第211:夢見る時
人は1人では生きられない。他者、あるいは’何か’が必要だ。
その何かがなければ人は死ぬ。すぐには死なないかも知れないが。だが、いずれ死ぬ。物理的に死ななくても心が死ぬ。
母が死んだ。アルベルドに取ってかけがいのない存在。全てに絶望し、だが、それでも生きていた。母が居なくなっても取りあえずは生きていた。その後、孤独が続けばいずれ死んでいた。だが、大抵の人間は、その前に次の’何か’を見つける。それは、愛する人だったり、生涯をかける事業だったりもする。
アルベルドの場合は事業だった。そして、それは物質的なものではなかった。もっと、形のないもの。
アルベルドは聡い子供であったが、子供は子供。暖かく自らを包んでくれる保護者を欲していた。自分を引き取ってくれたパトリシオとナサリオの母を優しい人だと思い、彼女にそれを求めた。新たに義母となった彼女の言いつけ通りにナサリオに忠実に仕えようと思っていた。それが自分の次なる居場所と考え、その為に生きようと幼いながらに心に誓った。
だが、それは偽りだった。愛する母を奪った者こそが、その義母だった。その時に決定した。生きる為の’何か’が。母に変わる何か。一生をかけて成し遂げるべき使命。復讐。
だが、何を成し遂げればそれが完遂できるのか。心が満たされるのか。いや、心を満たす為に行うのでない。満たぬどころか、心が憎悪で溢れかえり、抑えきれない。せずにはいられぬから復讐なのだ。
人は、’何か’があればこそ生きていけるのだ。しかし、こうも言える。その’何か’がある限り死ねない。
夫ナサリオを亡くし笑顔が絶えて久しかったフィデリアだったが、最近では時おり笑顔も見せていた。
ナサリオを失いフィデリアは全てを失ったのか。そうではない。ユーリが居る。親の欲目を除いても、利発で優しい子だ。容姿も、本人は嫌がっているが、少女と見間違うほどに美しい。子がない夫婦などは、我が子であったらと羨み、子を宿す妊婦は産まれて来る我が子が、あのような子であるようにと望む。それが我が子なのだ。母として、これ以上の幸福があるだろうか。
そのユーリも父が亡くなり、しばらくは笑顔を見せなかった。しかし、母がふさぎ込んでいるのに気付くと、母の手を引き庭に連れ出した。
「お母様。庭に、綺麗な花が咲いています」
そう言って母に笑顔を向ける。息子は、父が亡くなった傷がもう癒えたのだろうか。まだ、父が亡くなって1年も経っていないのに、どうして笑顔など浮かべられるのか。息子は、そんなに薄情なのだろうか。息子の血は、そんなにも冷たいのだろうか。
だが、母に差し伸べる手は暖かく、愛情に溢れている。その暖かさは、息子の心の温かさだ。
「ええ。綺麗ね。綺麗、本当に……」
無理をして微笑んだ。眼に涙を浮かべ微笑んだ。その涙は、悲しみの涙ではなかった。
愛しい息子への愛情。その優しさへの感謝。
息子は、母を元気付ける為に無理をして笑っているのだ。息子も辛いはず。それでも、他者に、母に想いをかける。母を気遣う。その優しさに、幼い我が子に尊敬の念すら感じた。
人々は、私を女神などと言っているらしい。馬鹿な話。人は私を美しいという。何度も、何人にも言われた。だから、そうなのだろう。否定しても仕方がない話。私の身のこなしは美しいらしい。私の言葉は、思いやりがあるのだと人はいう。
でも、本当の私は女神などではなく、その本質は、どこにでもいるありふれた女に過ぎない。身のこなしなど表面的なものに過ぎず、思いやりも自分に余裕があってこそ。この大陸に君臨する大皇国の連枝に連なる王女として産まれ、その宰相の妻となった。余裕を持って当然だと思う。でも、夫を失いその余裕を失っていた。
でも、本当の思いやりとは、余裕がない時にこそ分かるものだ。私も息子には気をかけている積りでいた。でも、それは後ろ向きだった。息子も悲しんでいるだろうと自分も悲しみ、息子が泣いているとだろうと自分が涙した。息子と自分を重ねるだけで、息子を元気付ける事など考える余裕はなかった。
この子は自らの悲しみに耐え母を気遣ってくれた。涙を堪え、母の涙を止めようとしてくれた。元気な振りをして母を元気付けようとしてくれたのだ。
この子の為に生きる。私の全てをささげる。邪な感情ではない。教会に入る修道女が神に嫁ぐと宣言するように、息子に嫁ぐ。女性の究極の愛は母性という。この子の母になる。母以上の母に。
世間的には息子の父となった義弟のアルベルド様も、息子を気にかけてくれている。
「己の息子を愛するのは当然でしょう」
そういう義弟に困惑するのも確かだが、今は息子が大事。あえて気にしないようにした。関係に線を引こうとあえて他人行儀に深く頭を下げた。
「アルベルド様には、本当に感謝しております」
義弟が私に想いを寄せているのは感じていた。夫が囚われの身であった時には、夫の身を盾に言い寄る素振りまで見せた。その義弟が、対外的には私の夫となった。無論、本妻はフレンシス様。私と義弟は結婚誓約書に署名した訳でもなく、法的にはまったくの赤の他人なのだが、息子が義弟の子という事で、そのように思われている。
夫が亡くなり、義弟と通じていたとして、生まれ育ったブエルトニス王国にも帰れなくなった。義弟の元に身を寄せるしかなくなった時、義弟が私の身体を要求するのではと危惧した。もし、夫を失い絶望の淵にあった当時、義弟に身体を要求されていれば死を選んでいたかもしれない。息子の事はある。でも、衝動的に舌を噛み切っていただろう。
でも、それは杞憂だった。そのような事はなく、数ヶ月が過ぎた。義弟は、事ある毎にユーリを我が息子という。確かに困惑するが、対外的にそういう事になっているので当然かも知れない。気にし過ぎているのだ。ユーリの父は亡きナサリオだけ。その思いが強く、反射的に拒絶してしまうのだろう。
「ユーリに、乗馬の教師を付けようと考えています」
義弟とテラスでお茶を前にしていた。ユーリの事で話があると言われれば断る事は出来ない。義弟は、他の者がいる時と2人きりの時とでは言葉遣いが違う。他の者がいれば、義弟は私を妻として扱う。2人の時は丁寧な言葉だ。
「ですが、少し早いのではないですか? ユーリはまだ11歳です」
実際、11歳で乗馬を始める子は珍しくはない。しかし、フィデリアは近頃、過保護気味だ。
「分かっています。無理はさせません」
無理をさせないなら、そもそも、させる必要もないのでは。そう思い、言葉を丁寧に伝えると義弟は笑った。
「箔の問題ですよ。何歳で乗馬を始めた。というのは、中々馬鹿に出来ない」
一通り笑った後、急に真面目な顔になった。
「特に最近、この大陸は物騒な事が多い。十年前なら学問だけに秀でていれば、一角の者と見てくれました。ですが、今は、武の時代。人の上に立つ者としては、やはり学問が重要ですが、武も疎かには出来ません」
そこまで言うと、次には耳に顔を寄せて来てお道化るように言った。
「とはいうものの、ユーリの身分ならば実際に戦場に出ても敵と剣を交える事などありません。幼いころから馬術に励んでいた。剣を学んでいた。だからきっと武芸にも秀でているんだろう。それが、結構、通用するのです」
確かに、そういうものかも知れない。でも、それより気にかかったのは、義弟が、ユーリの身分ならば、と言った事だ。
ユーリの身分。いったい何なのだろう。つい最近までは、皇国宰相の息子。だった。宰相閣下の御子息のユーリ様。他の人々もそう言っていた。でも、今は何なのか。
義弟の、アルベルド様の息子。デル・レイの息子。皇国の副帝の息子。人々はいうのだ。ユーリ王子と。そう息子は王子なのだ。デル・レイ王子。
自分にも少女だった時がある。王子という響きは、少女に取って特別なものだ。誰もが、目の前に素敵な王子様が現れるのを夢見る。自分も同じだった。絶対に王子様と結婚すると決めていた。実は、王様より王子様の方が偉いと信じていた時期すらあった。王子様は王子様として産まれて、死ぬまで王子様とも思っていた。思い出せば、今でも笑ってしまいそうになる。祖国では、従弟達も王子と呼ばれていたのに、なぜか別のものと思っていたのだ。周囲からは、賢い子だと言われていたけど、所詮、子供は子供だった。
でも、ユーリは王子様ではなかった。宰相の息子は王子様ではない。皇国の宰相ご子息は、他国の王子様より偉い。皆はそう言っていたが、地位の問題ではないのだ。夫に不満はなかったが、それだけはちょっと残念ではあった。
その息子が、王子と呼ばれている。まるで少女に戻ったかのように心がときめいた。我ながら他愛もないと思う。
「フィデリア」
「は、はい」
不意の言葉に、思わず声が上ずった。
「どうしたのですか。何やら考え事をしていたようですが」
確かに考え事をしていた。しかし、声が上ずったのは、そればかりが原因ではない。他の者がいる時には、義弟は自分を妻として扱い呼び捨てるが、2人きりだと普段は義姉上と呼ぶ。その義弟が、自分の名を呼び捨てたからだ。
「ええ。ユーリに馬術を教えるのが良いのかどうかを……」
咄嗟に言い繕い、お茶を満たしたカップを口に運んだ。お茶はすっかり温くなっていた。
その後、結局は義弟の申し出を受けた。決して、ユーリには白馬を用意させようと言われたからではない。




