第210:新妻の願い
ロタ北部で起こった動乱は、意外なほどあっさりと収束した。
一般的に知られている経緯は、ロタ北部で元ロタ軍人によるバルバール軍施設への襲撃が続発し、その後、その者達はデル・レイにてロタの正統王朝を主張するランベール王を頼り、デル・レイへと落ちていった。兵力を増強した正統王朝はロタ北部へ軍勢を発し、バルバール軍はほとんど戦わずに撤退。正統王朝軍はロタ北部の半分以上を占領した。この段になってランリエルのサルヴァ王子も介入し、デル・レイ王アルベルドも出て来て、両者の会談により、それ以上の戦闘なく終わった。
アルベルドがランリエルとの戦いを避けようと、当初、ロタ南部への進撃を示唆したと知らない民衆達は、このように見ていた。その点は、当事者の1人であるサルヴァ王子すら同じようなものだ。そして、アルベルドも正統王朝(今では北ロタ王国となっている)が、当初、ロタ南部に向かうはずだった。という事以外は、得ている情報は同じだ。
とはいえ、では、他に何があるかと言えば、そもそも、という要素がある。その、そもそもを演出した者こそ黒幕である。だが、その黒幕が発した重く威厳ある声には、珍しく自嘲の響きがあった。
「まさか、これ程手際よく事態を終息させるとは、思いも余らなんだわ」
「計画では、正統王朝の軍勢は北部ではなく南部に向かうと想定しておりましたので」
北部の元ロタ軍人達に騒ぎを起こさせ、その後デル・レイに向かわせるまでは計画通りだった。いや、むしろバルバールの動きにより、計画以上だった。だが、それ以降が思わぬ方向に脚本が進んだのだ。
正統王朝の保護者たるデル・レイが現時点でランリエルとの戦いを望むはずがないと読んでいた。そのはずがランリエルの一派、バルバールが治める北部を攻めた。
「見誤ったわ」
ベルトラムは己の誤りを素直に認めた。所詮、知など道具に過ぎず、それを制御する賢こそが肝要。そう断ずるベルトラムだ。それには正しい情報が必要。自らの失策すら情報であり、それを誤魔化しはしない。
「正統王朝軍は、当初は間違いなく南部に向かっておりました。それが、急遽、北部に転進したのです」
「ロタの者共か。やはり、奴らは鬼門だの」
以前にも、ベルトラムはロタの食客集団を手強いと評していた。1人1人は怖くない。恐ろしいのは実態がない事だ。如何な知者とてその思考には癖がある。だが、集団はその癖が読み難い。時にはある者の策が採用され、次には別の者。1つの策を何人もで協議して作り上げたりもする。ロタ陥落時にその体制も崩壊したはずだったが、正統王朝側に思わぬ枝葉が伸びていたのだ。
「リュディガー王の元部下の、シャルル・ブランとリュシアン・リュシェールという者が、正統王朝。今では北ロタ王国を称しておりますが、そこに仕官しております」
「それは知っておったのだがな」
特にリュシアン・リュシェールは、ロタ一の知者と名高かった。しかし、ベルトラムの見るところアルベルドに対抗できるほどの者とは思えず、ならば、アルベルドの考え通り、南部を攻めると想定していたのだ。
「まさか、リュシェールがアルベルド王の裏をかくとはな。我が眼も老いたか」
ベルトラムの自己分析に幻想はない。どこまでも客観的である。それで悲観もしない。力が衰えたなら槍の長さを削り、耳が遠くなれば大声で話させる。己の分限を見極め、その内で事を決すれば良いのだ。大剣を扱えなくなれば、相手の懐に飛び込み短剣で喉を突き刺す。
だが、この自己評価は酷であろう。アルベルドの真意を見抜いたのはリュシアンではなくブランであり、その根拠は’匂い’である。そのようなものは論理的思考であればあるほど読めない。
「おかげで南部に仕込んでいた罠が全て無駄になったか」
「残念ながら」
南部を大混乱にすべく様々な罠を張ってあった。正統王朝の使者の振りをし、寝返るように説き伏せていた領主なども居た。彼らは、正統王朝軍が攻め込んで南部の軍勢の目がそちらに向けば、手薄になったところを占領する予定だった。当然、後から正統王朝側は、そんな事は知らぬという事になる。それが、更に事態を混乱させる。混乱が大きければ大きいほど収拾がつかず、大火となるはずだった。その計画が幻に消えた。
彼にしては珍しい失策であったが、やむを得ぬ事でもある。彼の手足として動くのはダーミッシュの一族だが、彼らとて無限に存在するのではない。有限であり、その有限を彼方此方に手配をすれば尽きてしまう。今回は南部に動くと読み、北部に細工をする余裕がなかったのだ。
皇国、ランリエル。それぞれに人をやり情報を集めさせている。そして大陸の全ての国々がその2大勢力のどちらかにぶら下がっているのが現状だ。それに動かす人数は膨大であり、今回のような仕事に動かせる人数は限られているのだ。
確かに、些末な国々を見る必要などなく、皇国本国、ランリエル本国のみに注力すればよい。その分の人員を工作活動に使えば、今回の失策はなかった。という考えもある。
しかし、情報を重んじるベルトラムである。短期的、結果的に見れば確かにそうであったが、長期的に見れば情報が重要とみた。今回の失策も、結局は、情報不足で判断を誤ったとも言える。
「さて、次はどこを狙うか」
済んだ事に執着してもしょうがない。反省の原因分析は必要だが、1つの仕事にかかりっきりになり他に手が回らなくなるほどベルトラムは仕事の出来ぬ男ではない。反省と次策は同時進行だ。
とはいえ、やはり、今はロタは避けるべきだ。他に仕掛けるにしても、その前に存分に種を蒔く必要がある。それには今しばらくの時が必要だった。
二重統治の開始当初はゴルシュタットに居を構えていたベルトラムだが、現在それをリンブルクに移していた。
あからさまな王位の簒奪に、流石のベルトラムもゴルシュタットでの名声は翳っていたが、民にとっては自分達を豊かにする者が良き為政者。現金なものでケルディラ西部の制圧に支持を取り戻しつつあった。
また、リンブルクでの評価も上がっていた。小国で他国の顔色を伺うしかなかったリンブルクだ。ゴルシュタットと共同とはいえ、他国の領土を攻め取り、やはり、強い指導者が必要なのだ。両国の結束は更に強くするべき。その気運が浸透してきた。ゴルシュタット騎士がリンブルク女に求婚すれば、まず断られない。という状況にもなっていた。女性自身が拒絶しようにも、親が認めてしまうのだ。
その両国の変化を見てベルトラムはリンブルクに進出したのである。進出とは前進だ。領土拡張に際し本拠地を前線近くに移動させるのも戦略の内。それにより、いざという時の対応が早くなる。情報の鮮度も高い。
ベルトラムは、ゴルシュタット=リンブルク二重統治の統括者であり、両国の国王の上に立つ。とはいえ、王の上だからと皇帝ではなく、言ってしまえば一官僚であるともいえる。リンブルク王宮に入らず、わざわざその近くに屋敷を立て、それを行政府とした。ダーミッシュの報告を受けたのも、その一室でだ。
その日の夜、ダーミッシュを下がらせた後、ベルトラムは珍しく王宮に向かった。娘であるリンブルク女王クリスティーネの招きによるものだ。
王宮に向かうにも僅かな共だ。いくら関係が良くなってきているとはいえ、力で奪った国。いまだ反発する者も多いのだ。如何にも豪胆なものだが、その実、要所要所に人を配し、万全の警備である。ベルトラムにとって、根拠なき豪胆など、ただの阿呆である。
その一方、万全の体制を敷けば、危険が全くなくなったように振舞う。万全でなおかつ死ぬなら、もはやどうしようもなく、どうしようもない事に心を配るほど暇ではないのだ。
晩餐には娘以外にも、婿であるリンブルク王ラルフ・レンツも同席した。ベルトラムは、この男の正体がサルヴァ王子の腹心の部下ルキノ・グランドーニと知っている。
ケルディラ侵攻時には活躍し、リンブルクでの評価も相当上がった。リンブルク人と称しているのも大きい。本当はランリエル人だと知れば、手の平を返すどころの話ではない。
胆力も勇気もある男だが、ベルトラムを前にする時、特にクリスティーネが同席している時は少し落ち着きがない。いわばルキノは妻を騙して結婚したのであり、それを知る義父の前に出るのだから後ろめたい事この上なかった。
ゴルシュタットより遥かに劣る国力のリンブルクだが、文化という面ではその地位を逆転させる。東にはかつては名門クウィンティラ王国があり、その崩壊時に人と文化が流れて来た。現在は、南は皇帝の衛星国家2ヶ国と接し、皇国の影響も受ける。今では廃れたが数年前までは貿易国家であったロタからもデル・レイ経由で他の大陸の文化を輸入した。
大国に囲まれた小国ではあるが、四方を囲まれているだけに人の往来が多い。この大陸文化では北の隅にいるゴルシュタットとは格段の差があった。
両国の人名の系統がほぼ同じ事から古くは同民族かと思われるが、リンブルクには他国からの流入者も多く、その風貌にも違いがある。ゴルシュタット人は男女も若干顔付きが’厳つい’と言われ、リンブルク人は身体の線が細い。
ちなみに、コスティラとケルディラが同系統なのは当然として、意外なところでは大陸中央のグラノダロス皇国と東の果てのカルデイ帝国の人名は同系統である。その為、皇国での権力争いに敗れた皇族が追及を恐れて東の果てまで逃げ去り、国を興したのではという伝説がある。王国の上に立つのは皇国と帝国のみ。それを称するのがこの2ヶ国だけなのもその論拠だ。他には、皇国が滅ぼし乗っ取った帝国の末裔が作ったという話もある。尤も、土着の民族と交わったからなのかカルデイ人の見た目はランリエル人と変わりない。
とにかく、元は同じと思われるゴルシュタットとリンブルクだが、現在では文化を異とし、それは晩餐に並ぶ料理にも現れる。
「ゴルシュタットには、ない物だな」
と、川魚の腹に香草を詰め焼いた後に香草を取り除き、更に煮込んだ料理を口に運んだ。ゴルシュタットも海を持たぬ国。食べられる魚は川からとる。川魚は臭みがあり、それを消すのに香草を使うのはゴルシュタットも同じだ。だが、リンブルクの方が一手間多い。
「ええ。私もこちらに来てから知りました。ゴルシュタットの料理は素材の味を大切にしますけど、ここではソースで味付けをする事が多いみたいです」
クリスティーネは女性だけあって料理に興味があり、その差には敏感だ。ルキノは頷くのみで口を開かない。本当はランリエル人のルキノだ。下手にリンブルク文化について喋ればボロが出る。
「この料理も良いが、たまには、以前のようにお前の手料理を頂きたいものだな」
「はい。私も、出来ればそうしたかったのですが……」
クリスティーネの表情が曇る。
大国ゴルシュタットの実力者の娘。一歩も屋敷の外に出ぬ生活だったが、それでも時には父の為に厨房に立った。それが今ではリンブルク女王。王妃ではなく女王。人々は羨むが、父の為、愛する夫の為に料理一つ作るのすら許されぬ身だ。
人の幸福とは、突き詰めれば現状への満足だ。巨万の富を得ても満足せぬなら幸福ではなく、傍から見て苦しい生活に見えても、本人が満足しているなら幸福なのだ。一国の女王になって何を贅沢な。その日に食べる物もない人間に比べれば十分幸せじゃないか。などという人間がいるが、そういう話ではない。
娘を注意深く見るベルトラムは彼女の心情を察したが、それぞれの国にはそれぞれの風習がある。時に強権を振るうベルトラムだが、力があれば何をやっても良いとする浅はかな男ではない。その国の伝統を軽んじるのは、その国への侮辱。リンブルクでは王族は厨房に入るべからずというなら、それに従うしかない。
ここで、女王といえど本人がやりたいなら料理くらい作らせてやれ、と命ずるのは簡単だが、逆に言えば、その程度で人心を離れさせるのは割りにあわない。
「今度、わしと一緒にゴルシュタットに遊行するか。宿泊は屋敷にすれば良い」
「ゴルシュタットに!」
クリスティーネが喜びの声を上げた。屋敷とは言うまでもなくゴルシュタットの彼女の生家。そこでなら、リンブルク王室の風習の傘の外だ。料理一つする為に国境を越えるのかというものだが、世論の持って行きようでは、そこまでしてリンブルク王室の風習を尊重するのかとクリスティーネの評価も上がる。
「あなた」
「ああ」
クリスティーネが笑顔を向けた。ルキノも笑み頷く。今まで、愛する夫に手料理を振舞った事がない。世の多くの妻が特別な事とも思わず叶えている。そのささやかな幸せを、やっと自分も叶えられるのだ。
「最近、他国では何かと雲行きが怪しい。わしと共に国王のお主までリンブルクを空ける訳にもいくまい。済まぬが、お主はリンブルクに残ってくれるか」
父が無残に言った。
「お父様……」
「そんなに落胆するな。次の機会というものがあろう」
途端に表情を曇らせた娘を宥めるが、娘は素直に頷かず食い下がった。
「で、ですが……」
「お義父上のいう通りだ。何も、今回ばかりという訳ではない」
違います!
そう叫びそうになるのをクリスティーネは耐えた。夫は優しく宥めるが、どうして分かってくれないのだろうか。本当に、今回だけなのだ。確かに父は敬愛している。でも、それとこれとは別だ。結婚し、初めて作る手料理を食べて貰う相手は愛する夫。そうありたいと思うのを、どうして分かってくれないのか。
しかし、幼い頃より父の言いつけ通りに生きるように躾けられた。先ほどの抗議も彼女は気力を振り絞った。更に夫にまで言われては、抗うすべがない。
「わ……かりました」
その後、意図的にだろうがベルトラムが話題を変え、クリスティーネもぎこちないながらも笑顔を見せた。
晩餐の後は、親子水入らずの話もあるだろうとルキノは席を外し、ベルトラムとクリスティーネが小さな部屋に移った。
娘の元気がないのにはベルトラムも察している。昔話などをし娘を元気付けようとするその心は、冷徹な為政者のものではなかった。では、娘を案じる父のものなのだろうか。
「お父様……」
意を決した顔で娘が父の話を遮った。
「なんだ?」
「あ、あの……」
「遠慮せず言いなさい」
「レンツ様の事を……。いつお認めになって下さるのですか。先の戦いでは目を見張るようなご活躍だったとお聞きしております。これで、お父上もきっとあの方をお認め下さると……」
父に相談せず結婚した娘に、お前の意思は尊重する。だから離縁しろとは言わぬ。だが、わしが認めるまで別の部屋で寝起きせよ。それが父の言葉だった。夫を信じる彼女は、すぐにお父様も、夫を認めてくださると軽く考えていた。だが、すでにそれも1年になる。新婚の夫婦には辛い話だ。
「なに、まだまだだ。お主の夫として、国王として認める訳にはいかぬ」
「ですが、皆、あの方のご活躍を褒めております」
「それは分かっておる。何も奴の手柄を認めておらぬのではない。戦場での活躍で国王としての器量は分からぬと言っておるのだ」
「あ……」
では、どのような事をすれば国王としての力量を認めて貰えるのか。彼女にはそれ自体が分からない。父が、娘である自分には甘くとも、他人には厳しい人だとは知っていた。でも、これ程までとは。
出口の見えぬ闇に追い詰められた彼女の中で、罪のない打算が動く。父は自分には甘い。それに縋るしかない。
「あ、あの……」
「何だ。はっきり言え」
「あの人の……。子が欲しい……のです」
羞恥に拳を握り締めた。身体中が朱に染まる。
夫婦が子を望む。何もやましいところはない。自然な望みであり、聞いた者も誰も邪な気は起こさないだろう。娘の父ならばなおさらだ。それどころか、早く可愛い孫の顔が見たいと急かすところだ。
しかし、彼女とルキノの場合は、そのような朗らかな情景を浮かばせるものではなかった。現在、彼女とルキノは寝所を別にしている。普通の夫婦ならありふれた望みでしかない子供が欲しいという訴えは、寝所を一緒にさせて欲しいという訴えであり、それは性交をさせて欲しいというのに等しかった。
夫と子を作る。誰もがしている事だ。していると、あえていう必要もない。だが、それを父に許可を取らねばならぬ娘は、更に拳を握り締めた。
「あの方を、愛しているのです。愛して……」
夫を愛していると繰り返した。その美しいはずの言葉が、決して快楽の為に抱かれたいのではない、その言い訳に聞こえる。そう聞こえる事が彼女の屈辱だ。
クリスティーネは俯き唇を噛んだ。涙の雫が頬を伝い流れ、手の甲を濡らす。ある意味彼女は幸せだった。この時の父の顔を見ずに済んだ。もし見ていれば、自分の、いや、夫の命の危機を感じただろう。
沈黙が続き、暫くしてベルトラムの口が開かれた。その声は、妙に淡々としていた。
「分かった」
「ほ、本当で御座いますか!」
眼を泣き腫らしたクリスティーネが顔を上げると、父は微笑みを浮かべていた。
「お前の夫に、大きな仕事を任せてやろう。それを見事やり遂げれば、お主の夫を認めてやろう」
「本当で御座いますか!」
クリスティーネが同じ言葉を繰り返す。言葉を選ぶ余裕はない。
「ああ。本当だとも」
ベルトラムは微笑んでいたが、その声は妙に乾いていた。




