第226:嘘
口舌極めた言葉の駆け引きを想定していたウィルケスだが、思いもよらぬナターニヤの拳をまともに受けた。形の良い鼻が拉げ血を噴出し崩れ落ちる。
痛って。まさか、いきなり殴ってくるとはな。
かろうじて踏み止まり鼻を触る。折れてはいない。だが、激痛に一瞬顔をしかめた隙に、ナターニヤがウィルケスの顔を両手で抱えた。長いスカートの下から右足が踏み込むのが見えた。
反射的に膝が来るのを予想し顔の前に両腕をかざす。が、その膝が脇腹に突き刺さる。正確に肝臓を射抜かれた軍人が、華奢な公爵令嬢の攻撃に呼吸が出来ず膝を付いた。
何なんだ。この女は。
ナターニヤは右利き。顔を狙うなら右膝で来るはず。それが右足を踏み込み左で来た。そう考えれば、この攻撃を予想するのは可能だった。だが、如何に内面は毒女と見抜いていたとはいえ、外見は細い手足と身体の妖精が如きご令嬢が、的確に肝臓を狙って膝を入れて来るなど思いも寄らなかった。
「ナ、ナターニヤ殿。少し、少し落ち着いて」
呼吸が出来ず、喘ぎながら制止の言葉を吐いたが、その目に映ったのは、決して軽くはないはずの椅子を頭上にかざすご令嬢の姿だ。
一瞬、その現実離れした光景に我が目を疑った。だが、思考は停止しても、軍人としての鍛えられた身体が反射的に動く。
何とか背中を丸め頭部への直撃は避けたが背中に衝撃が奔る。前のめりに倒れかけたのを何とか堪えた。次の攻撃に備えナターニヤに視線を向ける。横殴りに来る椅子を転がってかわす。予想外の怪力を発揮するナターニヤだが、振り回した椅子の遠心力には敵わず、手から離れた椅子は高価な磁器を乗せた小さな机に激突し、庶民の生涯賃金を超える食器が砕けた。
敵の姿が視界から消えては危険。転がり攻撃を避けたウィルケスが急いで仰向けになると、思いの外、至近距離に、普段は淡い碧眼を深紅に燃え上がらせた美しい顔があった。気付けば、馬乗りになっている。拳を握り締め振りかぶった。
「何よ。馬鹿王子と結婚しろだとか。その副官と結婚しろだとか。私は玩具じゃないのよ!」
拳をウィルケスの顔面に叩き付けた。
ナターニヤは、コスティラではお転婆と呼ばれていた娘だ。それからすれば、ランリエルに来てからのサルヴァ王子の妃になる為に暗躍した姿とはかけ離れている。全くの別人格と言っていいほどだ。
彼女は、ランリエルの後宮に入ると命じられた時に、必ずサルヴァ王子の妃になると決めた。勝気な彼女は、そうとでも考えなければ状況を受け入れられなかった。その役を演じた。ほぼ完璧に。それは、本来の彼女とはかけ離れているからこそ、元の自分に引きずられずにいた。それどころか役に、憑依されていた。ある舞台で、長年、空を飛べる男を演じていた俳優が、遂には本当に自分は空を飛べるのだと思い込み、塔の天辺から飛び降りてしまう。それに近いものだ。
だが、その舞台は突如にして幕を閉じた。舞台監督たる父が、サルヴァ王子の妃を目指す冷徹なコスティラ令嬢の演目は今日で終わり。明日からはテッサーラ王国国王の妻を演じるように、と言って来たのだ。
役柄を取り上げられた彼女に残るのは素の自分でしかない。サルヴァ王子の妃になる為、まるで何かに取り憑かれていたように、あらゆる手段を使った。罪のない侍女すら死に追いやった。そういう役がらだったのだ。それがアリシアの、自分を王子に勧めるという言葉に揺らいでいた。そんな事をしなくても妃になれていた。だが、それでもナターニヤは踏み止まった。
もう少しで妃になれるのだ。ならば、最後まで演じ切って見せる。そう心を奮い立たせた。しかし、突如、全く無駄になった。
「お前が! お前さえ邪魔しなければ!」
右を打ち込みすぐさま左。ウィルケスは両腕で顔を庇うが、燃える瞳を更に燃やし、自分から全てを奪った男を殴り続ける。
ちっ! しょうがねえな。
顔を防御していた左手を後頭部に添えた。右手は、顔の前にかざしているものの、鼻先を殴られるのを防ぐだけで、他は殴られ放題である。
ある武術で素手で石を割るというものがある。だが実は、それには秘密がある。大抵は石や鉄の板の上で行われる。割る方の石を少し浮かせるようにして左手で支え、右手で石を叩く。実は手で石を割っているのではなく、下の板に石をぶつけて割っているのだ。ウィルケスが頭の後ろに手を添えたのは、床に頭を打ち付けない為だ。そうしないと殴られた反動で頭が浮き、そこに更に殴られては床に頭を打ち付けてしまうのだ。歯を食いしばる。
その意図をナターニヤも理解した。
私の気が済むまで殴らせようって言うのね。分かったわ。
連打。
連打。連打。連打。
ほっそりとした腰が高速で左右に回転し、左右から拳が飛ぶ。ナターニヤ自身気付かぬうちに流した涙も左右に飛んだ。
妖精の如き華奢な女が、一見痩身とはいえ鍛えられた男に馬乗りになり、殴り続ける。傍から見れば、異様なその光景はかなり長い間続いた。
不意に、ウィルケスの左手がナターニヤの右手首を掴む。左で殴りかかるが、それも止められた。
「なによ。気が済むまで殴らせるんじゃないの?」
「その積りだったんだが、流石にこれ以上はきつい」
軍隊で鍛えられた身体は、そう簡単には根を上げないが、ものには限度というものがある。端正な顔の彼方此方が赤く腫れ上がっている。それを成したナターニヤの拳も赤い。
「普通は、もう少し遠慮するだろ」
「何で遠慮しないと行けないのよ」
怒りを燃料にして燃やし殴り続けていた所為か落ち着いた口調になりつつある。だが、僅かに残った燃料も燃やし尽くそうと、手を振りほどこうとするがウィルケスの腕ががっちりと抑えている。
「離しなさいよ!」
怒りは落ち着きかけていたが、今の彼女の精神は不安定だ。素直に殴らせていた男の突然の抵抗に、怒りが再度燃え上がる。しかし、一旦、落ち着いた身体はその心に付いて行かない。懸命に振りほどこうとするが、今までほど力は出ず、振りほどけない。
行き場を失った感情が、身体中を駆け巡り充満し、遂に口から溢れた。
「私が、私がどんな気持ちでいたと思ってるのよ!」
「落ち着け!」
「私が貴方の妻にですって! 冗談じゃないわ! 誰があんたなんかと!」
ウィルケスの腕を振りほどこうともがくが、一度暴走が止まれば軍人とご令嬢との力比べという現実しかない。ウィルケスの腕はびくともせず、ナターニヤの腕は固定され上半身だけがのたうち回る様は、遠目に見れば、男の上で懸命に腰を振る娼婦のようだ。その滑稽さに当人が気付く。
馬鹿にしないで!
気が済むまで殴らせるのかと思えば、今度は抵抗しびくともしない。嬲られているように感じた彼女の心を憎悪の感情が塗りつぶす。
絶対に、お前の妻になどならない!
だが、王子はこの男に付き、父すら篭絡され、王宮の風聞もすでにそれを是としている。そして自暴自棄の暴力も封じられた。でも、まだ暴発させるものがある。こんな男の妻にはならない。死んでも!
「私は、アリシアを殺そうとしたのよ。アリシアを襲った侍女をけし掛けたのは私よ」
妖精が如き美貌の令嬢の瞳に狂気が宿った。
「どう? それでも私を妻にする? 貴方の大事なサルヴァ陛下の愛妾を殺そうとしたのよ。陛下が知れば私は死刑。それでも私を妻に出来る?」
冷たい中に激情を含んだ瞳をウィルケスが受け止めた。
おいおい。あの侍女の妄想が当たってたのかよ。
確かにエレナに言われなくとも、この女が怪しいと睨んでいた。しかし、エレナも証拠があって言っているのではなく、ただの妄想だ。その妄想が的中していたとは。とはいえ、この女の証言は完全ではない。
「侍女をそそのかしたのは、アルファーノ伯爵家の者を名乗った男のはずだが?」
「その男をそそのかしたのが私なのよ。アリシアが妊娠しているのを漏らせば、誰かが殺そうとするのは分かっていたわ」
口調は落ち着いているものの、瞳には狂気が浮かんだままだ。
「だが、お前はアリシアを助けたはずだ。殺すのが目的なら見殺しにすれば良いだろ」
「一度くらいは本気で助けないと、疑われるからよ」
なるほど。筋は通っている。そしてこの狂乱は、そこまでしたにもかかわらず邪魔された事への怒りか。確かに、貴族のご令嬢が間接的にとはいえ人を死に追いやった。その業を背負った。それも全てはサルヴァ王子の妃になる為。それがふいになった。
まあ、貴族令嬢ならそう思うか。
ナターニヤは、騙されてアリシアを襲った侍女が死んだのを己の罪と考え、その罪に自暴自棄になっている。それは理解できたが、幾度も戦場に立ち、殺されそうになり、殺してきたウィルケスには別の倫理がある。
如何にそそのかされ、騙されたとはいえ、侍女達がアリシアを殺そうとしたのは事実。人を殺そうとしたのなら殺されても文句は言えない。たとえ、そうしなければ伯爵家からの迫害があったと思い込んでいたとしてもだ。
アリシアを殺そうとしたその男が侍女を使おうと考えたのは、その男の判断でありナターニヤが命令した訳ではない。その侍女は脅されたのだろうが、脅されてアリシアを殺すのが嫌だったら、それこそ何とかしてその男を殺し、そんな男には会っていないし命令も受けていないと知らぬ存ぜぬを貫けばいい。それをせずアリシアを殺そうとして失敗し処刑になったとて、それは侍女の判断だ。
戦場では目の前の敵を殺す。槍を持つ手もぎこちない少年騎士とて戦場で会えば殺す。その少年が、もしかしたら本当は絵描きになりたかったが、お父様の命令で仕方なく戦場に出たかどうかなど知った事ではないのだ。本当に絵描きになりたくて戦いなどしたくないなら、家名を捨てれば良い。お父様がどんな手を使っても邪魔をするというならお父様を殺せ。こっちが死んでやる義理はない。
人を殺す、殺そうとするとはそういう事だ。どんな理由があろうとも人を殺そうとしたなら、その業がある。勿論、だからと言って侍女を騙しそそのかした男に責任がないとは言わない。当然、ある。ナターニヤに全く責任がないとも言わない。当然、ある。だが、侍女にまったく罪がないならともかく、アリシアを殺そうとした以上は、ナターニヤが思っているほどには自分の所為だと思う必要はなく、そして、そそのかした男に比べれば遥かに浅い。
しょうがないか。殴られてやったついでだ。
「何か勘違いしているようだが、あの侍女を騙してアリシアを襲わせたのは俺だ。愛し合うというなら応援はするが、子を産むなら話は別。このランリエルの、サルヴァ陛下の後継者をアリシアのような身分の低い女が産むのは相応しくない」
思いもよらぬ告白にナターニヤの碧い瞳が見開かれる。思考が停止し再開するには長い時間を要した。更に意味を租借し理解するには更に時が流れる。
「本当なの?」
嘘だと分かり切っている。今までのウィルケスの行動から見て、こんな馬鹿な話はない。しかし、それが明らかな嘘であるがゆえにその意味を理解した。
「本当だ」
その明らかな嘘を真面目な顔で肯定した。瞳には一点の曇りなく、よくも平然と嘘が付けるものと感心する。
「本当なのね」
どう考えても嘘。万が一。いや、億が一にも真実でないその嘘を全力で受け止める。
「本当だ」
ウィルケスは、同じ言葉を繰り返した。本気で言った。その嘘をではない。その嘘の意味。それは本気だ。
侍女を騙してアリシアを殺させようとした男。その男が正体不明だからこそ、現実感がないからこそ、ナターニヤは侍女の死を全て自分の罪だと受け止めた。たとえ言葉で、お前が悪いのではなくその男が悪いのだと言われても実感がない。
それを、明らかな嘘とはいえ実感を示した。行き場のなかったナターニヤの罪の意識が、それを移す対象を得た。
「本当……なのね」
大粒の涙が頬を伝った。本当に自分の罪は思うほど重くはないのか。皆無とは言わない。だが、全ての罪を背負っていた彼女にとって、それは翼を得たかのように心を軽くした。伝う涙は滝のように流れ美しい首筋に這う。
だが、ウィルケスもただで彼女を救ってやるほどお人好しではない。
「だから、俺とお前は共犯だ」
そう言いながら彼女の腕を掴んでいた右腕を伸ばし、その涙を拭う。
「尤も、サルヴァ陛下が俺を疑うはずがない。今聞いた話を陛下にお伝えすれば、処罰されるのはお前だけだ。それが嫌なら、大人しく俺の妻になれ」
脅迫の台詞を吐きながら、涙を拭うその手は限りなく優しげだ。
「嫌よ。誰があんたなんかと」
涙で脅迫者の顔も見えないまま拒絶するが、涙を拭う手は拒絶しない。
「諦めろ。お前の命は俺が握っているんだ。俺に従うしかない」
涙を拭っていた手が、首筋からうなじへと這う。ナターニヤがびくと身じろぎした。
「死んでも嫌」
涙で滲んでも分かるほどに脅迫者の顔が近づく。唇が重なった。一度離れ再度重なる。もう一度離れ次に重なる時、彼女の方から少し近づいたように見えた。
「誰が、口付けて良いなんて言ったのよ」
ナターニヤがウィルケスに示した感情は、愛情などではない。好意というものですらなかった。強いて言えば逃避。それを美しい愛の女神の形に作り上げ、表面を薄く愛情に似た色で着色したに過ぎない。
人は時に嘘によって幸せになる事もある。幸せになる為に騙される事もある。己自身すら騙すのだ。そして、嘘は最後まで嘘を突き通せば事実となる。
この辺りが引き際か。
出来たばかりの愛の彫像はまだ脆い。少しの衝撃で崩れ散る。ここで、俺の妻になれと念を押して激しく拒絶されては元も子もない。今、ナターニヤ自身、思わず自分から口付けたのは分かっている。その余韻を残し立ち去るのだ。
体勢としては、未だナターニヤがウィルケスに馬乗りになっている状態だ。ウィルケスは一瞬、もう一度口付けるほど顔を近づけた。左腕を彼女の背中に回して右肩を抱いて引き寄せ、右腕を彼女の足の下に伸ばす。立ち上がった時には、いわゆるお姫様だっこにナターニヤを抱えていた。その手際のよさに、ナターニヤには、どうしてこうなったのか分からなかったほどだ。
ベッドまで彼女を運び、彼女が何か言おうと口を開きかけた時、それを塞ぐようにして唇を重ねた。現状、彼女からは否定の言葉しか出そうに無い以上、喋らせない方がいい。
「また来る」
それに対しても反論しようとするナターニヤの唇を、今度は指先で押さえた。その指先を、彼女の首筋に這わせ、彼女が身じろぎした。これで、喋ろうとしていた事から気がそれたはずである。それを確認すると彼女から背を向ける。とにかく否定をさせない。否定をさせなければ、否定しなかったという事が肯定となる。
不自然にならない程度の足早に扉へと向かった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
ウィルケスが扉を開けた時、我に返ったナターニヤが呼び止めたが、気付かぬ振りをしてそのまま部屋を出た。彼女の声を掻き消す為、強めに扉を締める。万一彼女が扉を開けて追いかけて来た場合を考え、それまでの悠然とした振る舞いをかなぐり捨て一目散で駆け去った。折角自分のペースに持ち込んだのだ。ここは勝ち逃げすべきである。
建物から出たところでやっと足を止め振り返った。
「まあ、予定とはかなり違ったが、良しとするか」




