第198:出産
その日、サルヴァ王子は落ち着きがなかった。執務室内をうろうろと歩き回り、椅子に座ったかと思えば、椅子が温まる間もなく立ち上がる。隙なく整えられた上等な服が皺だらけとなっていた。
それほど落ち着かないのなら職務を中止すれば良いものの、そうはいくまいと机にむかい書類が山済みとなっていたが、山は一向にその標高を減じる様子はなかった。それどころか、次々と持ち込まれ高さを増すばかりである。
「やはり、今日はもう部屋にお帰りになられた方が良いのでは」
ウィルケスも見かねたようで呆れ顔を隠し切れない。
「いや、そうもいくまい。いつとも分からぬし、もし今日ならば、明日こそ職務どころではないからな」
確かにそうだ。今日、それが’発生’すれば明日は大変な騒ぎとなる。王宮は、無論、貴族、民衆、国を挙げてのお祭り騒ぎとなるのだ。すでに地方からも多くの貴族が王都近郊に屋敷を持つ縁者を頼って詰め掛けていた。どこの屋敷も紳士、淑女で満ちている。
下級貴族の旅ならばいっそ気軽だ。庶民が使うような宿に泊まる事もある。しかしある程度、格式ある家は体面というものがあった。親戚を頼るか、別宅などを丸々借り受けるのが普通だ。しかし、それが足りない。
中には、藁にもすがる思いで、叔父の妻の弟の妻の叔母という、ほとんど赤の他人にまで頼み込み、金銭を払って屋敷に滞在させて貰う者までいる。
カルデイやベルヴァース、バルバール、ケルディラなど、いっそ他国の貴族の方が優遇されていた。彼らはランリエル王宮に部屋を用意されているのだ。勿論、それなりの有力貴族だけではあるが。
「ですが、昨日も結局、仕事どころではありませんでした」
「分かっている」
痛いところを突かれた王子が、椅子に腰掛け書類に向かったが、やはり心ここにあらずだ。報告書に目をやり頁を捲るのだが、いざ承認の署名をする段になって内容が頭に入ってないのに気付き、また初めの頁に戻る始末である。
頁を進ませ、また戻る。それを何度か繰り返し、また立ち上がっては歩き回った。傍から見ているウィルケスが溜息を付くほどだ。とはいえ、それも仕方がないと苦笑する。自分には経験はないが、まあ、そういうものなのだろう。とは、なんとなく想像できた。
アリシアの出産が予定日を過ぎていた。
アリシアが子供を産み、それが跡継ぎとなる男子であれば、この日の為に猛特訓をつんだ王家の楽隊がラッパを吹き鳴らし演奏が始まるのだ。その演奏に乗って人々は歌い踊り、王都はお祭り騒ぎとなる。
庶民には酒が振舞われ、下賜金も与えられる。人々はアリシアの出産を今か今かと待ちわびているのだ。その出産が伸びている。
「なにぶん、初産ですので予定通りにいかないのも予定通りです。心配する事は御座いません」
王宮の典医は人を安心させる笑みを浮かべ断言した。尤も、名医は名優でもある。彼自身も内心平静ではなかった。
何せ全国民が待ちわびるサルヴァ王子の第一子の出産を任されたのだ。万一の事があれば彼もただでは済まない。そう思うと背中が冷や汗で雨にあったかのように濡れた。それを表に出さないのが名医というものだ。
そして貴族達も出産の遅れに冷や汗を流していた。彼らとて裕福な者ばかりではない。旅費の捻出に借金をした者も多いのだ。ならば来なければよいというものだが、貴族たるもの面子が重要なのだ。
次期国王の世継ぎの出産に、王都に居なかったとなれば、どれほど貧乏なのかと陰口を叩かれてしまう。その為、精一杯着飾りやって来た。しかし、その衣装もいつまでも同じ物は着ていられない。滞在先の屋敷での晩餐で着る服も尽きかけているのだ。賢い貴婦人などは、別の屋敷に滞在する知人に侍女を派遣し、衣装を交換してしのいでいる。
そのように人々の期待と不安と破産を一身に受けて産まれてくる子だが、父たるサルヴァ王子は無力である。こうなっては東方の覇者も唯の男。あきれ顔を隠さなくなった副官の前で、うろうろと徘徊するしかなかったのだった。
一方、その産まれてくる子の母であるアリシアといえば、王子に比べて意外と冷静だった。
お腹ははち切れんばかりに膨れ上がり、針で突けば破裂しそうなほどだ。陣痛が始まれば産まれるというが、一向にその陣痛が始まらない。医者からは、そろそろだと聞いていたが、子供が出たくなるまで待つしかないとも聞いていた。これは、あえてはっきりと予定日を教えない事により焦りや不安を与えないようにとの名医の配慮なのだが、その思惑通りアリシアは安穏としたものだった。
退屈よね。と、お腹に負担をかけないように仰向けに寝そべる。パラパラとエレナに持って来させた本の頁を捲っていた。ゆったりとした清潔な絹の衣装を身に纏っているが、これは王子の子を産むから贅沢をさせて貰っているのではない。子の安全、健康の為だ。万一アリシアが病気にでもなれば、子供にも影響がある。
城下では、彼女の出産を待つ人々で溢れているのだが、知らぬが仏だ。城の外の様子を知れば、如何に神経の太い彼女とて、こうも平然とはしていられなかっただろう。
自分が子供を産む事が、国家を挙げてのお祭り騒ぎとなる。もし、出産と同時にラッパが吹き鳴らされると彼女が知れば、サルヴァ王子をぶん殴ってでも止めさせるだろう。
しかし、それにしても腹が立つのは王子である。愛しい女性が出産を控えているのだ。頻繁に様子を見に来るべきではないのか。確かに、私は大丈夫だから貴方は仕事に戻って下さい。とは言った。すると本当に仕事に戻ってしまったのだ。
「どこの世界に、それを真に受ける人がいるのよ!」
王子から相談を受け適切な助言をする事もある彼女だが、知性に優れているのかというと実はそうではない。彼女の特性は、言うなれば、ぶれない常識人である。力や権威、名誉というものに惑わされず、そんなの当たり前でしょ? というのがそれらにまみれる王子には眼から鱗なのだ。しかし今、妊娠による精神の不安定さで、ぶれまくっていた。
親友であるナターニヤにしてみれば、愚痴というには大きなアリシアの訴えに、どっちもどっちの気がする。とはいえ、今は出産を控えている。あまり感情を高ぶらせてはいけない。
「そうよね。殿下はあまり女心というものを理解して下さらないし」
「そうなのよ。本当に朴念仁なんだから」
「ええ。貴女の言葉を素直に聞いてくれるのは良いのでしょうけど」
「まあ、そこはね」
アリシアに共感をみせながらも、適度に抑えている。燃え上がらせるのではなく、いぶすように彼女の不満を解消するその話術は巧みだ。
「それに、私の国の王族の出産に比べたら、貴女は恵まれているのよ」
「え? そんなに違うものなの?」
「全然。私、こっちに来てびっくりしたもの」
「何が、どう違うのよ?」
その問いにナターニヤが如何にも重大な秘密を暴露するかのようにアリシアの耳に顔を寄せた。
「実はね……」
「ええ」
「王族のみんなが王妃の出産を見学するのよ」
「冗談でしょ?」
愕然と目を見開いた。しかし、ナターニヤはうんざりした表情で嘘はなさそうだ。
「それが本当なのよ。王家の親族って言ったら何十人にもなるでしょ? それがベッドの周りを取り囲むのよ。私、それが普通だと思っていたから、こっちに来て、他の国がそうじゃないって知って驚いたわ」
「信じられないわ。王族って、男性もいるのよね? そんなの、私だったら耐えられない……」
例え相手が愛するサルヴァ王子でも、足を広げて見せるなど言語道断。それを、知らない男など、考えるだけで眩暈がする。
「一応、何かが起こらないようにって考えがあるんだけど、それでもね……」
「何かって?」
「ほら、世継ぎ争いとかってあるじゃない。もしかして、競争相手の息のかかった医者が、産まれてくる子供になんかしちゃうんじゃないかって。それを、競争相手同士、全員で見張ってたら手出しが出来ないだろうって」
「ちょっと。怖い事言わないでよ。不安になっちゃうじゃない」
「大丈夫よ。クレックス陛下が、味方になって下さっているのでしょ? だったら怖いものなしじゃない」
とはいえ、妊娠時期は精神状態も柳の枝のように不安定だ。今までは安穏としていたが、一旦揺れだした心は俄かには収まらない。目に見えて落ち着きが消えてゆく。
しかも、実際、彼女は他の寵姫の侍女に襲われたのだ。その時に侍女達を騙した男はまだ見つかっていない。それを思い出すと、きょどきょどと、まるで刺客が送り込まれたのを確信したように視線が部屋中を徘徊した。
「本当に、大丈夫よね……」
声が不安に揺れる。
「ええ。大丈夫。心配しないで」
その力強い声は、十分に心を落ち着かせるものだったが、それもアリシアの精神状態が普段通りならだ。一旦揺れだした不安定な心は、いくら抑えようとしても揺れ続ける。
「あの……さっきの」
「さっきのって?」
「さっきの王族が出産を見物するっていうの」
「ええ」
「貴女が見ててくれない?」
「私が!?」
驚くナターニヤにアリシアが不安に揺れる視線を向ける。
「ええ。お願い」
お家を守るには跡継ぎが必要。その意識が強い時代だ。それはアリシアとて例外ではない。
王子の跡継ぎを産んだ方が良いのだろうな。という気持ちはある。だが、王子の子供ではあるが自分の子でもある。自分の子供が将来、王冠を被る身分になる。というのは想像出来ない。無論、自分は正室ではない。生まれたのが男の子でも、王子が正室を向かえ、その正室が男の子を産めば、その子が嫡子。だが、自分の子が跡継ぎになる可能性も皆無ではないのだ。
いっそ、女の子が産まれれば気が楽とも思う。サルヴァ王子も産まれて来るのが女の子でも喜んでくれるだろう。そう信じてもいる。
しかし、それが通らないのが貴族社会というものであり、王族ならばなおさらだ。我が子に王位を譲りたいという親心以外にも、国を不要に混乱させない為という政治的な意味もある。
つい最近も、サルヴァ王子と弟のサマルティ王子が王位継承権を争った。それが、世継ぎが居なければどれほど混乱するか。内乱が起これば数千、数万の将兵が命を落とし、荒廃した国土では何十万の民が苦しむか。
「私は王位など望まぬ。贅沢も望まぬ。国王など、なりたい者がなれば良いのだ」
そう言って、流浪の旅に出る欲のない王子様が賞賛されるのは、御伽噺の世界だけなのだ。本当に欲がないならば、しがらみを捨てて生きたいというその欲を捨て、国王になっても質素な生活をし、国と民に尽くせば良いのだ。
国には世継ぎ、後継者が必要。それを自分が産むかもしれない。だが、それを望まぬ者達がいるのも事実。ナターニヤは、クレックス陛下が付いているから安心と言ったが、気休めだとアリシアは感じていた。
王宮で働く者は、身元のはっきりした者ばかり、だが、その身元とは貴族の一員、あるいはその紹介だ。その意味では、王宮を支配しているのは王族ではなく貴族なのだ。確かにクレックス王は目をかけてくれて、王家への忠誠心篤い者を配してくれる。しかし、忠誠心篤いからこそ、あのような下賎な女の血をランリエル王家に入れるなど言語道断! それくらいならサルヴァ王子の直系でなくとも、他の王族を王子の養子に迎えれば良いではないか。そう主張する者もいる。手放しで安心できるものではないのだ。
「ね。お願い。貴女が見てれば、万一の事があっても大丈夫と思うの」
その万一が何なのかはアリシアにも分からない。漠然とした不安だ。いや、考える事が恐ろしく無意識にそれを拒否していた。出産は、医者の前には無防備だ。万一その医者が敵なら……。
「分かったわ。見張っててあげる」
ナターニヤが頷き微笑むと、アリシアは彼女の手を取り喜んだ。その手の力が、突然強まった。
「い、痛い。お腹……」
「え? いきなり?」
偶然なのか、安心したからこそなのか、タイミングよく陣痛が始まった。ナターニヤが侍女を呼ぶ為に鈴を鳴らそうと手を伸ばすが、アリシアの手を振りほどけない。
「ちょ、ちょっと離して!」
しかしアリシアの意思とは関係なく、痛みに握り締める。無理に引き剥がそうとしても、爪が食い込み血が流れるばかりだ。
「エレナ! 陣痛よ! アリシアの陣痛が始まったの!」
その声に顔を出したエレナが慌てて医者を呼びに走った。国王にアリシアの出産を任された医者は、ナターニヤに退室するように言ったが、アリシアが呼び止める。しかし医者も引かず、押し問答だ。そこにナターニヤが医者の耳に顔を近づけ囁いた。
「もしここで私を退室させて、産まれる子供に何かあれば、貴方がわざとしたって思われるわよ? それでも良いの?」
驚きナターニヤに顔を向け、彼女の怪しく光る瞳に背筋が凍りついた。確かにそうだ。アリシアがどうしてもという者を遠ざけた挙句、もし死産であったなら自分が疑われる。
「そ、そうですな。アリシア様を安心させる為にも、貴女に居て頂くのも良いかもしれませんな」
「はい。アリシア様を心配させて、万一の事があったら大変ですもの」
ナターニヤの瞳から怪しい光が消え、自然な微笑が浮かんだ。しかし、医者は何か引っかかった。彼女が先ほど見せた怪しい瞳の輝き。それは、親友の身を案じるにしては邪悪なものを感じさせたのだ。
いや、あれはアリシアの身を案じる為とはいえ、確かにある種の脅迫だった。だから、そう感じたのだ。きっとそうに決まっている。しかし、ふと思った。もし無事に産まれた赤ん坊をナターニヤが殺しても、アリシアはナターニヤの言葉を信じるのではないのか。




