが出陣するとの報告があり、それに対応する為にある程度の増援は行うが、それも他の将軍に任せる。ランリエル軍を釣り出し、戦況が抜き差しならぬ状況になってから大軍を動員する。その大軍を率いるのは副帝アルベルドでなくてはならない。
ランリエル側の戦力にあわせこちらも戦力を逐次投入。純戦術的には、攻撃目標に持てる戦力の全てを集中し撃破するのが正統であり、逐次投入は確実に愚策。
しかし政略も含めた大戦略の観点で見れば、その戦術的愚策も意味を持つ。
人々は、例え知的水準の高い者でも実際に目にした光景に思考は囚われる。その本質は皇国の力であっても、実際にアルベルドが大軍を率いるのを見れば、その大軍はアルベルドの力であると脳裏に焼き付けられるのだ。
副帝として増援やその後の自分が率いる軍勢の手配。自分の不在時の皇国の体制についての検討など、アルベルドの仕事は山積していた。
フレンシスも、その夫の様子から今回の出兵がセルミア王都の争奪戦程度のものではないと感じていた。そして、そうなればランリエルとの総力戦になるであろう事は、軍事に疎い彼女でも、木の実が熟すればそのまま下に落ちるのが当然のように予測できた。
夫は、世に言われているような聖人ではない。それを彼女は知っている。彼女だけが、とも言える。自分以外には優しい夫。何故なのか。そして何故、その自分には優しくない夫から離れられないのだろうか。馬鹿な女。傍から見ればそう見えるだろう。
痛々しい。何故か、夫の姿にそう感じるのだ。
「何故、そこまでするのですか?」
机に噛り付く夫に問いかけた。アルベルドは、わずらわしげに筆持つ腕を一振りするだけでそれに応えた。お前と話す事など無い。とその姿が物語る。
「貴方は、すでに人臣を極めました。その先に何があるというのです。何を望んでいるのです」
アルベルドは反応を示さず書類を処理し続ける。夫に無視されるのに慣れたフレンシスは言葉を続けた。
「貴方は、何をなせば満足するのですか。何をなせば貴方の心は満たされるのですか」
筆が、インク壺に荒々しく差し込まれインクが飛び散った。書類を黒い水玉が彩る。アルベルドが苛立ちの視線を妻に向けた。
「はっきり言う。お前が何を言っているのか。全く意味が分からん」
「申し訳御座いません」
言いつつ、すばやく机の傍にあった布で飛び散ったインクを拭いた。水玉になった書類は、インクが広がらないように布で叩くようにして拭き取って行く。
「貴方は……。何を求めているのですか」
「何を言っているか分からんと言っている」
アルベルドがうんざりした様子で顔を背けた。妻は机を拭き続ける。その横顔をランプの明かりが照らす。
「皇帝に等しい権力。そして……フィデリア様……までも」
「お前の知った事ではない」
歩み寄ろうとする妻とそれを拒絶する夫。その距離は遙か遠い。それでも妻は歩み寄り続ける。それは、蜃気楼を追うに似ていた。決して辿り着けないのだろうか。近づけば消え失せる。それでも、何処かには必ず存在している。だがそれは、今進んでいるのとは全く違う方向に有るのかも知れないのだ。
「ランリエルと戦えば、それは得られるというのですか」
「下らぬ事を。ランリエルは他国を侵略する暴虐の国だ。それを倒すに私益などあるものか」
妻との会話に飽いたのか、アルベルドは対外的な主張をした。腕を振って妻を下がらせると再度筆を持ち書類に向き合う。
しかし、それが夫の本心ではないと妻は知っている。己を聖人と見せる為の他者への顔だ。だが、夫が心を閉ざした今、更に追ってもますます心を閉ざすだけなのも今までの経験から理解している。
「失礼致します」
そう言って部屋から立ち去ろうとし、扉の前で足を止めて振り返った。
「私には、貴方が正しいのか、正しくないのか分かりません。ただ……」
「ただ、なんだ、はっきり言え」
アルベルドは顔を上げもせず、うんざりした声だ。
「ただ、私の元へ生きて帰って来て下さい。私に、それ以上の望みはありません」
その言葉を無視しようと考えたアルベルドだったが、フレンシスがその場から立ち去ろうとしないのを感じ顔を上げた。妻がまっすぐに視線を向けている。
「待ちたいというなら、勝手に待っていろ。私もお前に他に望みなど無い」
アルベルドが追うものも蜃気楼なのではないのか。2人は別々の方向にそれを追い、それは実は同じものを追っているのかも知れない。




