第136:兄弟愛
皇帝からの命令で軍を返した皇国軍は、ケルディラ国境を越えると、まずそこでデル・レイ王国軍とアルデシア王国軍が分かれた。その後も、各軍は最短の道を進み祖国を目指した。勝利し凱旋するはずだった。全軍で皇都を目指し100万の軍勢を皇民が出迎えるはずだった。だが、敗軍が皇都に集結しても惨めなだけである。
皇国軍本隊すらも皇国本土に入ってからは散り散りとなった。軍勢は常時皇都に駐屯しているのではない。諸侯の軍勢は当然、領地に戻り、皇国直属の部隊も普段は各地に分散している。皇都に辿り着いた時にはナサリオが率いる軍勢は僅か5千となっていた。
出陣する時には全軍が皇都に集結した。100万の軍勢を民衆が歓声を上げ送り出したのだ。それが僅か5千。人目を避けるようにしての帰国だ。その落差にナサリオの心に冷たい風が吹き抜ける。それは、皇国宰相として今まで築いてきたものを失う己を象徴しているかのようだった。
そして今、群臣と警護の騎士が居並ぶ中、皇国宰相ナサリオは皇帝陛下の前に跪いていた。それを玉座から見下ろす皇帝の視線は冷ややかだった。
皇国軍敗れる。その報に触れた時、皇帝パトリシオは奇しくも弟であるナサリオと同じ反応だった。つまり、信じなかったのである。だが、その後はナサリオと相違した。自分以外に責任を求めたのである。
「ナサリオだ! ナサリオが負けたのだ! 余の責任ではない!」
いつもは反応が鈍い皇帝だが、この時は瞬時に理解した。このままでは、皇祖エドゥアルドより続く皇国の歴史上、初めて他国に敗北した皇帝との汚名が歴史に永遠に刻まれるのだ。
しかし、ではどうすればいい?
報告では、ナサリオはまだ戦いを続けるという。それで勝てば今回の敗戦など帳消し。大局の中の一会戦の勝敗の1つでしかなく、戦争という大きな括りでは皇国軍の無敗は続くのである。
皇帝もこの提案に乗りかけた。ナサリオが負けたのだから、本人が責任を持ってランリエルを打ち破るべきなのだ。それで皇帝の面子は保たれる。
だが、そこに皇国軍の敗戦を聞いたアルベルドが急遽駆けつけた。そして撤退を主張したのである。
「困難な時こそ冷静な判断をなさるのが英邁なるグラノダロス皇国皇帝であるべきです。一時の感情に負け、足掻くは傷口を広げるだけです」
逆に言えば、自分のいう事を聞かぬは愚鈍。という事だ。そう言われると決断力に劣る皇帝は躊躇する。
「そうは言っても、このままでは余は初めて他国に敗北した皇帝として名が残る。それだけは避けねばならぬ」
十数万の将兵が死傷したというのに、気にかけるのはそこか。唾棄すべき事だが、それだけに、その懸念さえ払拭すれば良いのだ。
「確かに、ナサリオ兄上はランリエルに敗れました。ですが、皇帝陛下が敗れたのではありません」
「そ、そうじゃ。余もそう考えておった。やはり、ナサリオの責任であろう?」
「いえ。今はナサリオ兄上の責任を追及すべきではありません。ですが、皇帝陛下が敗れたのではないのは紛れもない事実」
とはいえ、誰にも責任がないという事はありえない。結局は、ナサリオの責任と言っているのも同じだ。
「しかし、ランリエルに皇国が敗れたのには違いあるまい。そして余は皇帝だ。敗北した皇帝として名が残る」
「ならばこそ。一度軍を引き、改めて皇帝陛下のご親征をなされるべきなのです」
「余の親征だと?」
「は。宰相に任せたところ戦いに利無し。ゆえに一度軍を引き、改めて皇帝自らが親征しランリエルを討伐する。誰が陛下を敗北の皇帝と申しましょうか」
「しかし、余、自らとは……」
戦いとは無縁の皇帝は及び腰だ。たたでさえ自らが戦場に出るなど思いもよらぬところに今回の敗戦もある。万一また負ければ名誉どころか命も危ない。
「ご安心下さい。皇帝陛下がご親征なされるならば、このアルベルド。皇帝陛下のお傍に付き従い、ランリエルなど打ち破ってご覧にいれまする」
「そう簡単に言うが、今回も皆はランリエルなど赤子の手を捻るようなものと言っておったではないか」
「はい。しかし、この大陸において、私ほどランリエルを知る者はいないと自負しております」
「おお。そういえば、そうであったの」
実際は、ランリエルと戦ったのはケルディラへの救援の一度きり。しかも敗北している。しかしアルベルドの世論操作もあり、強大なランリエルと互角に戦うデル・レイのアルベルド王。その名声を得ていた。
「もっとも、皇国の慣例として衛星国家の国王が皇国軍を率いる事は出来ませぬ。それゆえ、私はあくまで皇帝陛下の陰として仕え、命令は陛下のお言葉として全軍に命じて頂く事になります」
「余が命令だと?」
「はい。皇帝陛下のお手を煩わせる事になりますが、やむを得ません。ですが、ならばこそ、皆は皇帝陛下のご偉業を讃え、敗戦など忘れましょう」
「余が、全軍をのう」
ついさっきまで敗戦の汚名に怯えていた皇帝の脳裏には、100万の軍勢を率いランリエルを蹴散らす自身の姿があった。それは、年齢の割りに枯れ果てた皇帝の心を揺さぶるに足りた。気の早い事に、戦勝の行進では馬車ではなく、自ら騎乗し行進しようかとまで考え始めた。ならば馬の練習もせねばなるまい。
確かに今回は敗れた。だが、皇国軍は最強。今回は、運が悪かっただけ。一時は不安になったが、万全の準備を行えば負けるはずは無い。その信仰は、そう簡単には揺るがない。
「そうだな。そうすべきであろうな」
「このアルベルド。全身全霊をあげ陛下の為に戦う所存です」
「期待しておるぞ」
とりあえずこれで時間は稼げる。今回の敗北、そして皇帝の親征。それを考えれば今回以上の大規模な軍勢としなければならない。誇張ではなく事実として100万を超えるほどのだ。だが、実際そのようなもの、1年や2年の準備では不可能。
敗戦の傷を癒すだけでも簡単ではない。その上で更なる動員。そもそも財源はどうするか。皇帝は金の心配などしないが、これだけの軍勢を整えるのは皇国といえど並大抵ではない。更に足を引っ張れば数年は稼げる。その稼いだ時間を使い動く。
「はい。ですが、その為にはまずナサリオ兄上を呼び戻さなくてはなりません。ナサリオ兄上は敗戦の罪を受け止め、自らの手で始末をつけようとお考えなのでしょう。ですが、軍勢は大きく傷付いております。更に敗北を重ねかねず、そうなっては如何にその後に皇帝陛下がご親征なさりランリエルを討ち果たしても、敗戦を隠し切れなくなります」
「うむ。そうじゃの。ナサリオめ。頭に血を昇らせおって、仕方のない奴よ」
意外にもその言葉には、普段のナサリオへの妬みを含んだものではなく、失敗した弟への兄からの愛情ある悪態に聞こえた。アルベルドの言葉で敗北の焦燥が拭われた事もある。しかし、出来の良さを妬んでいた弟が失敗した事に、弟も完璧でないと知った。しかも、アルベルドが言うには、その不肖の弟の失態を自らの手で拭ってやる事も出来る。
そもそもナサリオへの反発は、自分よりナサリオが名声を得ている。との被害意識だ。それが、今回の事で逆転する。ナサリオの敗戦を自分が正せば、これで誰も自分よりナサリオが優れているなどと言わぬであろう。
心に余裕が戻れば、やはり自分は兄でありナサリオは弟なのだ。改めてそう思った。
「仕方があるまい。余があやつの尻拭いをしてやろう」
ナサリオは敗戦の罪に怯え、このまま帰ればどんな処罰が待っているか。愛しい妻子にその罪が及ぶのかと怯えていた。しかし、意外な事に、パトリシオはこの敗戦を切っ掛けに兄弟としての愛情を取り戻しつつあった。
そしてアルベルドは’良い子’である達人である。幼き頃よりそうやって生きてきた。何の後ろ盾もない自分達母子が、皇国で生きて行くにはそれが必要だった。そうやって生き延びてきた。それは、相手が何を求めているのかを敏感に察する能力とも言えた。
「はい。早くナサリオ兄上を呼び戻し、重き荷を降ろして差し上げるのがよろしいでしょう」
「うむ。そうしよう」
多くの将兵を死なせた挙句、今更兄弟ごっこだと! 反吐が出る!
誰の口車に乗ったか知らないがランリエルを討伐を強行した兄と、妻子を取り戻す為にその役目を買って出た弟。
こいつらのやっている事に比べ、自分がやっている事がマシだとは思わない。
こいつらと違って、自覚しているだけマシだとも思わない。
俺も民衆を欺き操っている。同じだ。自分の都合で他者の人生を弄ぶ。いや、自分とパトリシオ、ナサリオだけではない。義母のイサベルもだ。前皇帝も我が母の人生を弄んだ。純粋だった母の心を玩具のように弄び、俺を産ませたのだ。こんな奴らを皇帝だ、皇族様だとありがたがる奴らも度し難い。
騙される方が悪いのだとも思わない。この世に、騙されていない者など居ないのだ。
憎悪が濁流となり、心を、身体中を駆け巡る。だが、それを表面上は隠し通した。
「ですが、皇帝陛下。ナサリオ兄上への労いは、お心の内に留めるべきかと存じます」
「心の内だと? どういう意味だ?」
「この程度の敗戦で揺らぐ皇国ではありませんが、多数の被害が出たのも事実。当主、嫡男を失った貴族も多う御座います。それを責任者たるナサリオ兄上を不問とし労いの言葉をお掛けになれば、その者達から不満が出ましょう。ここはあえて厳罰に処すべきです」
「厳罰……」
突然にして弟への愛情を目覚めさせた皇帝は、その愛する弟に厳罰を与えるとの言葉に戸惑った。
「はい。まず宰相の任を解くのは当然。屋敷にて謹慎させ財産も没収しましょう。妻子にもその責を問うべきです」
「妻子にもだと!? それは厳し過ぎるのではないか?」
驚き泡を吹く皇帝に、アルベルドは微笑する。
「ナサリオ兄上がそのお言葉を聞けば、皇帝陛下に感謝し今まで以上に揺ぎ無い忠誠を持ってお仕えする事でしょう。大丈夫です。確かに厳し過ぎるほどの厳罰。だからこそ、もう少し穏便にと取り成す者も多いはず。皇帝陛下は、その者達の声に押されてやむを得ずナサリオ兄上をお許しになる。そうすれば、周囲の者達を納得させ、しかもナサリオ兄上を救う事も出来ましょう。そうですな。やはり、宰相の任を一時解く。これくらいはすべきですが、折りを見て、再度ご任命になられればよろしいでしょう」
「なるほど」
「皇帝陛下の真なるお心は、私からナサリオ兄上にはお伝えします。ナサリオ兄上に話を通しておかなければ、本当に処罰されるのかと、恐れおののきましょう」
「うむ。いつもながら何から何まで行き届いた配慮。頼りにしておるぞ」
「勿体無きお言葉で御座います」
深く頭を下げたアルベルドの顔に、怒りとも笑いともつかぬ表情が浮かんでいた。
そして玉座の前に跪くナサリオを見下ろす皇帝は、精一杯の演技をしてみせた。表情を浮かべず目を少し閉じ気味にする。これで冷たく見放して見える。なに、ナサリオには後でアルベルドが説明する手はずだ。それがアルベルドの提案だった。
「前もって話を通していては、ナサリオ兄上の反応で他の者達が皇帝陛下のお心を見抜いてしまうかも知れません。ナサリオ兄上は有能なお方ですが、演技が出来るお方ではありませんので」
確かにその通りだ。それに、いつも泰然とする優等生の弟が慌てふためくところを見るのも一興だ。なに、どうせアルベルドが後から説明するのだ。少しぐらい楽しんでも良かろう。
「宰相、いや、ナサリオ。弁明を聞こうか」
笑い出しそうになるのを堪え、精一杯重々しく言った。しかし、言われた方は冷静ではいられない。皇帝の言葉は、間違いなく宰相の地位を剥奪するという意味を持っていた。
緊張した顔をあげたナサリオの額に汗が浮かぶ。
「確かにランリエルと数度戦い、その内の一度は利無く多くの被害を出しました。ですが、それまでに積み上げた勝利の数はランリエルのそれを遥かに上回り、残余の軍勢もランリエルを大きく上回っておりました。大局を見ても依然皇国軍の優位は揺るがず、戦いを続ければ、最終的な勝利は間違いなかったと信じます」
皇帝は思わずたじろいだが、何とか持ち堪えた。ナサリオの言葉はもっともと思えるものであった。これは、軍を引かせたのは早まったか。そうも考えたが、今更後には引けない。
「何を言う。自らの敗戦の償いに更に軍を酷使するなど持っての外。それほど己の罪を免れたいか」
戦い続ければ勝てるかどうかの論点を外した。勿論、アルベルドと打ち合わせた台詞である。どう言われても、こう言い返せば追及できる。
「決して罪を逃れようなどとは。私は大局を見て、このまま戦いを続けるべきと判断したので御座います」
「万全を期すならば一度皇国に戻り、再度軍を整えるべきであろう。それを無理に戦いを続けるとは、己の罪を隠す以外の何の理由があろう」
「い、いえ。恐れながら一度軍を引き、再度軍勢を整えるのは一朝一夕に出来る事では非ず。軍を返すべきでは御座いませんでした」
「では、帰還命令を出した余に責任があると申すか!」
皇帝が激した。打ち合わせ通りだ。軍を返さない方が良かった。そうナサリオが言えば、皇帝が怒鳴る予定だった。
「決して、決してそのような事は」
ナサリオが慌てて平伏する。その姿に皇帝は加虐的な笑みを浮かべた。
弟を愛する気持ちはある。いや、だからこそとも言える。相手が好きだからこそ意地悪をする子供の心理だ。どうせ後からアルベルドが種明かしをするのだ。後になってみれば、笑い話で済む事だ。少しくらい虐めて楽しむくらい問題はあるまい。
「皇国の軍を損ない。しかもその責任を皇帝たる余に向けるとは言語道断!」
ナサリオが更に青ざめた。いつもは怒鳴り声などあげぬ皇帝の怒声に、臣下達すらも背筋を寒くした。どんなに貧相に見えても皇帝は皇帝。その気になれば感情の赴くままに如何様にも出来る存在。それが許される男だ。その男が怒りを露にする。
「宰相の任を解く! 財産も没収じゃ! お主の罪。妻と子にも及ぶと覚悟せよ!」
ナサリオの背筋が凍りついた。臣下達もざわめく。アルベルドに提案された通りの処罰だが、皇帝自身はあまりその中身がどういう意味を持つか考えてはいなかった。地位と財産を没収するだけで、十分妻子も苦しむだろう。それを改めて妻子もと明言する理由はなんなのか? 妻子に何の罪を与えるというのか。牢に入れるか。拷問か。まさか打ち首なのでは……。
「へ、陛下! それだけはお許しを!」
平伏していたナサリオは這うようにして皇帝に近づくが、護衛の騎士達は冷静に左右から取り押さえる。
「妻と息子だけは!」
更に縋ろうとする弟に、やり過ぎてしまったかと皇帝は慌てた。だが、こうなっては引き返せない。とはいえ、何を言えばこの場が収まるのか分からない。
「決まった事じゃ!」
皇帝は言い捨て、玉座から逃げ出した。始末は、後から説明してくれるアルベルドに任せた。そうすれば、この場ではこう言うしかなかったと、ナサリオも分かってくれるはずだ。
なおも皇帝を追いかけようとするナサリオを騎士達が押え付けた。だが、体格は良いが、あくまで文官であるナサリオに数名の騎士が引き摺られかけた。必死だった。妻子を救わんと宰相にまでなった男がなりふり構わず必死になっていた。
その宰相の姿に、臣下達は理解した。もう宰相は、いや、元宰相は終わりだ。皇帝陛下の逆鱗に触れたのだ。しかも、その怒り尋常ではない。今までナサリオと交流が深かった者は、今後いかにしてその形跡を消せば良いかと早くも頭を巡らせ始めたのである。
その群臣の中にアルベルドの姿もあった。考え込むように口元に手を当てていた。その掌の内で笑みが浮かぶ。
ナサリオに皇帝の心を伝える気は無い。今まで築き上げてきた全てを。愛する妻子を失う恐怖に悶えるがいい。
妻子恋しさに5ヶ国を滅ぼそうとした男だ。家族に対する愛情は異常な程といえる。俺から母を、家族を奪った女の息子がだ。笑わせてくれる。
家族仲良くなど笑わせてくれる。




